「――それで、どうするつもりなんだ、支倉」
苛立ちの混じった口調で、高瀬川が言った。
先ほどから支倉はしきりにあちこちへ電話をしていたようだが、一時間ほどそれを続けた後は部屋に戻り、今は元のスーツ姿に着替えてタバコをふかしていた。
「ここは病院だ。タバコを吸うのなら、外でやってくれ」
その言葉に支倉は少し眉をしかめ、少々名残惜しそうにタバコを見つめたあとに、携帯灰皿へと捨てた。
「どうするつもりもこうするつもりもありません。もはや、アバドンが誕生するのは時間の問題です。それまでに出来る限りのことをする……それしかないでしょう」
支倉の顔にも疲労の色が浮かんでいた。それもそのはず、彼もまた眠っていないのだ。
「タバコを吸うことが、出来る限りのことなのか?」
「……そうですね、これが今の私にとっては最善の手でしょう。タバコはいいですよ、心を落ち着かせます。苛立っていては上手くいくものも上手くいかなくなってしまいます」
「支倉、アバドンは心臓に癒着している。医学ではもう限界だ。エクソシストの君にしか彼女と世界を救うことはできない……」
「わかっています。アバドンの誕生は即ち世界の終焉……ノストラダムスの予言が現実のものとなってしまいます。恐怖の大魔王は空から降ってくるものではなく、地上から生えてくるものでしたが」
「私は、君のことを非常に高く評価している。これまでだってそうだった、どんなに困難な状況であっても、君の力で悪魔を倒し、多くの災いを未然に防ぐこと ができた。今回は今までよりもはるかに困難で重大な事態だ。だが、それでも君ならばやってくれると信じている」
高瀬川は、心からその言葉を贈った。支倉は相変わらず無表情のままだが、ありがとう、と返す。
「しかし……藤崎を彼女の部屋へと連れて行って大丈夫なのか……? またアバドンの成長を促進させるということには……」
「いいえ、もう藤崎は大丈夫でしょう。むしろ、ほたるは藤崎と一緒にいた方が、心が安定しています。時間稼ぎには二人を一緒の部屋に置いておく方が安全です。今回は様々な不運が重なってしまい、このような事態を招いてしまいました。ですが、もう絶対にミスはしません」
高瀬川は、その支倉を見て頼もしさを感じた。世界の終焉と隣り合わせにある現在でも、彼がいる限りは大丈夫であると信じることが出来た。
昴は、真実を知った後、失神しかけたところを何とか持ち直した。
支倉は、彼に今世界を救えるのは昴本人であるということを自覚させ、さらに、罪の意識があるならば彼女と会うことが一番の罪滅ぼしであることを理解させたのだ。
その結果、昴は現在、ほたるの部屋にいる。もちろんそれが、全て上手く言いくるめられたということは自覚していないが。
「それで支倉、解決策はあるのだな?」
「ええ、あります。至ってシンプルな手段なのですが、いかんせん面倒でして……そのために、先ほどから複数の場所へと連絡を取るハメになっているのです」
支倉はやれやれ、といった様子でポケットから再びタバコを出した。もはや癖となっているため、本人は先ほど注意されたことを忘れていた。
高瀬川が呆れ顔で再び注意しようとしかけたとき、電話のベルが鳴った。支倉はタバコを再び箱に戻すと、すぐに受話器を取る。
そしてしばらく、会話をする。支倉はほとんど相槌を打つのみで、相手との会話の内容を高瀬川は知ることができなかった。
「――はい、わかりました。では」
支倉は電話を終え、受話器を置くと急に真剣な表情へと切り替わった。
早足でその場を離れると、スーツケースを開く。
「支倉、いよいよなのか」
「――はい、今、話がつきました」
支倉の手が、スーツケース奥にあった小さな箱へと伸びる。その箱には暗証番号のロックがついていたため、彼は高瀬川の視界に入れないように、身体に隠してロックを解除する。
「そうか……よし、では早速準備を――」
「いいえ、準備は必要ありません。すぐに終わることです」
支倉はスーツケースを閉じると、立ち上がる。
高瀬川は彼の手に握られているその物体を見ると、表情を凍りつかせた。
「世界を救うために、七月ほたるを殺します」
支倉が握っていたのは、拳銃だった。
◇ ◇ ◇
時間は少々前へと遡る。
昴は支倉に連れられて、二階にある隔離病棟の一室の前へとやってきていた。息は荒く、動悸も不安定、今にも倒れてしまいそうな彼だが、呼吸を整えて部屋の扉を開ける。
扉は音も立てずに開く。部屋の中は明かりがついていないため暗く、ただ、窓の外から差し込む月の光だけに照らされていた。
部屋の中にはベッドが一つ、その上に横たわるのは、彼の彼女――ほたる。そして、その脇には一人の人影……それはほたるの母親の姿だった。
昴は、ほたるの母親の姿を確認すると心臓が凍り付くかのような思いに襲われた。出来れば、会わないで済むならば二度と会いたくない人物……だが、逃げることは許されなかった。
――逃げてはいけない。ここで逃げたら最低だ。
一度深呼吸。そして部屋に入る。それに気付いたのか、ほたるの母親は沈鬱な表情を昴へと向けた。
昴はいきなり罵声の一言でも浴びせられるのを覚悟した。だが、彼女の反応は違った。涙をこらえているのか、それとも涙を流しきった後なのか、どちらとも つかない声で彼女は静かに言う。
「藤崎……さん……ごめんなさい、私を許して……」
予想していたのと正反対の言葉に、昴は戸惑う。後ろにいる支倉を見たが、彼は静かに笑みを浮かべると、その場から去っていった。
「私、私は間違っていたのね……ほたるを守りたいという気持ちばっかりに、全然ほたるの気持ちもあなたのことも、全然わかろうとしなかった……そのせいで、こんなことになってしまったのね……」
「あ、あの」
「藤崎さん、こっちに来て……座ってください」
言われるがままに、昴はほたるの母親の隣にある椅子へと腰掛けた。そうやって三度目に顔を合わせた彼女の顔は、穏やかな、優しい母親そのものだった。
「藤崎さんには謝らなければならないわ。私は、いつも私のことばかりを考えて、ほたるの気持ちをわかってあげられなかった……あのときも、今も……」
「……あのとき?」
「……数年前、まだあの子が幼い頃。私は夫と離婚したの」
「え……?」
「ほたるは、私が仕事にかまけてばかりいたからかしらね……あの人にとても懐いていたの」
ほたるの母親は、遠い目をしながら語り出した。それはほたるの母親としてではなく、切なく、悲しく震える一人の女性の声で。
「でも、私自身、あの人と一緒にいる時間もそんなに多くなかったし……気がついたときには、あの人は愛人を作っていて、さらに子供まで作っていて、家を出
て行ったわ。私が仕事を頑張ることが出来たのも、あの人がいたおかげだと思っていたし、仲のいい夫婦でいられると思っていたからね……ずっとずっと落ち込
んで、仕事もまともにできなくなって、もう耐えられなかった。そんなとき、気付いたら私は新しい男の人を見つけて……付き合い始めたの」
「……」
「……私は、私の心の隙間を埋めるために、あの男と付き合いだした……その人の本質がどんなものなのかも理解しないままに、ただ、心を満たしてくれればそ
れだけでよかったのかもしれない……でも、それは、ほたるの気持ちを全然考えていなかった。あの子――ほたるは、あの男に馴染むことができなかった」
そこまで話したとき、ベッドに横になっているほたるが、ん……と、小さく声を上げた。気がついたのだろうか。
ほたるの母親は、それを見ると、立ち上がって昴に笑みを向けた。
「藤崎さん、今さらこんなことを言うのはずるいかもしれないけれど、それでも聞いてください。あの子にはあなたが大切だってこと、私、とてもよくわかった……だから、ほたるのこと……よろしく頼むわね」
それは、暖かく優しい声。心からほたるの幸せを求め、同時に、昴のことを信頼している証。
「……はい、僕は、ほたるを……絶対、大切にします」
「――信じているからね」
そうして、ほたるの母親は部屋から出て行った。鈍い昴でも気づく。彼女の背中は震えていた。
「……ふぁ、あ、あれ?」
ベッドから、間の抜けた声がする。
「ん……すばる……くん?」
昴はベッドを見た。月明かりに照らされて、目を覚ましたほたるの顔が、しっかりと目に入った。
思わず胸が締め付けられるような、そんな思いに襲われる。それと同時に、鼓動を打つ早さはどんどん加速していく。
「あ……」
昴の手が、ほたるに伸びた。そして、彼女の身体を思い切り抱きしめる。
「え、え……すばるくん?」
「ごめん、ほたる。僕、どうしたら良いかわからないけど……ごめん、ごめん! もう絶対にほたるのことを裏切らないから……ほたるのこと、守るから……! だから、ごめん……!」
とくん、とくん、と、鼓動が二つ。
昴の目から涙が溢れ出す。ほたるが無事に目を覚ましたからだけではない。もちろんそれもある。だが、それよりもなによりも、昴は謝るチャンスが欲しかっ
たのだ。面と向かって、しっかりと、彼女に向き合って。たとえ許されないとしても、誠心誠意を込めて謝らないといけない。そうしないと、罪の重さに押しつ
ぶされそうだったからだ。
「あ……昴くん……あ、あたし……きゅう……」
ほたるの顔は耳まで赤くなった。そして、昴の肩に顔をうずめる。まるで子猫のように、小さな身体を昴に預けた。
「昴くん……あたし、怖かった……あたしが、あたしじゃなくなるみたいで怖かったよ……」
「ごめんほたる、怖い思いさせて……大丈夫だから、もう、あんな悲しい目には遭わせないから……!」
「うん……もう、怖いのは嫌だよ……あたしの中に誰かがいるの……あたしをあたしじゃないようにしようと、話しかけてくるの……嫌だよ……昴くん……」
「ほたる、僕が……僕がいるよ。ほたるがほたるじゃなくならないように、守るよ……」
そして、より強く抱きしめる。もう、離れないように。二人の絆が少しでも揺るがないように、赤い糸を、しっかりと結びつける。
「……うん、でも……お願い。どんなあたしになっても、昴くんはあたしのこと、ほたるって呼んで……」
ほたるの目から涙が一滴。宝石のようなそれは、シーツに落ちて弾けた。
◇ ◇ ◇
ゆめを、みていた。
あたしがちいさいころの……むかしの、ゆめ。
大好きだったお父さんが、いなくなったあのとき、あたしの世界は変わった。
よくあたしを守ってくれた、あの広く大きな背中が、光の向こうへと消えていくのをあたしは覚えている。
あたしのことも、お母さんのことも、もう好きじゃなくなってしまったんだ。
だから、お父さんは、お父さんだった人に変わった。
遠くへ行って、お父さんだった人は一度だけ振り向いたのを覚えている。
そして、あたしにただ一言、言った。
――サヨナラって。
なんて悲しい言葉がこの世にあるんだろうって思った。
ほんの些細な別れの言葉なのに、あたしはその言葉が嫌いになった。
それから、あたしの世界は真っ暗になった。
暗くて、寒くて、怖い。あたしを守ってくれていた広く大きな背中はもうどこにもない。
お母さんは毎晩泣いてばかりいた。それでも、あたしのご飯のために、一生懸命働いてくれた。
だから、あたしも頑張ることにした。守ってくれる背中がなくても泣かないって決めた。
でも、ある日、お母さんはうちに知らない男の人を連れてきた。
タバコのにおいが臭い、知らない男の人。トゲトゲした背中の、怖いおじさん。
逃げ出したかったけれど、お母さんのお仕事の友達だというから、あたしは我慢した。
夜になれば帰るだろう。そうしたら、お風呂に入ってお母さんと暖かい布団で一緒に寝よう。
そう思っていたんだ。
その男の人は、その日、うちに泊まった。
知らない男の人は、いつの間にかうちによく来るようになっていた。
知らない男の人は、いつの間にかお母さんとすごく仲良くなっていた。
知らない男の人は、いつの間にかうちで暮らすようになっていた。
そして、お母さんは言ったんだ。
あたしに、幸せそうな笑顔で。
――ほたる、お母さんね、新しいお父さんと暮らすことになったの。
――優しい人だから、きっとほたるも気に入ると思うわ。
「……いや」
そう言えたら、ちょっとは変わったのかな。
いや、きっと変わらなかったと思う。お母さんはあの男の人を愛していたし、あの男の人もお母さんを愛していた。
きっと、それを相思相愛と呼ぶのだと思う。
でも、あたしはお母さんじゃないから、あの人を愛せない。それに――
あの人も、あたしのことを愛していなかった。
――何見ているんだよテメエ。
――これだからガキは嫌いなんだよ、面倒くせえ。
お母さんがいないとき、男は豹変した。
次々に迫る罵声、暴力、狂気。
あたしの身体は傷だらけになっていく。
きっと、あれは鬼だったんだ。
人間のお面をつけただけで、お面の下には牙を生やした赤鬼が立っていたんだ。
なんて滑稽。普通は逆なのに。
――どうしてあたしがこんな怖い思いをしないといけないの?
――どうしてあたしがこんな痛い目に遭わないといけないの?
そんなことを訊ねても、答えなんて返ってこなかった。
でも、一度だけ、たった一度だけ、あたしの心の中から、誰かが答えてくれたんだ。
――ソレハ、オ前ガ弱イカラダヨ。
やけに尖った、おどろおどろしい声。
一度聞いただけなのに、それは鼓膜にこびり付いて離れなかった。
その日から、あたしの心の中で誰かが住むようになったんだ。
お母さんは、傷だらけのあたしを見て、驚いて、すぐに家を出る準備をした。
家も失った、幸せも失った、安息も失った、でも、お母さんは何度も謝りながらあたしの手をしっかりと握ってくれた。
暖かくて、柔らかくて、それだけあれば生きていけるような気がした。
そして、あたしは、強くなることに決めた。
◇ ◇ ◇
月光が差し込んでくる部屋のベッドの上で、昴とほたるは二人、ただ抱き合っていた。
先ほどから何十分経っただろうか。彼らは、お互いの温もりと鼓動を分け合い続けた。もう二度と離れないように、その絆を確かなものとする。
「昴くん、あたしね……初めて昴くんを見たとき、ビックリしたんだよ。こんなに素敵な男の人がいるんだ……って」
昴の胸の中で、ほたるが呟いた。
「え、そんなに早くから?」
「うん、あたし、それまでそんな気持ちになることなんて一度もなかったんだ。だけど、昴くんは特別だったの」
「どうして?」
「あのね、背中が違っていたんだ、他の男子と」
「背中?」
「そう、背中。昴くんの背中ね、ちょっと頼りないけど、でも広くて大きいって思ったんだ。実際、そんなに大きくないのに、どうしてだろうね」
そう言って、ほたるは笑う。昴は、どう反応して良いのか困ったが、でもほたるにつられて笑った。ほたるの笑顔が、今はたまらなく嬉しかったのだ。
「きっと、お父さんの背中に似ていたんだと思う。広さがじゃないよ? なんていうのかわからないけど、雰囲気なのかな? それで、あたし、昴くんに興味持ったんだ」
「じゃあ、僕は背中からほたるに好かれたんだね」
「そういうことかな? でも、どうして好きになったかわからないんだ。気がついたら……クラスは違ったけど、昴くんのクラスに行くたびに気にするようになってたの。きっと、理由なんて後付けなんだろうね」
「そうかもしれない。僕も、気がついたらほたるのことが好きになってた。初めはちょっと可愛いなって思っていただけだし……だけど、何回も会っているうち に、まともに話したことなかったけど……すごく気にするようになっていたかな」
「それって、なんだか不思議だね。全くお互いを知らなかった二人が、同時に好きになるなんて……だってさ、この星には何億人も人がいるんだよ? その中からたった二人が結ばれるなんて、奇跡みたい」
「奇跡……か、うん、でも、きっとこれは奇跡じゃないよ」
「え?」
「二人が同時に相手のことを好きになったなら……それはもう奇跡じゃなくて、必然なんじゃないかな。きっと、僕らは結ばれるべくして結ばれたんだと思う」
「……もう、なんか昴くん、キザったらしい」
「そうかな」
「そうだよ。そんな格好いいこと言うなんて、普通の昴くんじゃないよ」
「はは……そういうほたるだって、今日はいっぱい喋るじゃない。僕、ほたるとこんなに話したの、初めてかもしれない」
「あ……う、うん。あたし、なんか喋っていたら楽しくなってきちゃったから……変?」
「ううん、ちっとも。きっと、これが正しい恋人同士の姿だったんだろうな……って、今思った」
「――うん」
ほたるの胸の中に、熱いものがこみ上げてきた。
初めは緊張ばかりして、お互いに言葉を交わすことすらできなかった。喉まで出てきた言葉も、全部霞のように消えてしまっていた。それが今は、ちゃんと一 個の魂を持った言葉として、相手に伝えられる、相手から伝わってくる。
「……ほたる、僕は今、すごく楽しいし、すごく幸せだ」
「……あたしも、昴くんと一緒にいられるこの時間が楽しくて……幸せ」
そう言って、ほたるは身体を震わせた。そして、嗚咽が部屋に響き始める。
「ほたる……? 泣いているの?」
「……ごめんね、昴くん、あたし、あたし……」
「ほたる……」
「あたし、この時間が、とっても楽しいのに……でも、これもいつか終わりが来るんだよね? 嫌だよ……怖いよ……ごめんね、あたし……こんなこと言って……」
「ほたる、終わりなんて来ないよ……今度はずっと僕がいるよ」
「ううん、いいの……あたし、わかってるから。あたしの胸の中にいるものがね、もうすぐあたしからあたしを奪っていくの……」
「ほたる……?」
「昴くん……怖いよ、あたし、これになっちゃったら……もう、取り返しのつかないことになっちゃう……!」
ほたるは髪を掻きむしった。
「落ち着いて、大丈夫だから」
「あたし、化け物に変わっちゃうのかなぁ……? 昴くんのことも、お母さんのことも、全部忘れちゃうのかなぁ……?」
「……っ、ならない! ほたるは化け物なんかにはならない! 僕が全力で守るから! 命を賭けて守るから!」
「嘘つき」
昴の心臓が、まるで強くたたきつけられたボールのように大きく跳ねた。ほたるの瞳の色は闇の中で金色に輝き、昴の目をにらんでいた。それは、胸の奥底まで見られているかのような、そんな視線で……。
「そんなこと、出来るわけないよねぇ……? だって、昴くんは、あたしのこと、一度捨てたんだもん。面倒くさくなったら、あたしのことまた捨てちゃうんだ」
「あ……」
ほたるじゃない、これはほたるじゃない。昴の頭の中でアラートが鳴り響く。部屋の中を重い空気が覆っていく。今彼の前にいるのは、まさに悪魔……!
「あ……あ……」
「どうしたの、あたしが怖いの? あはは、そうだよね、怖いよね。あたし、人じゃなくて悪魔だもんね……あはは、昴くん、変な顔。弱くて、情けなくて、意気地なしの顔だよ……」
ほたるが囁くように言葉を発するたび、氷を背筋に入れられたような感覚に陥る。
「怖いんだ、あたしが怖いんだね。弱虫さん……あたしが怖いんだぁ!」
しかし、昴は震えを抑える。ここで恐れたら、それは、ほたるを否定することに他ならない――!
「ほたる!」
「あは、なぁに昴くん? 逃げたければいつでも逃げていいんだよ? 今まで言ったことは嘘でしたって言って、いなくなってもいいんだよ? もうあたし、ほたるじゃなくなるから、だからいいよ、もう?」
「ほたる……! 僕は、もう僕は逃げない。もうほたるのことを絶対に見棄てるもんか!」
そして、真剣な眼差しで金色の瞳を見つめる。真っ直ぐに、負けないように、強い視線をぶつけた。
「あはははは、面白い。昴くん、面白いよ」
「逃げるもんか。ほたるがたとえ悪魔になろうとも、僕はほたるだけを見続けてやる。もう発言は撤回しない、僕だって男だ。ほたるのこと、全力で守るから、命を賭けて守ってやるんだ!」
「あは……昴くん、すごいすごい、あたし、あれ、あはは、おかしいね、なんか、切ない――」
「ほたる……」
「昴……くん……あたし……どうして、今……あたし、どうなっていたの?」
ほたるの目は、元に戻っていた。そう、宝石のように輝く瞳。昴が恋焦がれた美しい瞳。
「ほたるは、ずっと、ほたるのままだったよ」
「昴くん……!」
「僕がいれば――二人なら悪魔にだって勝てるよ。命がある限り、なんだってできる。だから……安心して」
「……うん、うん……!」
ほたるは、何度も頷いて、そして、昴に抱きついた。柔らかい髪がふわりと揺れる。昴の顔が真っ赤に染まる。そして、また、二人抱きしめ合う。
強く、強く。
◇ ◇ ◇
「……ん」
だが、その抱擁は長く続かなかった。ほたるが、扉の向こうに目をやる。
「どうしたの?」
「……来る」
ほたるは、ベッドの上から降りた。そして、部屋の隅に置いてあった着替えに手を伸ばす。ほたるの母親が持ってきたものだろう。そして、寝巻きを脱ぎ始めた。白い肌があらわになる。
昴は思わず息を呑む。それを聞いたのか、ほたるが首だけで振り返る。
「……えっち、恥ずかしいから見ないで」
「え……あ、ご、ごめん」
慌てて昴は後を向く。衣ずれの音とか、衣服が床に落ちる音が余計な想像力を働かせてしまうので、昴は首を振ってそれを振り払う。
「そんなことを考えている場合じゃないってのに……」
「……ん? 何か言った?」
着替えたほたるが、昴の前にやってきた。水色のブラウスに、白いロングスカートが月明かりに映える。
昴が私服姿を見るのはこれで二度目……いや、寝巻きを入れると三度目にカウントされるのかもしれないが、とにかく制服姿に見慣れている彼にとって、それはあまりにも眩しかった。だが、今がそれどころではない空気をさすがの昴も汲み取る。
「ほたる……どうしたの?」
「あのね……来るの。きっと、支倉さんだと思うけど……でも……なんか様子が変なの」
「え……それってどういう――」
昴が訊ね終わる前に、病室の扉が勢いよく開け放たれた。入り口に立つのは支倉御影の姿。足音を殺してきたのだろうか、雰囲気すらも気付くことができないでいた。
支倉の様子は、おかしい。昴も何度も見たわけではないが、先ほど会ったときとは雰囲気が全く異なっていた。それはまるで、表と裏が入れ替わったかのようだった。
「藤崎、そこをどきなさい」
支倉はそう言って、両手を身体の前で伸ばした。その手に握られているのは……拳銃。その銃口は昴……いや、昴の後にいるほたるに向けられていた。
「な……何を……?」
「世界を救うためには、この銀の銃弾で心臓ごと破壊するしかありません。もう、全て手遅れなのです。私は世界のために、悪魔憑き、貴女を殺します」
「……!」
二人に衝撃が走る。
手遅れという言葉を、まさか聞くことになるなんて、思ってもいなかった。
昴は信じていた。悪魔が心臓に巣食っていたとしても、エクソシストなのだから、支倉がきっとなんとかしてくれると。だが、こうして現実に訪れたのは、あまりに直接的で、あまりに暴力的な手段による解決。
「や、やめろ……どうして……」
「そこをどきなさいと言っているでしょう」
支倉が銃を向けたまま近づいてきた。二人は徐々に後退していく。
「私は、罪もない人間を殺すことはできません。貴方がどいてくれない限り、世界を救うことはできません」
「ほ……ほたるだって、ほたるにだって罪はない!」
「いえ、彼女は悪魔憑き。もはや、人間ではありません」
「……っ」
昴の後で、ほたるが息を呑んだ。それを聞き、ぎり、と昴が歯ぎしりをする。
「お前……どうにかするって言ったじゃないか。なんなんだよ……どうしてこんなことを……」
「ええ、言った通り、どうにかします。ここで悪魔憑きを殺さなければ、世界が滅ぶのです。七月ほたるの身体はアバドンに乗っ取られ、一瞬にして全ての命を奪うでしょう」
「あ……あたしが……死ねば……」
ほたるが、昴の前に出ようとする。それを、昴は制止した。
「ほたる、駄目だ。それだけは絶対に駄目だ」
そう言いながらも、支倉が一歩近づくたびに、一歩後ろへ下がる。だが、窓にぶつかり、二人はそれ以上の後退が許されていないことに気付く。
「さあ、時間稼ぎは無駄です。いい加減、行儀良くしてください」
そして、支倉の右手が昴の胸倉をつかむ。
「く……そ……!」
抵抗はもはや無意味だった。痩躯であるがゆえに頼りなさそうに見えたが、支倉の力は強かった。昴の身体は軽々と動かされる……!
「うおおおおおおっ!」
その時、支倉の身体が横へと飛ばされた。彼の手を離れた拳銃が床を滑る。
そして支倉が立っていた場所には、走ってきたのか、息を切らした高瀬川が立っていた。
「逃げろ! 二人とも!」
「え……え……」
昴は一瞬のことに何が何だかわからずに混乱する。
「昴くん、こっち」
後ろでほたるの声が聴こえた。すると次の瞬間、昴の身体は宙を舞っていた。
「え、え、え……嘘おおおっ!?」
ほたるは、昴の襟をつかんだまま、二階の病室の窓から飛び降りていた。いくら二階といえど、下はコンクリート、それなりの高さもあり、後ろ向きだなんてそんな滅茶苦茶な格好で飛び降りたら、怪我だけでは済まされない……!
だが、ほたるは軽々と着地し、昴のことをなんなく両手で受け止めた。
昴は自分の両足が地面につくのを確認すると、ほたるの顔を見る。ほたるはいつものほたるのままで、変わりはなかった。
「……えと……これは……なんか、男女が逆じゃないかな」
「昴くん、行こう」
「う、うん」
そして二人は走り出す。
しっかりと手を繋いで、青い月の下を。
◇ ◇ ◇
病室で、二人は対峙していた。
開け放たれた窓から入ってくる風で、白いカーテンが舞う。
「何故、邪魔をしたのですか」
突き飛ばされた支倉は、埃をはたきながら立ち上がり、そして高瀬川にその冷たい……たとえるならば鷹の目を向けて言った。
「殺そうとするなんて……そんなのは間違っている」
「……間違っている? 間違っているのはどっちですか高瀬川。もはや悪魔憑きを止める方法は、ほたるの心臓を破壊することのみです」
「だからって、人を殺して良いと思っているのか……罪もない人間を……」
「悪魔が心臓と融合した今となっては、ほたるは悪魔であると同じです。私は悪魔退治のプロフェッショナル、ならば手を下す理由に問題はありません」
「支倉っ……!」
「……高瀬川、私には理解できません。貴方も今まで悪魔憑きと向かい合ってきたことで、その恐ろしさは十分に理解しているでしょう。今回の悪魔はその比で
はありません。生まれたならば世界の全人類の命が、確実に失われます。それなのに、何故彼女を守ろうとしたのですか。一人の少女を殺すことで世界中の人々
の命が救えるのですよ?」
「人の命を天秤にかけるな……!」
「おや、私は人の命なんて天秤にかけていませんよ。天秤にかけたのは、全人類と、たった一つのモノ。どうでしょう?」
「支倉、私は君に感謝している。君が教会から派遣されてきたおかげで、私は多くの尊い人命を救うことができた。だが、今回は違う……君は、すすんで人殺しをしようとしている。それを、許すことはできない!」
「……偽善ですね、高瀬川。反吐が出ます。貴方はそうやって綺麗ごとを言っていれば良いでしょう、ええ、殺さないで済むならばそれでいいかもしれません。
しかし、そんなことを言っていられる余裕なんてありません。いいですか、このままあの悪魔憑きを逃がした場合……貴方が救うべき人々は、いなくなるのです
よ」
「……っ……だが……」
「どきなさい」
支倉は、高瀬川の横を通ろうとする。高瀬川はそれを制止しようと手を伸ばした。しかし、そうする前に、彼の身体は地面にたたきつけられていた。
高瀬川は起きることができない。スーツ姿の男が二人、高瀬川を押さえ込んでいた。そして、その傍らには先ほど支倉が落とした拳銃を拾う男……合計三人の男たちが入り込んでいた。
「……お勤めご苦労様です。人数は揃っていますか」
支倉が拳銃を受け取りながら、男の一人に話しかける。彼らは支倉の電話によって派遣されてきた、支倉の部下たちであった。
「車が三台、私を入れて人数は十人です」
「そうですか。では、早速悪魔憑きを追いましょう」
そう言って、支倉は病室を出て行った。最後に一度だけ振り返ると、地べたに押さえつけられている友人と目が合う。
高瀬川の真剣な眼差しが向けられていたが、支倉は鷹の目を鋭く細めると、つまらないものでも見たかのように、鼻を鳴らし、去っていった。
取り残された高瀬川は、押さえつけられたまま、歯ぎしりをしながらその扉のほうを、ただ、見つめ続けた。
◇ ◇ ◇
夜風を浴びて、昴とほたるは走っていた。
どこへ逃げたら良いのかはわかっていなかったが、とにかく病院から離れることが先決だった。今のところ追手の姿は確認できないが、いずれ必ず追手はやってくる。それまでに少しでも距離を稼いでおかなければならない。
病院から下の町へと続く坂を下る。
周囲は木々に囲まれていて隠れるのには格好の場所かと思われたが、彼らはその先がどこに繋がっているかを知らない。下手をしたら、追い詰められてしまう危険性もあった。そのため、一本道ではあるが、安心できる道を下るのが最善だと思われた。
昴もほたるも、いつもならば息が上がってしまい走れなくなるころなのだが、それでも懸命に走る。
しっかりと両手を繋ぎ、お互いに勇気を分け合う。捕まったら殺されているのが目に見えている状況で、走るのをやめる道理などなかった。
しかし、彼らは足を止めた。いや、止めざるを得なかった。その人影を確認した瞬間――二人の心臓は凍りついた。
ちょうど坂道の終わり付近に、夕凪有紗は立っていた。
家まで帰らなかったのだろう。汚れた制服のまま、彼女は虚ろな目で二人をにらむ。
「……待っていた」
有紗が、掠れきった低い声で言う。その姿や表情は、いつもの明るい有紗とはかけ離れていた。
「藤崎……ここで待っていれば、通ると思っていたけど……ほたるも一緒だなんて……どうするつもりなの?」
「ゆ……夕凪、そこをどいてくれ、頼むから……」
「いや」
「夕凪……」
「どいたら、ほたると一緒にいなくなっちゃうんでしょ? 私の方がずっと長く藤崎のことを見てきたのに、ほたるよりもよっぽど藤崎のこと知っているのに……!」
「ゆう……」
「藤崎、私、わかった。私は幸せなんて手に入れられないってこと。でも、それは自分の心に嘘をつき続けたから……私は、私の心が思うままにしていればよ
かった。二人をくっつけて、自分の気持ちに蓋をしようだなんて、考えなければよかった。さっき……一瞬だけでも、自分の心に正直になったら、私は幸せを享
受できた……だからね、私は幸せを手に入れるために、自分の心に正直に生きる。決めたの――」
ぞわり。昴は全身に鳥肌が立つのを感じた。
彼女が右手に持つのは、紙を切るときに使うカッターナイフ。その刃を、ギチギチ、と音を立てて伸ばす。月明かりに、刃が反射して輝いた。
「藤崎、一緒に死のう。もうこんな世界――大嫌いだから」
そして、有紗が弾かれたように飛び込んでくる。刃の切っ先を昴に向けて、一直線に向かってくる。
「……っ!」
昴はほたるを突き飛ばし、そして後ろに飛んで有紗の突進を回避する。カッターの刃が虚空を切り裂き、ひゅっと、鋭い音を立てた。
有紗の視線は、なおも昴を捉えて離さない。昴は、もう一度体勢を立て直し、次の行動に移ろうとし――
「あっ……?」
足を滑らせた。
しまった、と思ったときには、もう既に遅かった。踏みとどまることはできずに昴はそのまま尻餅をつく。
有紗の行動は早かった。倒れている昴に飛びかかり、首筋にカッターを突きつける……! あとは刃を引けばそれで終わる。ほたるの悲鳴が響くのみ。もう誰もそれを止めることは……。
「やめろ」
だが、有紗の手は動かなかった。有紗が力を入れるが、さらにそれを上回る力が、有紗の手を押さえつけていた。
「放せ」
それは、有紗の手からカッターを奪い取ると、路上にそれを捨てた。ぱきん、と音を立てて刃が折れる。
「……あ……」
昴が、その声の主を見る。特徴的な白い八重歯が、まず真っ先に目に入った。
「……じゅ、淳?」
有紗の手を押さえつけているのは、戸山淳だった。いつもはヘラヘラしている彼も、今は真剣な表情でこの場にいた。
「な……なんで戸山くんがここにいるの……何で邪魔するの!」
有紗が悲痛な声を上げて叫ぶ。そんな有紗を、淳は立ち上がらせて、自分の方に向きなおさせた。
「俺、さっき有紗ちゃんの家に電話したんだ……その、告白、諦め切れなかったからさ。そうしたら、こんな時間になってもまだ帰ってきていないって言うか ら……昴と二人で七月のお見舞いに行くってこと聞いていたから、もしかしてと思って……走ってきた」
「そ、そんな……」
それは、有紗にとっては全く予想外のことだったのだろう。いや、ここにいる誰もが、このタイミングで淳が駆けつけてくることなど予想できなかった。
だが、いくつものの偶然が、彼をここに導いた。結果、昴の命を救った。そして同時に、それは有紗の心をも――
「放して……! 戸山くん放してよ! 私は、藤崎と一緒に死ぬの……! そうすれば私は藤崎と天国で結ばれるし、ほたるはこの世で独りぼっちになる……最高のエンディングが待っているんだよ……! ねえ、だから、放してよ……!」
パン、と乾いた音が響く。
昴もほたるも驚いてそれを見る。淳の手が、有紗の頬を打っていた。
「ふ……ふあ……」
「……俺、不器用だからこんなやりかたしか出来ないけどよ……有紗ちゃん、復讐に囚われちゃ駄目だ。俺、いつも元気で真っ直ぐで明るくて可愛い笑顔を浮かべていて気の強いそんな素敵な有紗ちゃんが好きなんだ、大好きなんだ、もう世界一大好きなんだ! 結婚してくれ!」
「え……あ……私……そんな……ど、どうすればいいの? ねえ、この切ない気持ち、どうしたらいいの?」
「……わからないけど、切ない気持ちが食えるものなら、俺が食ってやる。有紗ちゃんを悲しませるものは、俺が全部食ってやるよ」
「あ……私、私……」
有紗は、淳の胸の中に包まれて、そして大粒の涙を流した。それはさすがに淳も予想外だったようで、どうして良いのかわからず、とりあえず昴と目を合わせた。
昴は、しばらく呆気に取られていたが、淳と目が合ったことで我に返る。そして、同様に呆気に取られていたほたるの手を引く。
「……淳、ありがとう」
昴は、胸の底からその言葉を友人に向けた。
それを聞いて、淳は照れくさいのか、白い八重歯を輝かせた。そして、いつもの笑みを浮かべる。
「おう、頑張れ」
その言葉を受け、昴とほたるは一度微笑みを返すと、手を繋いで走り出した。
二人の思いを背に受けて、二人は走る。
その場所を、支倉たちの車が通過したのは、それから間もなくのことだった。
◇ ◇ ◇
「昴くん……追いかけられてる……!」
町に出たところで、ほたるが急に叫んだ。振り返れば車が三台、それを視認する。
追いかけられていることは当然だと思っていたが、まさかここまで本格的に追われることになろうとは、昴は実感が湧かなかった。
だが、実際のことの重大性を考えればそれにも納得がいくはずである。ほたるは今や動く時限爆弾なのだ。それを連れて逃げている。あてはなく、終わりのない逃亡劇。そんな絶望的な状況だが、二人は足を止めることはしない。
町の中は、夜遅いとはいえまだ人通りも多く、また、信号や路地裏が多いため、それらに紛れ込めば車から逃げるのはそう難しくない。支倉も拳銃を持っているとはいえ、人ごみの中で手荒なことはできないだろうと踏んでいた。
そして二人は都会の雑踏に紛れ込む。
支倉らは、数人が車から降りると、走って二人を追跡し始めた。それから逃げるように、二人は路地の奥へ奥へと逃げ込んでいく。
「はぁ……はぁ……ほたる、まだついてきてる?」
「う、うん……たくさん……あたしたちの後ろにいる……!」
ほたるはまるで空から見下ろしているかのように、彼らの居場所がわかっていた。それは悪魔による力なのだが、それを利用しない手はなかった。
「まずいな……このままだと、いずれ袋のネズミになる」
昴は、路地裏は危険だと判断した。路地裏には人が少なく、また突然袋小路に直面する可能性もある。しっかりと追われている状況では、いくら複雑な迷宮を 縦横無尽に逃げ回っても意味がない。いずれ囲まれてしまうのがオチだ。
「じゃ、じゃあ……駅前に……いく?」
「そうしよう。駅前まで出れば、人もたくさんいる……上手くいけば、電車に飛び乗れるかもしれない……!」
打ち合わせて、二人は路地裏から今度は逆に人がいる方いる方へと駆けて行く。
夜の町は喧騒に溢れている。人とぶつからないように上手く人波の間を掻き分けて、駅前へと急いだ。
センタービルを中心にした駅前は、会社帰りのスーツ姿でごった返していた。大勢の人々が、駅を目指して横断歩道を渡っていく。二人もそれにならい、走って横断歩道を駆け抜けようとして、気付いた。
前から来る、スーツの男の視線が、自分たちに向けられていることに。
「しまった――」
昴は、方向を変えて走り出す。だが、その前からも男が迫ってくる。不自然な動きで、二人をにらみながら近づいていく。
「昴くん……?」
「くそっ……どれが追手なのかわからない……! 人ごみの中にいけば上手く隠れられると思ったけど……カモフラージュになったのは相手のほうだ!」
そうやって見ると、どの人物も追手のような気がしてきた。そもそも、夜中に二人がこの町にいること自体が不自然なのだ。ただでさえ、視線を集める。
昴は、知らず知らずのうちに追い込まれているような感覚に襲われていた。ほたるも、こうなっては誰が誰なのかわからない。片っ端から、近づいてくる人を避けながら逃げていくしかない。
すると、知らず知らずのうちに、彼らはセンタービルの中に駆け込んでいた。閉館時間が迫り、人が少ないビル内の方が、安全だと思われたのだ。
だが、それは袋小路に自らを追い込んだに過ぎない。当然、この状況を追手が見逃すはずがなく、次々にビルの入り口から入り込んできた。
「に、にげろ、ほたる!」
「……う、うん!」
そうして、決死の逃亡劇が繰り広げられる。
センタービルの一階はまるまるショッピングモールになっていた。しかし、広いビルの中とは言えど、ほとんどの店がシャッターを閉め始めていて、逃げる場所などなかった。
幸いにして、追手から見つからないところに姿を隠すことに成功したが、それも付け焼刃に過ぎない。恐らく、そう数分もしないうちに発見されるだろう。
「……昴くん……どうしよう」
「まだ、手はあるはずだ……ほたる、絶対に君を守りきるから……」
「昴くん、あたし……なんか怖い。あたしの中の悪魔がね、どんどん大きくなってくるの、わかる……成長しているの」
「大丈夫、僕が一緒だから怖いことなんて何もない――!」
「ううん、でも、このままだと、あたしはあたしじゃなくなっちゃう。そうしたら、みんな死んじゃうんだよね……?」
「ほたる……」
「ねえ、こんなことが許されているのかなぁ……あたしのワガママで、逃げ回って、たくさんの人に迷惑をかけて……あたしが死ねば、みんな助かるんだよね? それなのに……あたし、怖いの、死にたくないの……昴くんと、もっともっともっと、ずっと一緒にいたいの……!」
ほたるの目から涙が溢れ出す。だが、誰が、それを責められるだろうか。世界のために死ねと言われて、快く頷ける人が、一体どれほどいるだろう。
「ほたる。悪魔が生まれて世界が終わっても構わない。それでも、僕は最期の瞬間まで、ほたるの恋人でいる。ずっと君を七月ほたるとして見続ける。そうしたら……」
昴の頬を涙が伝う。
「そうしたら……永遠に、僕ら恋人だよ」
「……うん!」
「いたぞ!」
男の声がすると同時に数人の足音が迫ってきた。
やはりすぐに発見された。しかし、もう逃げ場所は限られていた。
「ほたる、こっちだ! 先へ!」
「あ……昴くん……!?」
昴は、非常階段の扉を押し開けると、ほたると中に飛び込む。そして、ほたるを先に行かせると、勢いよく蹴りを入れて扉を閉めた。
筋力はそう強くないが、重い扉となると話は別だ。駆け込んできた追手は、重い鉄板の一撃を喰らった。
「走れ! ほたる!」
昴は上を見ながら叫んだ。ほたるは、上へ上へと階段を駆け上っていた。昴もそれを追うように駆けて行く。
鉄製の階段が、がんがん、と音を立てて鳴り響く。非常階段ははるかに高く、まるで空まで伸びているかのようだった。
昴も、ほたるも、もう既に足が悲鳴を上げていた。先ほどからずっと休むことなく走り続けてきたのだ、そろそろ限界が来てもおかしくない。
だが、懸命に階段を駆け上り続ける。悪あがきであろうとも、ひたすらに走り続ける。
「ほた……うっ!」
そのとき、昴は自分の身体が後ろから押さえつけられるのを感じた。追手に追いつかれたのだ。
「昴くん!?」
「ほたる! 逃げろ!」
上からほたるの声が聴こえてきたが、昴は全力で叫んで返した。
「逃がしません」
昴の横を、もはや聞きなれたその涼しい声が通り過ぎていく。
地面に組せられた昴は、その顔を見た。支倉の鷹の目が、一瞬だけゴミでも見るかのように昴に向けられた。
「く、くっそおおお!」
その手にはしっかりと拳銃が握られていた。その凶弾がほたるを貫くのだけは、絶対に避けたかった。
しかし、完全に押さえ込まれた今では、もうどうすることもできない。悔しさに顔を歪ませる。だが、男の力が弱まることなどなかった
支倉の足音と、ほたるの足音がどんどん小さくなっていく。聞こえなくなったその先で、待つのは一体なんなのか。昴の目から、悔し涙がこぼれる。
――こんなところで終わってしまうのか?
――最後まで守ると言ったのは、嘘か?
「嘘じゃ……ないっ!」
「だろう、なら走れ」
「え……?」
昴の背中にかかる力が、ふっと抜けた。もう、奇跡など起きないと思っていた。誰も来ないと思っていた。
だが、三度目の奇跡は起きた。後ろに立っていたのは高瀬川だった。
「先生……!」
「感謝を言っている暇があったら走れ。お前らの世界は、お前らのものだ」
「……はい!」
高瀬川に背中を押されて、昴は走る。
もう二人の足音は聞こえなくなっていたが、それでも少しでも早く追いつけるように走った。足が千切れても構わないというほどの気迫を込めて、階段を飛ぶように上っていく。
「お前……高瀬川……!」
昴を押さえつけていた男が、高瀬川をにらむ。踊り場で、二人が対峙する。
支倉の部下は皆鍛えられていた。それこそまさに武術も学んでおり、それこそ教会の特殊部隊として戦えるほどの実力を有していた。
それに対するは、普通の医者。勝負は火を見るよりも明らかに見えた。
……だが、忘れてはならない。追手の数は十人ばかり。そもそも何故病院で組せられていた彼がここにいるのか、そして、支倉を除くと一番先に言っていたはずのこの男の下まで、どうしてたどり着けたのか。
男の手が鋭く唸る。直撃したら脳天をも破壊するような強烈なパンチが繰り出されていた。
しかし、勝負は一瞬でついた。高瀬川は男の腕を掴むと、軽々と持ち上げ、階段の下へと背負い投げを放った。
「ふぅ……まだまだ腕は衰えてないな」
階段の下には、ダウンした男たちの山が築きあげられていた。
◇ ◇ ◇
階段の一番上の扉を開けると、屋上に出た。
扉が軋む音を立てて、静かに閉まる。
コンクリート張りの床、赤いライト、そして一面の金網に囲まれ、そこはどこまでも殺風景な場所だった。
ここよりも高い建物は周囲に存在しない。それゆえ、上にはただ、一面の夜空が広がっていた。
星は見えない。あるのは歪な青い月のみ。淡く、儚く、その光はほたるの身体を照らす。
ほたるの胸の奥にいる悪魔が、成長を再開する。誕生に向けて、うごめき始める。
それはもう、止まることはない。ほたるの身体を徐々に乗っ取り、アバドンとしてこの世に君臨するまで、残された時間はもはや僅かだった。
ほたるは、自分の意識がなくなる前に、ふらつく足で、ゆっくりと、屋上の中心へと向かう。
そして、跪き天を仰ぐ。薄れ行く意識の中で、彼女は両手を上に掲げた。
彼女は懺悔をする。彼女が犯した罪、それは全ての命あるものに対する裏切り。それは、エゴという大波の中で生きた結果。いや、それはごく普通の人間ならば誰もが持っているはずの自己愛。それをエゴと呼び、否定できるとしたら、それはなんて傲慢なことなのだろう。
彼女は祈り続ける。許しを求めて、天を仰ぎ続けた。意識がなくなっていく、悪魔の意識が、表側へと出てこようとしている。
扉が軋む音を立て、その場に、二人目の存在――支倉御影が現れた。
支倉は、ほたるのその姿を見た瞬間、戸惑いを覚えた。果たして彼女に、本当に罪はあるのだろうか、と。
そうして、自分の来た理由を否定しようとするのは簡単だった。だが、支倉は戸惑いを切り捨てる。
支倉の仕事は、悪魔を処理すること。そのためならば、人間の心は捨てなければならなかった。
彼は目頭が熱くなるのを感じた。涙で視界を覆っていては、正確に狙い撃つことは不可能……彼は、その前に、すう、と腕を上げ、そしてほたるに銃口を向ける。
あとは引き金を引けば、終わる。
人差し指が、動き……。
「や、やめろおおおおおっ!」
「――っ!」
それは、映画などで耳にする派手な銃声ではなく、まるで、空気が抜けたかのような、ただそれだけの音が響いた。
悪魔を穿つ銀の弾丸は、銃口から一直線にほたるの心臓へと放たれ、そして――
――ほたるをかばう、藤崎昴の心臓を貫いた。
世界が、一瞬止まった。
昴の身体は、糸が切れた操り人形のように、力なく崩れ、コンクリートの床に落ちた。
残るのは静寂のみ、ただ、ほたると支倉の二人だけが、残った。
「そ、そんなはずでは……そんな……人間を撃つなんて、そんな……そんなつもりでは……」
支倉の手から、拳銃がこぼれ落ちる。
「ああ……なんということだ……私は、私はなんてことを……! 主よ、お許しを……お許しを……! ああ、ああああ!」
支倉は崩れ落ちるように膝をつく。もう、全ての気力が失われていた。
「……す……昴くん……?」
コンクリートの床にどす黒い血が広がっていく。ほたるは、その中心で倒れる昴の元へと寄る。
だが昴はもう、息をしていない。即死だった。
「い、いや……いやああああああああああああっ!」
ほたるの慟哭が、響き渡った。
同時に、激しい光が彼女の内側から溢れ出す。それは、悪魔の誕生。アバドンの降臨である。
ほたるの胸の中にあった種から芽が出て、背中から茎が伸びる、そして葉が生え、満開の花が開く。
混沌の色に染まった花弁の内側で、孔が開く。それは、全ての生命を奪い取るための孔……アバドンは、そこから万物の命を我が物にし、世界を死の色に染め上げる。そして、失楽園に唯一咲く一輪の花となるのだ。
もはや、アバドンを止める術は既になし。これが人間の宿命なのか、一瞬のうちに摘み取られる、かくも儚い終幕。祈る間も絶望する間も与えられぬままに、世界の終焉が訪れる。
そして、崩壊の刻が始まる。
ほたるは、薄れゆく意識の中で、最後にもう一度、昴の顔を見た。
動かないはずの昴の顔は、笑っていた。不器用ながらも屈託のない笑顔を、ほたるに向ける。
ほたるは思い出す。
初めて昴に会ったときのこと、修学旅行で告白したこと、一緒に水族館に行ったこと、そして、二人の絆を感じていたさっきまでのことを。
白い世界の中で、昴は笑っている。
そして、赤くなりながら、しかし一生懸命になって、その言葉を吐き出した。
――今まで、ありがとう。
ほたるの目から、涙が溢れ出す。
それは違う、と、ほたるは声なき声で叫ぶ。だが、昴は光の向こうへと消えていってしまう。
あのときと同じように、背中を向けて、ほたるを置いて……消えていく。
いくら叫んでも、届かない。帰ってこない。振り向かない。ほたるに出来ることは、何一つ……ない? あとはこのままほたるは悪魔に乗っ取られて、そして昴と別々に、永遠の闇を彷徨う?
「違う」
それを、ほたるは否定した。
「あたし……負けない」
強くなると決めた日から、諦めることだけはしないと誓ってきた。
そんな彼女だからこそ出来る。まだ意識が残るうちに、ほたるは全力を振り絞り、自分の身体を取り戻そうとする。
悪魔の力に、人間の少女が敵うはずなどない。たとえ抗ったとしても、それは一瞬だけに過ぎない。しかし、ほたるは、その一瞬を永遠に変えた。
ほたるの唇が、昴の唇に、優しく触れる。
瞬間、アバドンの花が枯れ始めた。葉は萎れ、茎は曲がり、花弁が落ち、中心の孔から光が零れ落ちた。
その光が、昴の胸に触れた瞬間、彼の周りを柔らかい光が包み込む。傷が癒え、破裂した心臓が元に戻っていく。
花弁はすべて枯れ落ちて塵となり、アバドンの姿は霧となり、風とともに虚空へと消えていった。
どくん、と、その音が、光の中で小さく鳴る。
ほたるは、最期の瞬間に……その音を聞いた。
〜Epilogue〜
「よし、そこまで。藤崎、帰っていいぞ」
その声に、ようやく僕の心は解放された。
ほう、と息を吐いて辺りを見回す。いつもならば生徒で溢れているはずの教室の中には僕一人。
それもそのはず、今日は七月最後の日。全国的に言えばもう夏休み。僕は学校を休んでいた分の再試験を受けるためだけに、今日ここにやってきていたのだ。
そんな僕のためだけにセミは大合唱で応援してくれていた。ありがとう、でもすごく迷惑だったよ。
筆記用具を鞄につめ、教室を出る。
外はもう陽も傾いていて、校舎の長い影が校庭に伸びていた。
閑散とした学校を出る。今日一日で全教科の再試験を受けたため、身も心もくたくただ。もう早く家に帰ってシャワーを浴び、ゆっくりと横になりたい。
「おーい! 昴、待っていたぞー!」
それなのに、校門の外から聞こえてきたのは、けたたましい声。見れば、淳が大久保や喜久井と三人で、相変わらずのバカ丸出しの笑顔で、ガードレールに座りながらこっちに手を振っていた。
見つかってしまったので、とにかくそっちへ行くと、淳に頭を小突かれた。
「おいおい、何辛気臭い顔しているんだよ! もうテストは終わったんだろー? だったらこれから先に待ち構えているのは、夏休みという名のパラダイス! そうじゃないのかな昴!」
「え……そうだけどさ、さすがに疲れて……」
「ばっかだねこの子は! いいか、今日からは一日たりとも無駄にはできないぜ、我々に与えられたこのワンダフルな時間は残念ながら有限だ! というわけで、これから祭りに行くぞ!」
「祭り?」
「神社のだよ! 今日だってこと、忘れたのか? 俺たちはそれに誘うためにわざわざ来てやったんじゃないですか。少しは感謝しなさいよ!」
淳がびっ、と、人差し指を鼻の前に突きつけてきた。これ以上何か言うのも面倒くさいような気がしたので、うん、と頷く。
「よし、じゃあ早速行こうぜ! 早くしないと遅れちゃうぞ! おい、喜久井、今何時だ?」
「五時半だな」
「うわ、やべえ、急ぐぞ! 昴は走れるか?」
「い、いや、ちょっと走るのはまだ……」
「……あー……そうだよな、わりい。じゃあなるべく急いで歩くぞ!」
「お、おい……この格好で?」
「バーカ! 遅れるって言ってんだろ?」
そうして、僕は腕を引っ張られ歩き出す。急ぎ足だが、それでも気を遣ってくれているのか、僕が歩きやすい速度で淳は引っ張っていてくれた。
あの日、支倉の放った銃弾は僕の胸を貫いたらしい。らしい、というのは、ほとんど記憶が残っていないからだ。
だから、僕が知っているのは全て後から聞かされたことで、はっきり言ってよくわからないことだらけだ。
高瀬川が言うには、僕の心臓は一度破裂したあとに再生したという。医学的にはまったくもって理解できないことだという。
でも、僕はわかっている。全てが失われ、白くなっていく世界の中でただ一つ、鮮明に僕は覚えている。あれは、ほたるが僕に命をくれたってことを。
病院で目が覚めて、胸に手を当てて確信した。その鼓動の音は間違えるはずもない、ほたるの胸の音。
小さくて、壊れそうに儚くて、でもしっかりと僕と一緒に刻んだあの鼓動の音。
ほたるは、悪魔に負けなかった。
自分を奪われる前に、逆に悪魔の力を奪い取って、僕を生き返らせるという奇跡を成し遂げた。全ての生命を奪うはずだった花から吐き出されたのは自らの命。その先に待っていたものは……アバドンの消滅。おかげで世界は滅びずに、今日という時を刻んでいる。
「昴、どうしたんだ?」
「ん……いや、ちょっと考え事」
「ぼーっとしてんなよ。ほら、ちゃんと前見ろ前!」
気がついたときには、そこは小川の流れる散歩道……最初で最後のデートのとき、ほたると歩いた、あの道だった。
「あ……」
そこで見たものは、信じられない光景だった。
薄暗い世界の中で、小さな金色の光が舞っている。それは一つではなく、たくさんの……蛍。
「昴? おい、どうしたんだ?」
「あ、あれ……おかしいな」
世界が滲んで前が見えない。綺麗な光景が、どんどんぼやけていく。
手を顔に当ててみた。頬を伝うのは涙。おかしいな、どうして僕は泣いているんだろう。
無数の蛍たちが、踊るように飛び交っている。それを見ていると何故だろう、涙が止まらない。
たくさんの、蛍。
七月最後の日の、蛍。
七月の蛍。
僕の中でリズムを刻み続けるこの音に合わせて、彼らは舞い踊る。
小さくても、壊れそうでも、儚くても、それでもしっかりと、生を謳歌するように乱れ飛ぶ。
「昴……大丈夫か? おいおい、そろそろ泣き止んだ方が良いぜ? ほら、おい来たぞ」
「え……?」
目をこすった。それでもぼやけて見えない。涙をぬぐう、それでも涙は止まらない。前から誰かが近づいてくる。淳でも大久保でも喜久井でもない足音。近づいてくる。近づいて――
「あいたっ」
「なんで泣いているのかなー藤崎は! せっかく楽しいお祭の前なのに、そんな顔していたら女の子に嫌われちゃうぞ!」
頭を思い切り叩かれた。
元気なその声は……ああ、夕凪有紗だ。ただ、僕の知っている夕凪とは全然違う。彼女は浴衣に身を包んでいた。
その姿は、とても綺麗で、なんというかまるで別人みたいで――
「あいたっ!」
「こらこら、私に見とれてどうするのよ! 藤崎が見るべき相手は私じゃないでしょ! ほら、ちゃんとしっかりして見てあげないと!」
「え……?」
そうして、また足音が聞こえてきた。
淳でも大久保でも喜久井でも、そして夕凪でもない足音。
「お待たせ、昴くん」
小さな手が、差し伸ばされた。
柔らかくて、綺麗で、小鳥のように澄んだ声。
「あ……」
その姿を見たら、思わず息を呑むしかなかった。
小さなその身体にまとうのは、黄色の浴衣。柔らかく揺れる髪には花の髪留め。それは、僕の想像を絶する破壊力。
僕の彼女、七月ほたるのその姿は――形容できないほどに、美しく愛らしかった。
「どうしたの?」
「ほたる……来てたんだ」
「うん、当たり前だよっ。あたしも昴くんも入院していて会えなかったんだもん……退院したと思ったら、学校で休んでいた分の補習で会えなかったし……早く会いたかったんだよ?」
「う……」
その言葉は卑怯だ。そんなことを上目遣いで言われたら、もう固まるしかない。
見れば、淳や夕凪がニヤニヤ笑っている。くそ、みんな面白そうに見やがって……。
「昴くん?」
「よ、よし、うん、僕も……うん、早くほたると会いたかったよ……あと……すごく、似合ってる」
「――うん、ありがと!」
そして、ほたるの手を握った。胸が高鳴る。だが、それが心地よい。
ちょっと驚いたその表情、でも、すぐにそれも笑顔に変わる。ちょっと頬を紅潮させて、僕の横を一緒に歩く。
蛍が飛び交うこの道を、僕らは進む。
二人分の鼓動が、リズムを刻む。
ああ、知らなかった。世界がこんなに輝いて見えるなんて。
ありがとう。
たくさん迷惑かけたけれど、僕らは幸せになるよ。
ありがとう。
心の底から感謝している。
僕たちの世界は、僕たちのものなんだ。
ルインの種 〜完〜
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