ほたるの母親をなだめ、事態を収拾した高瀬川は部屋へと戻ってきた。
 胃が痛む。寝不足とストレスによるものだ。
 胃薬を飲もうと薬品棚へ向かおうとするとき、ちょうど支倉と出会った。
「おや、お疲れ様です」
「ああ……支倉はどうだ、彼女とは話したのか?」
「はい、素直でいい子です」
「……そうか」
 ちら、と支倉が手に持っているものを伺った。それが彼女に睡眠を促すための薬であることを確認する。
「彼女に処方するのか? できることなら、薬は使いたくないんだが」
「万が一です。あの子は、藤崎昴と言いましたか――恋人のことで心が揺れていました。恋は心を不安定にさせます。それは、はっきり言って好ましくない……余計なことを考えられるぐらいならば、眠ってもらった方が良いのですよ」
「そう……だな」
 高瀬川は、ほたるが異常状態にあることを知りながらも、医者として健康体に睡眠薬を処方することにためらいを覚えていた。
 だが、支倉の言うとおり、万が一のことを考えると用心するに越したことはない。今は非常事態なのだ。普段の常識など通用しない。
 支倉は、すれ違う高瀬川の肩を一度軽く叩いた。
「私を信じることが出来ませんか?」
「ん……いや」
「気に病み過ぎないように。全ての事は上手く運びます」
 支倉は、笑みを浮かべた。
 だが実際のところ、高瀬川は心配でたまらなかったのだ。
 もちろん、支倉の腕を信用していないわけではない。高瀬川と支倉の付き合いは長い。彼の腕が立つことは十分に理解していた。
 しかし、今回のケースはかつてないほどに異常な事態なのだ。
 支倉が失敗するはずがない。そう思いつつも、高瀬川は、嫌な予感を拭い去れずにいた。
「では、失礼します」
 だが、高瀬川の心配をよそに、支倉は飄々とした様子で部屋を出た。
 部屋に一人残され、静寂のみが空間を支配する。そのとき、高瀬川は自分の肌があわ立つのを感じた。
 医者が恐れてどうする、と、深呼吸をして、薬品棚へ向かった。キリキリと胃が痛む。
 胃薬を飲む。急に効くはずは無いが、それでも、すう、と少し楽になるのを感じた。
 心配しすぎなのだろうか、と、高瀬川は天井を見上げる。
 吸い込まれそうなほどな白と、蛍光灯の光に目がくらんだ。
 騒々しい足音を立てて支倉が部屋に入ってきたのは、ちょうどその時だった。
 支倉の形相は、ひどく歪んでいて、普段の冷静沈着なものからは到底想像できるものではなかった。高瀬川も初めて見る友人の姿に驚きを隠せない。
「どうしたんだ」
「やられました、悪魔憑きに逃げられました」
「逃げられた? どうやって?」
「窓が……開いていました」
 支倉が、手にした薬をぐしゃ、と握りつぶした。
 高瀬川の胃は、再び痛み出した。

 ◇ ◇ ◇

 少し昔の話だ。
 それはまだ、昴たちが中学生の頃のことだ。
 有紗が昴を守らなければならないと思うきっかけとなった、例の事件があってから、彼女は積極的に彼と接するようになった。
 それは、会えば挨拶をし、休み時間に暇があれば話しかけ、お互い予定がなければ一緒に下校する……そんな些細なことだった。
 有紗の友人たちは、昴のことを良くは思っていなく、むしろいつもウジウジしていて男らしくなくイジメられていても反抗すらしない、見ていてイライラする、というのが共通の評価だった。
 そのため、彼と接する有紗への逆風は決して弱くはなかった。それは友情を失わせるほどに強くはなかったが、周囲の女子は遠巻きに有紗の思考を疑うようになった。
 ――あんな男と仲良くするなんて、何を考えているのか。
 しかし、有紗はそういった声に気づきながらも、昴の強さを見抜いていたため、気にすることはなかった。
 中学生男子の精神年齢は同年代の女子に比べると低いと言わざるを得ず、対等な存在とは言えなかった。口には出さないが、有紗は男子を見下すこともあった。
 だが、昴は違った。決して大人びているわけではないが、他の男子とは違った強さを持っている。むしろ、その差異のせいで周囲から浮いてしまっているのではないだろうか、と、有紗はそこに惹かれたのである。
 最初は、その心に昴への憧れなど存在していなかった。
 ただ自分だけが昴の良さに気付いているという優越感と、自分が見守らねばならないという責任感、その二つの感情が彼女を動かしていたのだ。

 いつからだろうか、その心に、第三の感情が加わったのは。
 恐らくきっかけなどない。いや、実際きっかけと言えるような大きな出来事はなかった。
 それは日々の積み重ね。毎日学校に言ったら挨拶をする。休み時間になれば話しかける。それが日常になってから、特別な事は一度も訪れなかった。
 それなのに、有紗はある日を境に、昴と会うたびに胸が詰まるような痛みを発するのを感じるようになった。そして同時に気付いていてしまったのだ。昴といられる時間が有限である、ということに。
 最初は責任感と優越感だけだった。しかし、話をしているうちに有紗は昴と一緒にいる時間が楽しいと思えるようになってきていた。
 昴は、やっぱり言いたいこともちゃんと言えない。そもそもまともに会話なんて出来ない。それなのに、たまに見せる笑顔が彼女の胸をえぐるようになった。
 だが、気がつけば時期は中学三年生の冬。受験シーズンになっていた。
 高校に進学すれば、離れ離れになる可能性は高い。
 全く別の世界に切り離されるわけではないので、もちろん会えなくなるわけではない。しかし、同じ学校かそうでないか、この差は非常に大きい。この現実に直面し、有紗の心は鈍い痛みを覚えた。
 ――どうして、離れ離れになるというだけで、こんなに胸が痛くなるの?
 有紗は自分の感情が理解できなかった。
 ――藤崎は、ただの友達なのに――。
 自分で放ったその言葉に、胸がきゅう、と締まる。
 トモダチ、そんな平凡な言葉だけで、どうしてこんなに苦しくなるのか。どうして涙が出てくるのか。
 有紗は、その感情を勉強の邪魔になると、受験のストレスによるものだと無理矢理に隠そうとした。昴は友達であると自分に何度も言い聞かせた。
 そして、その想いを胸の奥に封じ込めた。
 だが、胸からにじみ出る血だけは止まらなかった。
 ジクジクと傷口が傷み、気がつけば勉強をする手を止める。
 何度も、何度も、それが続く。
 いっそ、その気持ちが恋だと認めてしまえば、少しは楽になれたのかもしれない。それでも、有紗は否定し続けた。彼女はあくまで、自分は昴を見守るための存在でありたかった。
 そして、受験に失敗した。

 ◇ ◇ ◇

 大粒の雨が、昴と有紗を打つ。
 セミの鳴き声はもう聴こえない。あるのは、ざあ、という雨音のみ。
 だが、彼らの耳に入るのはそれぞれ自分の鼓動の音だった。
 まるで時間が止まったかのように、二人は動かないまま長い時間が過ぎていく。

 有紗は、目を真っ赤にして昴を見つめる。
 昴は、今の状況が理解できていなかった。
 それでもかろうじて、今、有紗が自分に告白をしてきたことだけは理解できた。ただ、どうしてそのようなことになったのか、それが思考のキャパシティを超えていた。
 昴にとって、有紗は中学時代から仲の良かった友人に過ぎない。
本当にそうだろうか。昴は思い出す。一人きりで学校生活を送っていた彼にとっては、唯一の友人だった。
 しかし、涙を流す彼女の姿なんて、今までに彼は見たことなんてない。いや、そんなことはない。彼は忘れているだけだ。
 セピア色の景色が、昴の目の前に広がる。それは中学時代から今までの思い出の数々。
 思い出す、記憶がどんどんよみがえる。

 懐かしい教室が見える。
 落書きの黒板に、乱れた机、プロレスごっこに興ずる男子生徒に、アイドル雑誌の話題に花を咲かせる女子生徒、校庭を見下ろせば、ドッジボールに燃えるクラスメイトたち。そのどこにも、昴はいなかった。
 しかし、昴のすぐ横、そこには少女の姿があった。彼女は笑顔を常に彼に向け、そして昨日観たドラマがどうだったとか最近部活でこんなことがあったなどと、他愛のない話を語ってくれた。
 学校からの帰り道、下り坂。
 並んで歩く昴と有紗。彼女はやはりそこでも笑顔だった。気がつけば隣にいて、気がつけば彼は彼女と話していた。
 友達なんて一人もいなかったはずの彼に、いつでも笑顔を向けてくれる少女、夕凪有紗。彼も知らず知らずのうちに思わず笑う。
 ――ああ、そうだ。夕凪は僕に、笑うということを教えてくれたんだ。
 思い出す、記憶がどんどんよみがえる。
 それは桜のつぼみが芽吹き始める季節だった。一度だけ、彼女が彼に見せた涙。
 厳しい寒さも去り、春の陽気に包まれた、果てしなく青い空の下でのこと。中学校の校庭の、入り口近くにある桜の木の横で、彼女は目を赤く腫らして立っていた。
 それは、彼にとっては一度も見たことのない姿。だが、彼女は彼の姿を確認すると、笑った。それは春の日差しのように優しく穏やかで、世界を白に染め上げるような、そんな笑顔だった。
 そして、彼女は言う。
 ――受験、失敗しちゃった。これから、三年間よろしくね。
 そのとき、彼はどう思ったのだろうか。
 それは彼自身にもわからなかった。ただ、同じ高校に進学することになったことは、あとから聞いて理解した。
 同じ高校を受験していることは知っていた。それは彼にとっては第一志望であり、彼女にとっては滑り止めという違いはあったが。
 彼女が流した涙の理由を、彼はずっと知らずにいる。だが、その涙を彼はもう忘れた。それから先に彼女が見せたたくさんの笑顔が、その涙を隠した。

 昴は、我に返った。
 今、彼の前にいる少女は、決して仲の良い友人という位置に留めておくことはできなかった。
 それは友人という関係などとうに越えている。今まで一緒に歩んできた。そして、これからもずっと一緒にいたいという関係。
 しかし、それでも恋人という一線を越えることはできない。彼女が想いを秘めていた時間はあまりにも長く、今まで昴は彼女のことを友人としか見ていなかったのだ。
 その心が揺らぐ。友人という壁を乗り越えたいという気持ちが浮かぶ。
 昴は、有紗を見つめる。
 全身を雨水に濡らし、前髪から雫が滴る。同性の友人にはありえない艶やかな姿がそこにはあった。
 彼は、思わず息を呑んだ。告白されたことで、改めて気付く、夕凪有紗は美人だということに。
 同時に巻き起こる葛藤、罪悪感、そして自己嫌悪。
 昴には、七月ほたるという彼女がいるのだ。ずっと憧れてきて、雲の上の存在であったようなほたると、彼は恋人同士になれたのだ。
 それなのに、今の彼は目の前にいる少女に胸を高鳴らせている。それは許されないことだ。浮気だ、と、昴は自分自身を戒める。
 だが、彼は思う。
 果たしてこの先、自分はほたると恋人同士でいられるのだろうか、と。
 彼女と恋人同士として付き合っていくには障害が多すぎる。母親の存在、病気、そして、自分がほたるに嫌われているのかもしれないという可能性。
 ほたるが学校に帰ってきても、再び仲良く一緒に下校できるとは限らない。ひょっとしたら、昴は自分のせいでほたるを入院させる羽目になってしまったのではないか。その可能性もある。
 頭の中で、様々な不安が膨らみ、葛藤を生む。
 そもそも、ほたると付き合っていて楽しいだろうか。緊張して上手く話すことも出来なければ、大分縮まったとはいえ、まだ距離もある。お互いにこれからどうやっていけばいいのか、不安な事だらけだ。
 負の感情が、徐々に昴を追い詰めていく。
 ――どうなんだ、藤崎昴。お前は、ほたるのことが好きなのか?
「……ごめんね」
 静寂を破ったのは、有紗の声だった。
「変なこと言ってごめん。困るよね、急にこんなこと言われても……ううん、でも放っておけなかったらから……藤崎、ごめん」
 有紗の頬を一筋の雫が伝う。もちろん、それは雨ではない。
 昴の胸が高鳴る。もはや今、この切り取られた世界では、目の前にいる少女が全てだと映った。
 昴は、思う。ひょっとしたら、自分も有紗のことが好きなのではないか、と。
 葛藤。
 ――ほたるがいるのに、他の女の子を好きになるなんて、そんなこと許されない。
 揺れる心。
 ――でも、これから先、ほたると付き合っていける自信がない。
 悪魔の囁きが耳に。
 ――なあ、藤崎昴。よく考えろ、これからの高校生活、夕凪有紗と付き合っていけたら楽しいんじゃないか? 夕凪と一緒なら楽しい。緊張しないで話すことだってできるし、一緒に遊びに行く事だって簡単に出来る、何より、いつも笑顔でいられるだろう?
徐々に、罪悪感が薄れていく。葛藤が失われつつある。自己嫌悪などとうに彼方の空へと消えていた。
 昴は、七月ほたると、夕凪有紗、その二人の女性を天秤にかける。そして決意を固める――

「藤……崎?」
「夕凪……僕は、君が好きだ」
 気がついたときには、昴は有紗のすぐ近くに立っていた。それは、お互いの息遣いが聴こえるほどの距離。今まで決して立ち入ることのなかった距離だ。
「え、あ……ありがと……」
 だが昴は、首を振った。

「でも、僕はほたるを裏切ることは出来ない」

 それは、とても残酷な、しかしはっきりとした強い意志を持った一言だった。
「藤崎……」
 有紗が、両手で顔を覆う。堰を切ったように嗚咽が漏れ出した。
「ごめん……私の中にあるこの気持ちをどうしたら良いかわからないの。私、ほたるにひどいことしてるよね。友達なのに、大切な友達なのに……自分のエゴで 藤崎にこんなこと言って……でもね、でも、ごめん、もう我慢できなかったの。私、藤崎のことが……ずっと、ずっと……!」
 そこまで言って、有紗は喉の奥から搾り出すように大声で泣いた。
 雨脚が強くなる。大粒の涙が、雨と混じって零れ落ちる。
「――っ……行こう、ここにいたら風邪引くよ」
 昴は、有紗の手を取って、歩き出した。それはとても自然な動作。
 普通の付き合っている二人がするような、そんな動作だった。
 しかし、そこに赤い糸は紡がれていない。
 カタチだけの、繋がりだった。

 ◇ ◇ ◇

 丘を下るバスの停留所に、二人はやってきた。有紗はそれまでずっと泣き続けていた。
 バスの本数は少なく、次に来るまで三十分以上待つことになる。
 お互いに身体は冷え切っていた。雨のしのぐために屋根の下に入り、手を離し、ベンチに腰掛ける。
 そして訪れる静寂。二人の間に気まずい空気が流れ始める。
 昴は何も言い出せずにいた。言い出せるはずもなかった。
 自分に対して抱き続けてきた想いに対し、彼は拒絶という手段をとった。すなわちそれは、相手の想いを打ち砕くこと。あまりに残酷な行為。
 しかし、昴の心は決まっていた。ほたると有紗を天秤に掛けること自体間違っていた。彼の想いはただ一つ、七月ほたるを愛し、信じ続けること。

「覚えているかな……前にもこうして二人で雨宿りしたことあったよね」
 均衡を破るように、静寂の中で言葉を最初に放ったのは有紗だった。
「……そんなことあった?」
「そう言うと思った。藤崎は何でも昔のこと忘れちゃうんだもん。まだ中学生の頃だったかな、一緒に帰る途中に急に大雨が降ってきてさ、パン屋さんの前で雨 宿りしたじゃない。あのとき、お店のおばさんが、揚げたてのカレーパンをくれて……はんぶんこして食べたんだよ。忘れちゃった?」
「あ……カレーパンのことは覚えているけど。雨宿りって、そのときだったんだ」
「あはは、藤崎は食べ物のことしか覚えていないんだね。あのおばあちゃん、去年亡くなっちゃったんだって。この間行ったら、お店が閉まっていて、すごく寂しかった」
「そうなんだ……」
彼女が何を言いたいのか、彼にはわからない。
「なんだか、町も人もどんどん変わっていくんだよね。たった数年のことなのに、いっぱいいろいろなことが変わっちゃう。同じように私も藤崎も変わっていくでしょ? それを思うとね、なんだかとっても切なかったんだ」
 そう言って、有紗は、頭を昴の胸に預けてもたれかかる。突然のことで、昴は抵抗できなかった。
「ゆ、夕凪?」
「藤崎、好きだよ。とっても、とっても好きなんだ。だから、私のことを許して。」
 それからしばらくの沈黙。トタンの屋根を叩く雨音だけが響く。
 昴は、まず息を大きく吸い込み、吐き出す。そして、落ち着いてから口を開く。
「夕凪、駄目だ。駄目なんだよ、僕にはほたるがいるから――」
「お願い」
 そして、またしばらくそのまま。
「今だけ、ちょっとだけでいいから」
 とくん、とくん、と早い心臓の音がリズムを刻む。昴の鼓動は有紗に届き、有紗の鼓動もしっかりと昴に伝わっていた。
「夕凪、駄目だってば……!」
 しかし、有紗はそのまま動かなかった。昴の方からは彼女の顔は見えなくて、どんな表情をしているのかを見ることは出来なかった。
 それでも、震える肩が、彼女が泣いていることを明らかにしていた。
 罪悪感。
 昴の胸に広がる感情は、それだった。
 無理に有紗を引き剥がすことは出来なかった。泣いている彼女にこれ以上追い打ちをかけることなんて出来ない。
 雨音は止まない。
 そこには二人の鼓動が確かにあった。
「今だけで……いいから」
 有紗はそれだけ言うと、同じリズムを刻む心臓の音を聞きながら、目を閉じる。
「私を慰めて」

 ――どくん。

 そのとき、彼のリズムが、変わった。
 有紗が顔を上げる。
「どうしたの?」
「あ……」
 昴の視線は、バス停の屋根の外に向けられていた。心拍数がどんどん上がっていく。
 何があったのか、と、有紗も同じ方向に目を向ける。

 直後、有紗は、心臓が凍りつくような恐怖に襲われた。戦慄が全身を駆け巡る。

 ひた。

 足音が一つ。
 二人の視線の先には、七月ほたるの姿があった。
 寝巻きに裸足という心もとない格好で、全身を雨に打たれ、彼女は立っていた。
 濡れた顔に張り付いた髪の間から、その視線が二人を射抜く。
 混沌とした色に光る瞳、そこからあふれ出した涙が頬を伝う。感情が取り払われ、人形のように虚ろな表情。そんなほたるを、二人は今までに見たことがなかった。
 嫌な汗が背中を伝うのを、有紗は感じた。雨の中に立つその少女は、背中に闇を背負い込んでいるかのように、重く、そして冷たい存在感を放っていた。本能だろうか、逃げなければいけない。頭の中でアラートが点滅する。
 ――何故? 相手は七月ほたる……自分の友人ではないのか?
 彼女のそんな思いに、今さら何の意味があろうか。今の有紗は、ほたるにとっては裏切り者以外のなにものでもない。
 それでも有紗にも覚悟があったはずだ。友を裏切ってでも、自分のエゴを突き通すという覚悟が。
 だが、ほたるのその様子に、有紗は気圧される。
「……泥棒」
 まず口を開いたのは、ほたるだった。
「信じていたのに……泥棒」
 その声は、低く暗い。怒りと恨みの混じった、そんな声。
「……昴くん、ひどいよ。どうして、有紗ちゃんと抱き合っているの? あたしがいるのに、どうして? ねえ、どうして?」
 ひた、と、ほたるが一歩を踏み出す。有紗と昴は弾けるように離れた。今さら遅すぎるが、それでも潔白を主張するかのように、昴は両手を広げる。
「ほ、ほたる……違うんだ。これは……その……」
「言い訳なんていらないよ、全部見ていたもん」
「う……」
「でも、昴くんは悪くないよ。昴くんだって男の人だもん、仕方ないよね。ちょっと女の人に誘惑されたら、その人のなすがままになっちゃうんだよね……いやらしい」
 汚いものでも見るかのように軽蔑するような視線。それが昴に突き刺さり、彼は一歩たじろいだ。
「有紗ちゃん、あたし知っていたよ? 有紗ちゃんも昴くんのこと好きだってこと。有紗ちゃんは嘘をつくのが下手だから、あたしに何か隠し事をしていること ぐらいわかっていたし、それが昴くんに関係することだってわかっていたよ。それでも、あたしの恋を応援してくれて、自分の心に嘘をついてまで助けてくれ て、 本当に嬉しかったんだよ。でもね、こういうやり方はフェアじゃないんじゃないかな? 昴くんのことが好きだって、自分の心に嘘をつき続けられないなら、最 初からあたしのこと、応援しなければ良かったのに」
 また、一歩。ほたるが進む。だが、有紗は後に下がりはしなかった。
「ほたる……私は……私は怖かったの。長い間藤崎と友達でいられたのに、藤崎に想いを伝えてその関係が崩れてしまうのが……だから、友達のままでいたいっ て思っていたんだよ。それに、ちょうど、ほたるが藤崎に憧れていることを知ったから、だから、ほたるの恋を応援する方が良いと思った……本当だよ」
「話、かみ合ってないね、だから何なのかな。それで、あたしが昴くんと付き合ったら、諦めがつくとでも思ったの? バカみたいだね」
「……っ」
 ほたるが言う通りだった。有紗は、壊したくない自分の想いを守るために他人の応援をして、そして無理矢理に心に蓋をしたのだ。それを、彼女自身愚かだと思わなかったことはない。だが、彼女には勇気が足りなかった。何よりも、昴に嫌われることが怖かったのだ。
「それで、このタイミングを選んだんだね。あたしがいなくて、昴くんが弱っているとき。昴くんの心の隙間に入るのなんて、容易いんでしょ? わかった、最 初からそのつもりだったんだ。あたしと昴くんが上手くいかなくなったときを狙って、その隙に昴くんを横取りしようと考えていたんだね」
「ち、違うっ……! 私はそんなこと考えてなんかいない……!」
「じゃあなんなの? 有紗ちゃん、戸山くんに告白されたんだよね。それでも断った。有紗ちゃんは戸山くんのこと嫌いだとも思っていなかったし、むしろ仲良 くもしていた。あたし、戸山くんと有紗ちゃんはお似合いのカップルになれると思ったよ。でも、昴くんのことに諦めがつかないから断ったんでしょう、そうだ よね? だって現に有紗ちゃんは、昴くんに手を出してるよ? だよね? そうだよね? ねえ、そうだよね?」
 ほたるが、圧倒的な威圧感を漂わせながら二人に近づく。小柄なほたるが、今は有紗よりも遥かに大きく見えた。
 有紗の今の様子はまるで、蛇ににらまれたカエルのよう。彼女は、何も言い返すことが出来ない。確かに戸山淳の告白を彼女は断った。それは、昴を想うゆえの行動に他ならない――。
「わかってきたよ。つまり有紗ちゃんは、昴くんと付き合うためには何か大きなきっかけが必要だから、そのきっかけを作るためにあたしを利用していたんだね。友達だって信じていたのに。最低だね」
「ほたるっ……! 私はそんなことまで考えてなかった! でも耐えられなかったの、藤崎が弱っているのを見るのも、自分の心に嘘をつくのも……許してもらうことなんてできないかもしれない……ただ、私は……」
「うるさい」
 その声が、低く、響いた。
「もういいよ、あたし、有紗ちゃんがそういう人間だってこと、わかったから」

 その言葉を言い放った直後、ほたるの白い右腕に、黒い影が渦を巻いてまとわりつき始めた。彼女の右腕は、禍々しく、そして怪しいマーブル模様のように変色していく。
 ほたるの瞳が淀む。周囲を黒いオーラが包み込む。
 その異常な光景に、有紗も昴も目を見張る。だが、何事が起きているのか頭の中で整理する時間はなかった。
 次の瞬間、ほたるは地面を蹴り、有紗に飛び掛っていった。その瞬発力たるや運動部の有紗でさえ反応できないほどで、普段ならば考えがたいことに、ほたるの運動能力は有紗を上回っていた。
 そして、有紗に肉薄したほたるは、その両手で首をつかむ。

 ぎり。

「……か……は……」
 黒く染まった手が、有紗の首を締め付ける。
「信じてたのに、信じてたのに、信じてたのに、有紗ちゃんのこと信じてたのに……!」
 必死に首をつかむ手を引き剥がそうとする有紗。だが、その腕はまるで動かない。
「やめろ、ほたる!」
 昴が、割って止めに入る。そしてほたるの腕を掴むが、昴の力でもその腕はちょっとやそっとじゃ動かない。
「昴くん、何で止めるの……? そう、あたしよりもこの女の方が大切なの? 病気で倒れて面倒くさい女は、捨てちゃえばいいって言うの……?」
 ボロボロと涙を流しながら、しかししっかりと掴んだ腕の力を緩めることなく、ほたるは言う。
「違う……違うよ、ほたる! 僕はほたるが好きだ!」
「……嘘つき……有紗ちゃんのこと抱きしめていたくせに! 手を繋いでいたくせに! 信じてたのに……」
「ほたる! それは誤解だよ……ああ、もう! だからこんなことしちゃ駄目だ! 人を傷つけるほたるなんて見たくないんだ!」
 昴が叫んだ。そして、渾身の力を振り絞り、そうやってようやく有紗をほたるから解放することに成功した。
 激しく咳き込む有紗。ほたるは、彼女をにらんだまま動かない。
「信じてたのに、信じてたのに……」
 壊れた人形のように、その言葉をリピートするほたる。
 昴は、その身体を優しく抱き寄せた。
「ほたる……僕は君を捨てたりなんかしないから、僕が好きなのは、ほたるただ一人だけだから……ごめん……僕を許して……」
「……信じてたのに、信じてたのに、信じてたのに……う、信じて……たの……う、うわあああああああっ!」
 ほたるが小さな身体を震わせて、大声で泣く。
 彼女の身体は、細くて、柔らかくて、ガラス細工のように壊れやすそうで、昴はただ、抱きしめることしかできなかった。
 彼女の腕に伸びていた影は、消え去っていた。ただそこには、か弱い少女の姿だけがあった。

 赤い糸はしっかりと紡がれている。それを有紗は呆然と見ることしかできない。痛むのは、絞められた首だけじゃない。胸の奥が張り裂けそうな痛みを発していた。
「ふじ……さき……あの、私……」
「――夕凪、僕はほたるが好きなんだ」
「ん……」
「気付いたんだ、僕はほたるを守らなきゃいけないって。だから夕凪……ごめん」
「藤崎……お願い、お願いだから……一度でいいから、私のこと下の名前で呼んで。有紗って呼んで……」
 有紗の瞳が揺れる。止めることもできず、ただ涙が溢れてくる。
「……それじゃ、夕凪」
「いや……行かないで……あんまりだよ、こんなのって……ねえ、藤崎!」
「……また、明日」
「う、うう……ううううう……!」
 地べたにへたり込む有紗。彼女の見た夢は夢のまま溶けて雨と一緒に流れ出す。彼女の想いはうたかたのように弾けた。夢からうつつへ、しかし、その世界はあまりに辛く寒い。彼女にできることは、嗚咽を上げて涙を流すことだった。

 ちょうどその時、昴は腕の中の重量が増したことに気付いた。見ると、ほたるは気を失っていた。
 その軽い身体が、全体重を昴に預けている……そんな状況だった。そして、先ほどと同じように、ほたるの身体に黒い影が渦巻き始める。胸を中心に、身体全体へと放射状にその触手を伸ばし始める。
「ほたる? どうしたんだ、ほたる……?」
 記憶がフラッシュバックする。数日前、デートの帰りに倒れたほたるの姿が重なる。今度は入院中に無理をして雨の中飛び出してきたのだ。昴はほたるの病状を知らされていなかったが、現状が、尋常ならざる事態であることは火を見るよりも明らかだった。
「ほたる……! 早く、早く病院に戻らないと……」
 昴は、ほたるの肩と足に手を通し、抱き上げようとする。しかし、華奢に見えるほたるの身体が持ち上がらない。決して昴の力がないわけではない。ただ、気を失った人間を持ち上げるのには、多大な労力がかかるのだ。
「くそっ、くそっ……!」
 焦る。このまま放っておくと目を開けないような気がして、昴は必死で抱き上げようとする。しかし、そうしようと思っても彼女の身体は重く……。
「……いたぞ」
 第三者の声がした。
 同時に数人の白衣を着た人間が駆け込んできた。それを見て、瞬時に病院の人間である事は理解できた。彼らは気を失っているほたるを見ると、すぐに担架を用意し、ほたるから昴の身体を冷たく引き剥がす。
 数人の男たちが、ほたるを連れて急いで病院へと駆け戻っていく。一瞬の出来事に呆然とする昴を、一人の男が見下した。
「来い」
 ただ、彼はそれだけ言うと。病院へと駆け足で戻っていく。昴も、戸惑いながらもそれに従った。
 波乱の巻き起こったバス停には、嵐が過ぎ去った後のように静寂が残されていた。
 その中心で、有紗は彼らの背を見る。もはや心ここにあらずといった様子で、呆然と、ただ、地面にへたり込むのみ。
 バスの金色のライトが、バス停を照らすまで、彼女はそこで涙を流し続けた。
 枯れない涙は、ただ、溢れ続けた。

 ◇ ◇ ◇

 気を失ったほたるは、病院に運び込まれるとすぐさま緊急治療室へと連れて行かれた。
 病院の奥にある専用のエレベーターへ入ると、男は鍵を通し、蓋に隠されていた地下行きのボタンを押した。地下の通路の奥には治療室が用意されている。それは、普段は全く使われない、専用の治療室であった。
 このことは外部の人間はおろか、病院内部の人間にすら一部にしか知られていない。エレベーターが開くと、男は再びボタンを隠し、鍵をかけた。
 そして、治療室へと入っていく。そこに待っていたのは手術服を着た支倉と高瀬川の姿だった。高瀬川は緊張を隠せないといった様子で、支倉は凛とした様子で、それぞれ立っている。
 治療室の様子は、普通の病院とは大きく異なっていた。この部屋のみ、病院から切り離されているよう。通常ならば白いはずの壁や天井は灰色に塗られており、部屋の雰囲気を全体的に暗く重厚なものへと印象付けていた。
 ほたるが部屋の中央にあるベッドに寝かされると、支倉は彼女に近づく。ほたるの身体には黒い影がまとわりつき、白い肌を覆いつくそうとしていた。支倉はそんな彼女の痛々しい様子を見ると、力強い声を一言放った。

「では、始めます」
 それを合図に、部屋全体がピリリと緊張に包まれる。ここから先、この部屋は一瞬のミスも許されない、彼らによる戦場となるのだ。
 支倉が右手をほたるの上にかざす。そして目を閉じ、精神を集中させる。それは深く、深く、彼自身の意識の奥底へと落ちていくような深い瞑想。
 彼の右手が輝き始める。額からは大粒の汗が浮き出す。鬼気迫るほどのオーラが支倉の周りに集中していて、その強さたるや何度も共に行動してきたはずの高瀬川も気圧されるほどだった。
「……逃がしません。私は、必ず貴方を討ちます……!」
 支倉が呟く。物騒なその言葉は、ほたるの中にいるものに向けられていた。
 右手の輝きが増す。先ほどよりもより強く、神経をとがらせていく。それはまさに、全身全霊を賭けた行動であるといえよう。支倉は強く念ずる。強く、強 く、より強く、さらなる意識の奥へともぐりこんでいく。そこに広がるは深遠の闇、一度落ちたらもう二度と這い上がれないような、まるで奈落の底の如き闇へ と、入っていく。
 そして、果てしなく続く闇の奥で、確かに彼は見た。ほたるの体内に潜む、暗黒の姿を。

 それは、未だ正しい形を持たない、まるでアメーバかなんかのような混沌の塊だった。だが、発するエネルギーは果てしなく強く、今にでもほたるの身体全てにその触手を伸ばし、彼女自身を喰らい尽くしてしまいそうなほどであった。
「……見つけましたよ、アバドン」
 支倉は、その混沌と対峙する。アバドンと呼ばれた混沌は、言葉の意味が理解できたのかは定かではないが、まるで彼を挑発するかのようにその体躯を変化させ、無数の触手を作り出す。
「私は必ず貴方を討ちます。人類の未来を守るため、そしてこの少女を救うためにも、私は負けません……」
 支倉の言葉に呼応するかのように、混沌は触手を自在に動かした。そして、その姿は更なる闇の深みへと消えていこうとする。
「逃がしません……!」
 支倉も更なる闇へとその姿を追う。見失わないように、脳の血管が焼ききれるような感覚も無視し、自分の限界を超えた深みへと臆することなく向かう。
 その奥で、混沌は彼を待ち構えていたかのように、存在していた。

 ――ククク。

 支倉は、そこで、混沌が自分をあざ笑う声を聴いた。支倉の表情が歪む、そして、その真実を目の当たりにした瞬間、彼は悲鳴を上げた。

 ◇ ◇ ◇

 昴は、病院の待合室で待たされることになった。
 もうすっかり外は暗く、待合室にいる人も少ない。ほとんど静寂に包まれたその空間はやむなくとも昴に数日前の夜を思い起こさせた。
 あの日の夜と、状況は似ている。倒れたほたると、ほたるを守れなかった自分への怒り。さらには有紗との一件もあった。それによって招いてしまった誤解が、彼女をこうして追い詰めてしまった。
 どうかしていたんだ、と自分を慰めようとするが、どうかしていたでは済まされる問題ではない。一時的にとはいえ、勝手な思い込みでほたるのことを疑っ た。中途半端な気持ちで有紗と接してしまったがゆえに、彼女も深く傷つけてしまった。それは決して許されることではない。二人の少女の心に冷たい刃を突き たててしまったのだ。
 昴の心の中には、不安と恐怖と後悔だけが渦巻いていた。最初からほたるを信じきることが出来ていたら、こんなことにはならなかったのではないか。
 しかし、後悔しても遅かった。現実は無情にも彼の前に訪れ、その結果、こうして彼自身に罰を与える。

 ――苦しい、怖い、寒い、胸が痛い。

 その感情は昴自身の中から巻き起こる。彼を押しつぶそうと、感情の波が何度も何度も押し寄せてくる。この状況が長く続いたら、昴はどうかしてしまったかもしれない。終わらない負の感情の海へと、沈んでしまいそうだった。
 だが、その感情を跳ね除けるほどの強い想いが、彼の中では渦巻いていた。もう迷うことはない。その決意が、彼の心を支えている。
「藤崎昴」
「……高瀬川先生」
 その声の主は高瀬川だった。先ほど会ったときとは別人であるかのような妙にやつれた表情で、彼は立っていた。
「ついて来い。もはや君は、部外者ではないのだから」
「……? はい」
 意味深長な言葉を発し、高瀬川は奥の通路へと消えていく。昴は急いで席を立つと、彼を追った。

 職員専用の立て札を横切り、白い通路を奥へと向かう。
 同じ病院内とはいえど、一般人が立ち入ることのできないその空間は、やはり空気が異なる。昴は少し緊張しながら、高瀬川のあとをついていく。
 そうして案内されたのは、四角い小さな部屋だった。小さな机と椅子が置いてあるのみで、それ以外には何もない、殺風景な部屋だった。刑事ドラマでよく見るような、取調室みたいだと、昴は思った。
 部屋の中には、高瀬川以外にもう一人人が立っていた。白衣を着ていたので一瞬わからなかったが、その印象的な銀色の眼鏡とオールバックの髪型には見覚えがあった。
「あ、あなたは……えっと……」
「覚えてくれていただけて光栄です、藤崎昴。改めて自己紹介をしましょう、私は支倉御影……以前、美術館でお会いしましたよね」
「あ、はい」
 そうしてようやく、頭の中にあったピースがはまった。しかし、何故あの美術館にいた人がここにいるのかは理解できなかった。
「まあ、座ってください」
 支倉に促され、昴は椅子に座る。対面に支倉が座り、部屋の隅にあった椅子に高瀬川もまた腰掛けた。まるで、本当にこれから尋問が始まるかのようで、昴の背筋は思わず伸びる。
「緊張しなくても結構です……とは言ったものの、緊張するべき自体であることには違いないのかもしれませんが……まあいいでしょう。藤崎、貴方には伝えなければならないことがあります。わかっているとは思いますが、七月ほたるのことです」
 それは昴もわかっていた。だが、自分のやったことの後ろめたさが、その話題を避けたいと思っていた。
「藤崎、逃げることはできません。真実をしっかりと受け入れていかなければ困ります。いいですね」
 そんな彼の心を見通すかのように、支倉は言った。眼鏡の奥の瞳が、昴の瞳をとらえていた。
「はい」
 昴は、力強く答えた。迷いは振り払った。
「……いいでしょう。藤崎、貴方も見たと思いますが、ほたるの今の状況は単なる病気によるものではありません。彼女には悪魔が巣食っているのです」
 悪魔、という聞きなれない単語が飛び出してきた。いや、小説やゲームでその単語に触れることは多くあるのだが、現実の世界でその単語を聞くことになるとは思っていなかった。現実味の無い話に、昴は眉を潜めた。
「藤崎は、悪魔の存在なんて信じないでしょう。ですが、悪魔は確かに存在します。絵本やゲームなどではフォーク型の武器を持ち、黒い羽根を生やした生き物 として描かれることがありますが、実際のところ、ちゃんとした形状はなく、むしろ目に見えない形で悪魔は存在するのです」
 支倉は、耽々と語る。昴も、言葉の一つ一つをしっかりと追っていく。
「悪魔は、この世に生まれ出でる為、まず人の心に巣食います。不安や嫉妬、恐怖といった負の感情を糧にやつらは成長し、十分に育った後、誕生します。つまり、ほたる自身が悪魔にとっての揺りかごとなっているということです」
「……その、悪魔は、生まれたらどうなるんですか」
 不安を隠せない表情で、昴は訊ねる。支倉の言っていることが冗談で無いことは、徐々に理解し始めていた。
「悪魔は、生まれた後、この世に災いをもたらす存在となります。時に人に憑依し、邪悪な存在として君臨し、社会の秩序と道理を破壊するほどの力を持つもの も現れます。しかし、もちろん人間側が指をくわえて黙ってみているはずがありません。悪魔とて絶対な存在ではありません。古来より、教会は邪悪と対立して きました。その過程において人間は神の御業を授かり、悪魔を倒す術を得たのです。そうして選ばれた人間の一人が私……エクソシストと呼ばれる人間なので す」
 昴は、ただ唖然とするしかできなかった。真実を受け入れろ、と言われても、どこからが真実であるのか、そもそも全てが虚構の世界の話のような気がしてならなかったのだ。
 だが、現実はそこにある。ほたるの周囲に表れた黒い影……その光景を、昴は鮮明に記憶していた。悪魔と呼ばずしてあれを何と呼べばいいのか。ここは否定 せず、全てを受け入れることが最適であることを理解する以外になかった。少なくとも、支倉と高瀬川が真剣な表情で昴を見ている間は、信じざるを得ない。
「藤崎、確かに普通の人間にはいきなり言われても信じがたい話だと思います。そもそも、悪魔やエクソシストの存在を知るものはほとんどいません。なぜなら ば、こういった話を明るみにしたとしても、社会に不安をもたらすのみで、メリットは限りなくゼロに近いのです。そのため、世界各地に表向きは病院の形で支 部を置き、秘密裏のうちに悪魔を処理しているのです。今回のケースも、私たちのみで処理し、適当な診断書を書いて終わらせるつもりでした――しかし、ほた るに巣食う悪魔に関しては、状況が大きく異なりました――」
 そこで一旦、支倉は口を閉ざす。そして、一呼吸置いた後にゆっくりと口を開く。部屋中に緊張が蔓延した。
「ほたるに巣食う悪魔は、アバドンと呼ばれる悪魔……滅ぼすもの、奈落の王……まさに、この世界を滅ぼすほどの強大な力を持つ悪魔なのです」
「世界を……滅ぼすだって? どうして、そんな……そんなことって、あるんですか!」
「以前から予言されていたことです……今年の七月、やつが生まれる、と。やつが生まれたとき、世界は滅ぶと言われています。もちろん、そんなものの誕生を 私たちが許すはずなどありません。四方八方に手を尽くし、あらゆる手段を講じてアバドンを探しました。そして、私は藤崎昴、貴方という存在にたどり着いた のです」
「……え、僕……?」
 昴は、この話に自分が関係しているとは思っていなかったので、名前を呼ばれたことに激しく動揺した。
「……はい、様々な占いや予言が貴方を導き出しました。そのため、私は貴方との接触を試みたのです。しかし、貴方はアバドンを身体に宿していることもな く、至って普通の青年でした。それでも、貴方が導き出されたのには何かの理由があるはずだ――と、私は貴方をマークし続けることにしました。その結果…… 貴方の一番近くにいた少女、七月ほたるから、アバドンの種が発見されたのです」
「つまりお前は、キーマンだったのだ。アバドンに関して、な」
 それまで黙っていた、高瀬川が口を開いた。
「僕が……キーマンって……じゃあ、ア……アバドンが、ほたるに巣食ったのは僕が原因なんですか! 僕のせいで……僕のせいで、そんな世界が滅ぶなんてそんなことに……!」
「落ち着いてください。高瀬川も言い方に気をつけてください……私も言葉足らずでした。あくまで、貴方はアバドンに関して何らかの関わりを持っているということが導かれたというだけで、貴方が原因というわけではありません」
「……そ、そうなんですか……なら良かった……」
 昴は、少しだけ安心をして息を吐く。だが、支倉の視線が相変わらず鋭いままだったため、慌てて背筋を伸ばす。
「いいはずがありません。藤崎、実はここからが本題なのです。ほたるにアバドンの種が宿っていることを早い段階で知ることができたことは、かなり幸いなこ とでした。まだ生まれていない悪魔には力がありません。やつが世界を滅ぼす力を持つといえど、処理をするのは容易いことでした。しかし、ここに来て誤算が 生じました。極めて大きな誤算です。先ほども言った通り、悪魔は人の負の感情を糧に、弱っている心の中で育ちます。それなのに本日、ほたるは強力な負の感 情に支配されてしまいました……そう、病室を抜け出して、貴方を追うという予想外の行動に出たのです」
 昴の顔から、血の気が一気に失せていく。胃がひっくり返り、心臓を鷲づかみにされたような感覚がした。
「ほたるが、病室から抜け出した先で何を見たのかはわかりません。しかし、それは、貴方自身がわかっていることだと思います」
 もちろん、わからないわけがなかった。昴がしたことは、ほたるに対する裏切り行為。一瞬とはいえ、彼女をへの想いが揺らぎ、疑い、結果としてほたるの心 を深く深く傷つけてしまった。昴は、今すぐにでも耳をふさぎ、そのまま逃げてしまいたかった。だが、そんなことが許されるわけも無く、支倉は次の言葉を紡 ぐ。
「……結果、ほたるに巣食う悪魔は成長し、ほたるの身体との融合を始めました。つまり、誕生のための準備です。それでもまだ、悪魔に癒着された部分をどうにか することで間に合います……しかし、非常に厄介なことに、やつが始めにその歯牙を伸ばしたのは――」

 昴は罪の意識という大波に襲われるのを感じていた。
 この先は聞いてはいけない。絶対に聞いてはいけない気がする。胸が万力で締め上げられていくようにキリキリと痛む。限界寸前だ。
 しかし、支倉は容赦なく、言い放った。

「心臓でした」

 昴は、自分の意識が深い海の底へと堕ちていくのを感じた。
 そのまま、目覚めなければいい、と、彼は祈った。


 第四章、完

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