窓の外に月が浮かぶ夜。
 白い天上、白い壁、白い廊下……藤崎昴は、丘の上にある施設――高瀬川病院にいた。
 ほたるが倒れてから一時間弱、こうして廊下の長椅子に腰掛けている。
 指は忙しなく膝を叩き、何度も立ったり座ったりを繰り返す。
 時間が経つに比例して、鼓動は激しさを増し、胸の中を不安が覆っていく。
 あの時――近くの電話ボックスに駆け込み、救急車を呼んでから、それが来るまでの約五分……昴は、ほたるが目を覚ますことを何度も期待した。
 だが、どんなに声をかけても反応一つしない。
 そして、触れてみようと手を伸ばし……まるで彫刻のように静かなその顔に触れたとき……ひやり、とした感触が指の先から背筋を通り、全身を駆け巡った。
 ほたるは、氷のように冷たかった。
 それからのことは、よく覚えていない。
「大丈夫ですから、落ち着いてください」
 やって来た救急隊員はそう言った。
 その言葉で、ふと我に返るまで……昴は、何をしていたのか、何を考えていたのか、記憶が抜け落ちていた。
 そして、自分の頬に触れて、濡れていることに気付いた。

 無機質な廊下で、昴は、ため息ばかりを漏らす。
 ひょっとしたら、自分のせいかもしれない。そう思うと、いてもたってもいられなくなる。
 でも、一体僕が何をしたというのか? その問いは無音の世界に押しつぶされて消える。
 体の中に広がっていくこの感覚は、不安? 恐怖? 罪悪感? わからない。ただ、わかることは、夏なのに、身体を縮こまらせるほど寒いという感覚だけだ。
 その時、廊下の向こう側――病院の入り口のほうに、一つの人影が現れた。
 それは、コツコツと足音を立て、足早に迫ってくる。
 次第にその人影が近くなるに連れ、人物像が明らかになってくる。年増の女性だ。昴は、面識はなかったが、なんとなく、その瞳がほたるのものと似ていると感じた。
 女性は、歩を止めると、座っている昴の足先から頭までを一瞥する。
「あなた、まさか藤崎さん?」
 そして、その後、強い口調で訊ねた。
 反射的に、昴は、はい、と小さな声で答えた。
「あなた……! ほたるに何をしたの? ほたるに何があったの? あなたが何かやったんでしょう!」
 だが、次の瞬間、何かに弾かれたように女性が昴を責める。
 自己紹介をしただけでこういった展開になるとは想像できないだろう、突然のことなので、何も返せず固まってしまう。
 それが気に食わないのか、彼女は、ずい、と昴の眼前に迫り、胸倉を掴む。
「何とか言いなさいよ! ほたるは……ほたるはどうしたって言うのよ!」
 殴られる。
 昴はそう思った。彼女の右手は、すでに振りかぶられており……。
「何やっているんですか!」
 第三者の一声によって、止められた。

 声の主は、いつからいたのか、入り口とは反対側に立っていた。
 後ろが跳ねた髪に、無精髭を生やし、素の状態なのか、それとも眠いのか判断はつかないが、細く鋭い視線を二人に向けていた。白衣、という服装からすると 病院関係者……むしろ医者なのだろうが、やや清潔感に不足しているという印象を与えるのに十分な姿だった。
「……七月さんですね、お待ちしておりました。私は医者の高瀬川です」
 やはり医者だった。高瀬川は、細い目を昴の胸へと向ける。以前、昴は女性に胸倉をつかまれたままだった。
「――それと、その男の子は何も悪くありません。くだらないことで私の仕事を増やされても困るので、その手を放してあげてください」
 そうして、ようやく女の人は手を放した。
 酸素の通り道が一気に開通したため、ゲホゲホと咽た。
 いや、それよりも、今この高瀬川という男は、彼女のことを七月さんと呼んだ。昴は、そうして彼女がほたるの母親であることを確信へと変えた。
「先生……! ほたるは……ほたるはどうしたんですか!」
 ほたるの母親の関心は、一気にほたるの容態へと向かう。
 その勢いは、まるで今にも高瀬川を突き飛ばして、ほたるの元へと走っていきそうだった。
 高瀬川は、まず、両手でまあまあ、と彼女を落ち着かせようと試みたが、まあそれも無理だろう、と思ったのか、その刃のような切れ長の瞳を真っ直ぐに見据えて彼女を見る。
「……命に別状はありません。少し疲労がたまっていただけです。ちょっとしたストレスの蓄積ですよ」
「疲労? ストレス? そんなもの、この男――藤崎のせいに決まっています! 今日、ほたるに何かやったんでしょう!? 隠していないで言いなさいよ!」
 ほたるの母親の怒りの矛先は、再び昴に向いた。高瀬川は、伝え方を間違えたことを悔やむ。
「七月さん。ほたるさんの病状は、短期的なストレスによるものだけではありません。もっと長期的……そうですね、何年間もの蓄積によるものです。そうですね……例えば家庭環境とか、そういったストレスがここにきて爆発しただけです」
「家庭環境! あなたは、私のほたるに対する接し方や育て方が間違っていたと言うんですか!」
「そのようなつもりで言ったわけではありません……例えばの話です」
 高瀬川の言葉は、その一つ一つがほたるの母親の火に油を注いでいた。
 こうなっては、何を言っても裏目に出てしまうだろう。高瀬川は、ぐっと押し黙りほたるの母親の目を見た。
「……取り乱してしまってすみません。先生……ほたるは、大丈夫なんでしょうか」
 効果があったのか、先ほどまでの勢いはなくなり、急に落ち着いた声で、彼女は高瀬川に訊ねた。
 何か思うことがあったのだろうか。その瞳には悲しみの色が渦巻いていた。
「先ほど言った通りです、命に別状はありません。しかし、説明することがありますので……ここで立ち話をするわけにもいきませんから、こちらの部屋へどうぞ」
 そう言って、高瀬川は左手を伸ばし、奥の部屋へ行くように促した。
 ほたるの母親が歩を進める。次いで、昴もその後ろに付いて行こうとした……が、高瀬川は彼の前で腕を伸ばし、それを遮った。
「ここからは、プライバシーに関わってきます。あなたは、ここで待っていてください」
「え……」
 その言葉に、昴は金槌で頭を打たれたような衝撃を受ける。
「あなたは、七月さんの家族ではないでしょう」
 高瀬川の声はあくまで冷静だった。
 そう、昴とほたるは恋人同士ではあるが、そういった繋がりがあったとしても他人という関係。
 親族か他人か……越えられない境界が、高瀬川の腕によって、昴の目の前に、はっきりと引かれていた。
「それでは、行きましょう」
 高瀬川とほたるの母親が奥の部屋へと向かった。直後、重く、冷たい扉の音が廊下に響く。
 再び静寂が訪れ、残された昴は絶望とともに、呆然と立ちすくんだ。

◇    ◇ ◇

 たとえ、日光が昨日と変わらずに照りつけようとも、澄んだ空が青く透き通っていようとも、昴の胸中は、厚い雲で覆われていた。
 月曜日……登校した学校には、相も変わらぬ日常が待っていた。
 ただ、ほたるのいない机という空間と、ひどく落ち込んだ自分という存在だけが、日常の中からナイフで切り取られているようだった。
 授業なんて、当然頭の中には入らない。
 ぼーっとしていたにも拘らず、先生に指名されなかったのは不幸中の幸いといってもよいのかもしれないが、おかげで授業を受けているなんて感覚はなく、昼休みになったということに気付いたのは、淳に肩を揺すられてからだった。
 そして、昴と淳は屋上にいた。
 いつもと同じ風景だが……まぶしい陽の光を、昴は初めて煩わしいと思った。
 淳の取り巻きの二人はいない。淳が、今日は昴と二人で食事がしたいと言って追い払ったのだ。
 それを聞いたとき、大久保と喜久井は怪訝な顔をして両者顔を見合わせたが、これは時々あることなので、気にせずに各々別の行動を取っていた。
 おかげで、二人しかいない屋上はいつもよりも静かで、そして広いと感じられた。
「昴――」
 淳が口を開く。
「お前、何かあったのか?」
「――」
 昴は応えなかった。いや、応えられなかったのかもしれない。
 彼自身、何があったのか、頭の中で理解していなかったのだ。
 心ここに在らず、といった様子で、昴は菓子パンを頬張る。味なんて感じていなかった。その様子は、壊れたからくり人形のようだった。
「なあ……今日、七月が欠席したのと関係あるんだろう? 無理にとは言わないが……お前、朝からその様子だからさ、そろそろ気になるわけよ。ここには俺しかいないし、俺も誰かに言うなんてつもりはないからさ、少しでいいから話してくれよ」
 淳が、色黒な顔を心配そうに歪めて言った。昴は、泥水のように濁った瞳をコンクリートの床に向ける。
「なあ、昴……?」
 昴は返事をしなかった。出来なかった。頭の中では昨晩のことが何度も繰り返し再生されていた。
 リピートされ続けるそれは、止まらずに、取りとめもなくあふれ続ける。
 淳の声なんて、聞こえていなかった。

「入院!」
 昨晩、冷たい廊下、その向こうの部屋、そこから怒鳴り声のような大きな声が聞こえてきたのは、昴が取り残されてから数十分後のことだった。
 その後、奥でしばらく何だかんだと言い合う声が聞こえてきた。
「――でも、――でしょ? どうして、そんなことが?」
「落ち着いて――です。――検――の結果、ほたるさんには腫――が見つかりました。もしかしたら――の恐れもありますので、しばらくこちらで様子見という ことで――入院していただきます」
 要所が聞き取り辛いが、大音量の声が耳に飛び込んでくる。
 昴は、聞いてはいけないと思いつつも、その声に聞き耳を立てていた。
 高瀬川の言うことを聞くことで、心の中に渦巻く不安を、僅かでも減らせる……そう思ってのことだった。
「――ですって? 嘘でしょう、嘘だって言ってよ! どうして――が――?」
「こればかりは、仕方がありません。また……手術の必要が――可能性もありますので、心に留めて――ください」
 そして、昴は聞いていたことを後悔することとなった。いや、どちらにしろ、後で聞くことになっていたかもしれない。
 だが、心構えが全く出来ていない昴にとって、その不意打ちじみた言葉は強烈に響く。
「しゅ……じゅつ?」
 手術――その単語が、ズシリと胃の中に落ちてきた気がした。
 ほたるが入院して、その上手術の必要がある……その真実は、打ちのめされた昴に追い討ちをかけるには十分すぎた。目の前が一気に暗くなる。
 そこまで病状は重いのか。
 そんな身体で、彼女は昴と付き合ってくれていたのか。
 水族館で輝かせていたあの笑顔の裏で、ほたるは病魔に蝕まれていたというのか……?

 コツ、足音が一つ。
 昴が視線を上げると、そこには金色の瞳がにらんでおり――。
「――っ!」
「聞いていたでしょう?」
 昴の眼前には、ほたるの母親が立っていた。
 威圧的に見下した姿から発したその言葉は、普通ならば濡れ衣となっていたことだろう。
 だが、実際に聞こえてしまっていた昴にとっては、それは否定の出来ない事実であった。
「もう、ほたるには近寄らないで……!」
 昴の顔が僅かに強張ったのを見てかはどうかは定かではないが、彼女は畳み掛けるように冷たい刃のような言葉を突き立てる。
「先生は、ほたるの病気はストレスが原因だと仰ったわ。確かに短期的なものだけではないとも仰った。でもね、今までこんなこと一度もなかったのよ?  間違いない……今回のことはあなたが原因なのよ! あなたがほたるに近づいたせいで、ほたるは……ほたるは……!」
 ほたるの母親は完全に我を失って、感情の塊を昴にぶつけていた。だが、同時に昴も、頭の中が真っ白になっていて、その言葉の一つ一つを真に受けてしまっていた。
「帰って……! もう、帰って!」
「七月さん……落ち着いて……!」
 廊下でのいざこざを聞きつけてか、高瀬川は部屋から飛び出してきた。
 まずは、ほたるの母親をなだめ、次に昴を見た。
「……きみ、帰ってもらえるかな」
「……っ!」
 当然、高瀬川は、この状況をどうにかするために言っただけに過ぎない。しかし、今の昴にとっては、その言葉さえも自分を追い出そうとしているものだと受け取ってしまった。
 追い討ちに次ぐ追い討ち。昴は、幽霊のような足取りで病院を後にした。もう、それ以外にとるべき行動がなかった。

「――ばる!」
 昴は、自分が肩を揺さぶられていることに気付き、次第に覚醒する。
 キリキリと万力で締め付けられるような胸の痛みという感覚を思い出す。
「昴!」
 少し乱暴に呼びかける声。
 おかげで、昴は自分が屋上にいて、目の前に淳がいるということを再認識した。夢の中で溺れていたように、現実感がない。
「お、おい、大丈夫かよ。お前、本当に何があったんだよ?」
 淳が、普段は見られないような深刻な表情を浮かべながら言う。
 だが、昴は答えられない。このことは、誰か他人に相談してよいものでは無いと思った。
 彼氏である昴ですら、土足で踏み込んではいけない……いや、むしろ聞いてはならないと思うほどにプライベートな話題だ。
 これ以上、ほたるの秘密を広めるわけにはいかない。そう判断して、彼は黙秘する。
「ごめん、言えないんだ」
「……なあ、昴」
「ごめん」
 昴は頭を下げる。だが、これでいい。この場さえ切り抜ければ問題はない。
 ほたるの問題については、自分で考えればいい。
「昴、顔上げろよ」
 だが、淳は食い下がっていなかった。真っ直ぐな瞳を昴に向ける。
「昴、俺が大久保や喜久井を連れてこなかったのは、お前と本当に真剣な話がしたいと思ったからだ。あいつらといつも一緒につるんでいると楽しいには楽しいが……ただ、それだけだからな」
 確かに、淳にいつものお茶らけムードなど、どこにもなかった。
「俺は秘密を守る、絶対だ。今日のお前は、なにかわからないけれど、一人じゃどうすることも出来ないほどの大きな荷物を抱え込んで、立ち往生しているだけ に見えたんだ。なあ、人に話せば、気持ちが軽くなるってこともあるんだぜ? 俺を信じて、話せないか?」
 淳の眼差しは真剣そのものだった。
 それを見て、昴は自分の胸が熱くなるのを感じた。

 そして、昴は昨日までにあったことを、簡潔に、しかし、ゆっくりと淳に語った。
 一つ一つの言葉をかみ締めるように放たれた言葉は重く、淳はただ、弱りきった友人の姿を眺めることしか出来なくなっていた。
「――わからないんだ」
 昴が呟く。
「……」
「僕は、彼女とデートしただけなんだ。普通ってのがどんなものなのかわからないけど、それでも、ちゃんと普通のカップルみたいにデートしたと思う。僕は何も悪くない……悪くないんだ。それなのに、僕ばかりが責められて……わけがわからないよ」
「……」
 こういうときは、なんと言えばいいのか、淳にはそれがわからなかった。
 いつもだったら、持ち前の明るさのおかげで話しかけることなんて容易いはずなのだが、そんなことが許される雰囲気ではない。
「昴――その、なんだ」
 だが、淳はとても黙っていることなんて出来なかった。
「俺、思うんだが、ちょっと気にしすぎじゃないか?」
「え……?」
「なんていうかさ――昴は、気にしすぎていると思うぞ。七月のお袋さんがキレたのは、母親として娘の身を案じたからで、別に本気でお前のせいだなんて思っ ちゃいないって。医者だってそうだ、きっと場を収拾させたくて言っただけで、お前が邪魔だなんて思っていなかったはずだぜ」
「……そう、なのかな」
「ああ、きっと大丈夫だ」
 少々強引ではあったが、根拠はなくとも、胸を張る淳。
 しかし、その効果は絶大だったようで、昴の表情にも少し穏やかな色が混ざりはじめた。
「僕、どうすればいいんだろう」
「そうだな――まずは、七月の病状がそんなに重くないことを祈ることじゃないか? なんだったら、お見舞いに行ってもいいと思う。病は気からとも言うし、彼女を安心させてやるのも彼氏の役目だろう?」
「……僕が行って、ほたるを安心させられるのかな」
「大丈夫だ、それは確実に言える。俺から見ても、七月はお前のことが好きだ、いや、大好きだ。俺は単純バカだが、誰が誰のことが好きかどうかぐらいわか る。お前のときは外したが、こう見えても、割と当たるんだぜ? それに、下の名前で呼んでいるってことは、仲良くなった証拠じゃないか。それだけお互いに 好き合っているんだったら、そりゃもう、会いに行くしかないじゃないか。うじうじ悩んでいるより、顔を見た方がすっきりするんじゃないか?」
 淳の目は、まっすぐに昴を見ていた。その熱い思いを受け止めて、昴の心は揺れ動かされるのだった。
「わかった……ありがとう、元気が出たよ」
「よしよし! ああ、本当にお前が羨ましいぜ! 俺にはそーゆー縁がないようでなー失敗続きの負け犬生活だぜ!」
「……淳こそ、何かあったの?」
「ん、いや、ちょっとな、有紗ちゃんにこの熱く熱く燃えたぎる想いをぶつけたら、ものの見事にごめんなさいと言われちゃってな、つまりだ、ブロークンハー トってやつだ。わかるか、失恋だ。世の中には、こうして恋愛しても上手くいかないやつがたくさんいるんだ。それに比べたら、お前は幸せ者だ。ちょっとぐら いの壁ぐらい、乗り越えてやれよ!」
「――うん」
 正直、昴はなんと返せばよいのかわからなくて、戸惑った。
 まさか、淳が有紗に告白するとは思っていなかったし、それにまさかフラれるとは思っていなかった。
「あ、俺のことは気にするな、マジで。平気だからさ。つまり、今の俺じゃ有紗ちゃんとは合わないってことだ。だから、俺は有紗ちゃんに振り向いてもらえるような男になる! そんなわけだから、一緒に壁なんて乗り越えていこうぜ!」
 淳は、強がりも嘘は言っていなかった。鈍感な昴でも、目を見ればわかった。
 昴は、友人のその姿に、体の奥底から力が湧いてくるのを感じ、そして、同時に目頭を熱くし――バレないように涙を流した。

 ◇ ◇ ◇

 放課後になって、昴はすぐに鞄を肩に下げ、教室を出た。
 普段だったら走らない廊下を、小走りで抜け、下駄箱で靴を履きかえる。
 早くほたるのいる病院へ行きたい、そんな気持ちが昴の胸の中を満たし、気持ちを焦らせていた。

 校庭へと出る。
 空は悔しいほどに澄んで晴れ渡り、夏の日差しが昴の頭上から照りつけていた。
 まだ部活の喧騒は聴こえてこない。どのクラスもホームルームが終わったばかりで、これから仕度を始めようとしているのだ。それほどにまで早く、昴は教室を出たのだ。
 いつもは、ほたるにあわせて歩調をゆっくりにしていたが、今は関係ない。後ろを振り返っても誰もいないのだ。そこにいるべき人は、昴がこれから歩く先にいる。
 だから、昴は早歩きで、いや、もうそれはほとんど小走りといっていい速度で校門を出た。
 いつもの下校道を一人で歩く、それは久しぶりのことだった。ほとんど会話なんてしなかったが、それでもそこに確かにいた存在は、昴の中で、とても大きな存在へと膨れ上がっていたのだ。
 ふと、速度を出しすぎた気になる。もちろん、歩調を合わせるべき人なんていないのだが、もはや習慣になってしまっているのか、昴は立ち止まり、後ろを振り返る。もちろん、そこには誰もいない――

「はぁ……はぁ……やっと……追いついた……藤崎、歩くの速すぎだよ……」
 ――いた。
「ゆう……なぎ?」
 そこにいたのは、昴のクラスメイトで幼なじみの少女、夕凪有紗だった。
 淳の交際を断ったという先程の話を聞いてしまったからか、昴の目に、彼女の姿はいつもと違って映った。彼女は彼からの告白を受けてどんな想いだったのだろうか。
 視線を合わせると、悪戯っぽくエヘッ、と笑う。それによって、微かな疑問は有耶無耶になってしまった。
「本当は、教室を出る前に声かけようと思ったんだけど、藤崎がすぐ出て行っちゃったから……だから走って追いかけてきちゃった」
 なるほど、彼女は急いで走ってきたのだろう、息を切らせており、目にかかった前髪を手ぐしで直す。
「ごめん、急いでいた。何の用?」
 昴は、こんなところで立ち止まっている気はない、と言わんばかりに早口で言う。
 有紗は、いつもと違う昴の厳しい口調に少し面食らったが、一度頷き、口を開く。
「あのさ、これからほたるの病院に行くんだよね?」
「――どうしてそれを?」
 ほたるが入院していることは、昴とほたるの母親……それから昴が話した淳しか知らないと思っていたので、昴は驚く。
「ほら、私、ほたるの友人だし先生に訊いてみたら、教えてもらえたんだよ。ほら……今日の藤崎の様子がすごく気になったから、ほたるが休んでいるのと何か 関係があるのかなって」
「そんなに、僕、変だった?」
 淳にも夕凪にも見破られるということは、相当変だったのだろう、と思い、昴は訊ねてみた。当然のごとく、相当変だった、という答えが返ってきた。
「私も、ほたるの様子が気になるから、一緒に病院に行っちゃダメかな」
「いいんじゃない」
 昴は、そんなことはどうでもいいから、早く病院へ向かいたかった。その気持ちが、ぶっきらぼうな口調へと現れていた。
 有紗もその気持ちを感じ取り、行こう、と一言呟いて歩き出す。昴は、返事をすることもなく、病院へと歩を進めた。
 そんなとき、昴の気持ちに応えるかのように、病院行きのバスがちょうどバス停に到着した。

 ◇ ◇ ◇

「先生、支倉さんがいらっしゃいました」
「ん――通してくれ」
 部屋の外から看護婦の声がして、高瀬川はゆっくりと返事をした。
 七月ほたるが搬送されてきてから、約一日半……一睡もせずに、彼女のカルテとにらみ合っていた彼は、驚くほどやつれていた。
 剃り忘れた髭を少し気にしながら、しかしそのまま来客を招き入れる。
「こんにちは、高瀬川。ご機嫌いかがですか?」
「それは何の皮肉だ支倉。軽口なんて叩ける状況でないことぐらい、わかって来たのだろう?」
「おや、少しばかりでも緊張を解こうとしたのですが……逆効果でしたね、悪かったです」
 少しも悪かったなんて思っているようには見えないそぶりで、彼は椅子に腰掛けた。
 支倉と呼ばれた、オールバックに銀縁の眼鏡、黒いスーツで痩躯を包んだ彼は、以前修学旅行先の美術館で、昴と出会った支倉御影であった。
「随分とやつれましたね、私を呼んだということは……つまり、そういうことなのですね?」
 支倉が訊ねると、高瀬川は唇を噛み、悔しそうに、ゆっくり深々と頭を下げた。
「支倉、時が来てしまった。君の力を借りなければならない。頼む」
 支倉は、その白く端正な顔を、少しも歪めることなく、頭を下げる高瀬川見つめた。
「高瀬川、顔を上げてください。誰の責任でもありません、こうなることは以前からわかっていたことです。状況は一応軽く聞きましたが、是非詳しくご説明願えますか」
 その声に、高瀬川は顔を上げ、そして、もう一度首だけで礼をすると、椅子を半回転させ、机の上に散乱していたカルテを手に取った。
「やはり、悪魔憑きが見つかった。十七歳の少女だ」
「ええ、聞いています。それは、ビンゴだったのですね?」
「ああ、私が今までに見てきた中でも……いや、どんな資料で見たものよりも強力な、悪魔の種を彼女は宿している。まさに、恐怖の大魔王の名にふさわしい存在だといえるだろう」
「なるほど、高瀬川がそう思ったのならば確かでしょう。時期も場所も、全て予言通り――恐らく間違いないでしょう。どのくらい成長していますか?」
「幸い、見つけるのが早かったおかげで、今はまだ種のままだ。種とは言えど、力が強すぎるため私の力では到底及ばない。しかし、君の力ならば、正確な処置を施せば、何とかなるだろう」
「そうですか――それは良かったですね」
 支倉が、そう呟いた瞬間、高瀬川の目がギョロリと動き、彼を睨んだ。
「良かった、だと? 何が良いものか! もしも生まれ出でていたら世界の終焉が訪れるほどの強大な力が、我々のすぐ隣にいるんだぞ! ああ、確かに今は大 丈夫だ。だがな、少女に何かがあったら状況が一気に変わる恐れだってある! 巨大な不発弾を横に置いているようなものだ! そんな状況で、よく良かったな どと言えたものだ!」
「……落ち着いてください高瀬川、失言でした。しかし、手を出せるならば、それは幸いです。早いうちに処置を施してしまいましょう。そうですね――これから早急に準備を致しますので、オペは翌朝開始しましょう。問題ありませんね?」
「――ああ」
「高瀬川? 何か隠しているんですか?」
 高瀬川の普通ならば気付かれない程度の言葉の淀みに、支倉は反応した。眼鏡がぎらり、と光る。
「……高瀬川?」
「すまない、君に隠し事をしても仕方がなかったな。一つだけ問題がある、少女の母親がヒステリック気味で、何かと面倒なことになっている」
「ああ、なんだ、そんなことですか。それは私に任せてください。私から説明をしておきます」
「わかった――だが、少女を刺激するようなことだけはないようにしてくれ。ただでさえ、心が揺れ動きやすい年頃なんだ」
「承知していますよ。弱っている心は、悪魔にとって格好の揺り篭ですからね。では、主の加護がありますよう」
 そう言って、支倉は立ち上がった。
 同時に、高瀬川も席を立ち、ふう、と深くため息を吐く。その額には、脂汗が浮いていた。

「先生」
 そのとき、ちょうどいいタイミングでノックの音が響いた。
「なんだ?」
「藤崎という高校生の子が、七月さんの面会にいらしたのですが」
 その言葉に、高瀬川は眉を潜める。
「面会謝絶だ、と言っているだろう。受付は何をしているんだ」
「いえ、それが……受付で七月さんのお母さまと会ってしまって――その――……」
 高瀬川の胸に、嫌な予感がよぎった。
 胃がキリキリと痛み出す。
 支倉は、やれやれ、といった具合に、部屋を出て行った。

 ◇ ◇ ◇

「何で来たの!」
 昴と有紗の二人が病院に着き、まず浴びた一言目がそれだった。
 ほたるの母親は、たまたま受付前のロビーに腰掛けており、そのせいでバッタリと出くわすことになってしまったのだ。
 彼女は昴に対していい感情を抱いていない。入院だ手術だで気が滅入っている彼女にとって、そのどうしようもない胸中の怒りの矛先は、昴以外になかった。 よって、当然顔を見るなり、彼女は昴に食ってかかった。
 昴は、ある程度覚悟していたものの、それでもいきなり厳しい言葉をかけられるとは思っていなかった。
 ロビーにいた他の人も、昴の後ろにいる有紗も、驚きの表情でそれを見た。
「……ほたるに会いたくて、来たんです」
 だが、それでもここまで強い信念を携えて来たのだ。昨日は言われ続けるだけだった昴が、初めて口ごたえをした。
「何よ、ほたるをあんな目にあわせた張本人のくせに! 偉そうにあの子の名前を口にしないで、あなたはほたるの何なの? 何様のつもりなの!」
「……僕は、ほたるの恋人です」
 声は震えてしまっているが、昴は言った。
 ――ほたるが好き。その気持ちが昴をここまで奮い立たせたのだ。その気持ちに間違いはない。
 後ろで有紗は驚いていた。自分が知っている昴と、今この場に立っている昴は、まるで別人のように見えたからだ。
 だが、そう思うのも無理はないだろう。昴は、負けない、という信念を抱き、ほたるの母親の目をにらんでいた。そこに、気弱な昴の姿なんてない。
「……ふうん、ほたるの恋人? じゃあ訊くけど、あなたはほたるの何を知っているの? 今まで、ほたるがどんな風に生きてきたか全然知らないくせに。所 詮、途中参加の分際で、何を偉そうに。何が目当てでほたると付き合っているのかしら。恋人だったら、何をしても許されると思っているの? 言いなさい、す ぐ言いなさい! ほたるに一体何をしたの! どこに行って、何をしてきたの!」
「僕は、何もやっていない……」
「この嘘つき!」
「嘘じゃない……!」
「嘘よ、男なんてみんな嘘つきよ! 女を道具としか思っていない……そんなやつらばかり! あなただってそうよ、今日だって後ろに別の女を侍らせて……そ して昔の女なんて、簡単に棄てるんだわ。 ええ、だからあんなひどい目にあの子を遭わせるぐらいなら、私は死んでもここを通さない! 絶対にあなたをほた ると会わせるものですか!」
 彼女の目には、鬼気迫る気迫がこめられていた。
 そこまで彼女に言わせるものがなんなのか、昴には当然理解できなかったが、それでも自分の決意が僅かに揺らいでしまうのを感じた。
「藤崎……この女の人、普通じゃないよ……」
 昴の後ろで、有紗が呟いた。
 昴は、ぐっと拳を作りなおし、もう一度ほたるの母親の顔を見る。
 ここまで来たのは、ほたると会いたいという気持ちから、そして、彼女もまたそれを望んでいるという直感めいた確信から――!
 たとえ会えないとしても、ほたるの母親にこんな風にまで言われて、引き下がることなんて出来なかった。
「僕は、ほたるに何もしません。ほたるが嫌がることは何もしないって約束します。絶対に。だから、お願いです、少しだけでいいんです。ほたると会うのを許してください」
 すると、彼女の口元が不敵に釣りあがった。
 それは、ひどく歪んだ、敵の首を取ったかのような表情――。
「その、ほたる本人が、あなたと会いたくないって言っていたらどうするの?」
「え――?」
 予想外の言葉をぶつけられる昴。
 その場合、どうするのだろう。
 そもそも、これはほたるも昴も、お互いが好き合っているという前提での話。相手が会いたくないと思っていたら、それは単なる昴の――
「何よ、さっきから聞いていればあなたは自分のエゴばかりならべて。本当にほたるの気持ちを考えているのかしら? ほたるは言ったわ、あなたとは会いたくないって、ね!」
「それは……そんなことは……」
 ――ない、と、否定したかった。だが、果たしてそうだろうか。
 もちろん、これは彼女がでっち上げた真っ赤な嘘……しかし、その効果は絶大だった。
 デートの帰り、確かにお互いに好きだってことを確認した。でも、口先だけなら何とでも言える……いや、しかしほたるは嘘をつくような娘じゃない。昴の頭の中で、ぐるぐると、疑心が回り始めた。

「はい、そこまでです。ここは病院です、静かにしてください」
 そのとき、ロビーに白衣を来た男――高瀬川が入ってきた。
 第三者の介入、それにより事態は収拾へと向かうように思えた。昴も、それにすがるように、彼を見た。
 だが、ただ一人、ほたるの母親は、高瀬川の存在を認識し、今度こそチェックメイト、とばかりに邪悪な笑みを浮かべた。
「先生、この男の子がほたるに会いたいって言うんですけど、ほたると会わせることは出来ませんよね?」
 高瀬川は、それを聞いて、彼女と昴を交互に見た。そして、昴に向き合うと事務的に、ただ一言言った。

「七月ほたるは面会謝絶だ」

 決意の、折れる音がした。
 もちろん、高瀬川が言ったのは、病状が良くないために面会謝絶、と言っただけに過ぎない。だが、昴はそれを、ほたるによる拒絶だ、としか受け取ることが出来なかった。
 もう、昴には何も言う気力も残されていなかった。何も言わず、頭を下げると、ゆっくりと後ろを振り返り、病院を出た。
「ちょっと……藤崎!」
 有紗は、慌ててその背中を追う。
 それを見て、ほたるの母親は勝者の笑みを浮かべた。

 ◇ ◇ ◇

 真っ白な病室。
 昼間ではあるが窓にはカーテンがかかり、蛍光灯の光だけが部屋を照らしていた。
 薬品の臭いが鼻を突く。彼女の腕からは、点滴の管が伸びていた。
 ベッドに横たわり、ぼーっとした頭で天井のシミの数を数えていたほたるは、トントン、というノックの音に、小さく、はぁいと返事をした。

「失礼します」
 そうして入ってきたのは、高瀬川でも看護婦でもなく、彼女にとって初めて見る存在――支倉御影だった。思わず緊張が走る。
「初めまして七月ほたる……ほたるさんでいいですね。私は、今日から高瀬川とともにあなたの治療を行います支倉御影と申します、どうぞよろしくお願いします」
 音も立てずにベッドのそばへとやってきた彼は、端正な顔立ちに柔らかな笑みを浮かべ、挨拶をした。
「ふぁ……はい、よろしくお願いします……」
 ほたるも一瞬戸惑ったが、信頼できそうな人だとわかると、安堵の表情を浮かべた。
 それから支倉は、少々事務的な話をした。
 丁寧な言葉遣いと、丁重なその態度は、ほたるに気を許させるのに十分だった。
「ふむ……思ったよりも悪くないですね。これならば、今日安静にしていれば、あとは大丈夫でしょう」
 支倉は、素直に思ったことを言う。ほたるを安心させると同時に、実際、自分の力で何とかなる範疇だと判断したからだ。
「それと、そうですね……明日の朝に先日お知らせしたとおり、手術を行います」
 手術、という言葉に、ほたるがびくりと反応する。
 これは先日のうちに聞かされていたのだが、実際に行う、と言われると現実味がなかった。
「あの……手術、怖いです」
 ベッドの下から伸びた黒い影が床を這い出し始める。支倉は、それを見て、一瞬だけ眉を動かしたが、すぐにさっきまでの表情に戻る。
「いえ、心配しないで下さい。必ずあなたを治しますから」
 その言葉は、効果的だったのだろうか。
 まるで魔法のように、鼓動を早めていた彼女の心臓が動悸を正常に戻した。
「……お願いします」
「大丈夫ですよ、我々はプロですから。そうですね……薬を持ってきますので、今日はそれを飲んで眠ってください。体力を温存しておくに越したことはありません」
 支倉にとって、ほたるが起きているのはあまり都合が良くなかった。
 彼女の中にいる悪魔は、弱っている心を狙い、飲み込もうとする……さっきの言葉程度で活性化されるようでは、この先起きていられたらどうなるのかわからない。
 時がくるまで、触らぬ神に祟りはない。いや、この場合、触らぬ悪魔に祟りなし、と言うべきか。

「先生」
 睡眠薬を取ってこようとする支倉の背に、控えめな声が投げかけられた。
 はい、と立ち止まった支倉は、ほたるの目を見た。
「あの、さっき昴くんの声が聴こえた気がするんですけど……彼、来ているんですか? 来ていたら、会いたいです……」
「昴……?」
「あ、あの、あたしの彼氏なんです……」
 ほたるは、布団を口元にまで引っ張り、恥ずかしそうに答えた。その姿は十分扇情的だったのだが、支倉には全く関係がなかった。
「彼氏……なるほど」
 支倉の中で、さっき面会に来たという高校生のことを思い出した。きっと彼が彼女の彼氏なのだろう、と気づきながらもしかし、来ている、とは言えなかった。
 今この場で、彼と彼女を会わせることは、得策ではない。とにかく、安静にしてもらわないと困るのだ。
「来ていませんよ」
 だから、支倉は嘘をついた。
 声が変わることもなく、物怖じすることもなく、あくまで平常を装いながら、彼は嘘をついたのである。
「――そう」
「それでは、失礼します」
 そそくさ、と支倉は病室を出た。再び、部屋の中で動くものは何一つなくなる。

 ……いや、なくなってはいなかった。
 ほたるの中で、ソレは起こっていた。
 彼女の中で、得体の知れないソレが動き出し、彼女に向かって語りかける。
 言語ではなく、あくまで感覚に直接訴えるような形で――だが、それでも彼女は理解した。

 ――支倉が、嘘をついていることを。

 ほたるの中の悪魔が、動き出す。
 ほたるに知恵と力を授ける。
 それは、宿主の願いを叶えるための行動だった。
 彼女の願いは、至ってささやかなもの。今、昴がどうしているのか、それを知りたかっただけだ。
 ベッドの下から黒い影が、壁を、天井を走り、ドアの隙間を抜けて、ロビーへと一直線に伸びた。目を閉じたほたるに、その影が視ている世界が映る。
 そこで彼女が視た昴は――。

「……嘘、なんで?」
 病院に背を向け、別の女――夕凪有紗と一緒に去っていく姿だった。
「なんで、帰っちゃうの? なんで、有紗ちゃんが隣にいるの? ねえ、どうして? あ……行かないで、待って……」

 ――ザッ……ザ、ザザザザザ……!
 フラッシュバックする光景。
 背中を向けて歩く男の人、それは、今の昴に似ていて――。

 ザザ……ザッ……ザザザ――!
 それは、どんどん自分の前から遠ざかっていく。
 なんて切ない感覚、身を裂かれるような痛みがほたるを襲う。
 その男の人は昴とは全然違うのに、何故か、ほたるはそれを昴だと感じた。

 ザザザザ……――ザッ……ザ、ザ、ザザ……!
 どんどん小さくなっていく男の人。
 やめて、行かないで、行かないで、待って、帰ってきて、行かないで……! 漏れる嗚咽、早まる動悸、荒くなっていく呼吸――!
 遥か遠くに行ってしまった男の人に向かって、ほたるは叫ぶ。
 男の人は、声が聴こえたのか、豆粒のように小さくなっても振り返った。

 そこには、遥か昔に自分と母親を残して離婚した父親がいて――その首から上が、昴のものへと変わった。
 そして、彼は呟く。

 ――さようなら、と。

「ダメええええええええええええっ!」

 世界が戻る。
 視界に入ったのは、薄暗い病室と、自分の腕へと栄養を送る点滴。
 天井へと伸ばした自分の腕、そして、汗をかいた自分。
「はぁ……はぁ……んっ……」
 ボロボロと流れ出る涙を、パジャマの袖でぬぐった。
「大丈夫……」
 これは、何度も見てきた繰り返される過去の光景。だからもう問題はない、思い出すのは辛いけれど、それでも今は大丈夫――。

 ――本当ニ、大丈夫ナノカ?

 脳内に響くメッセージ。
「ううん……全然大丈夫なんかじゃないよぉ……」
 心は悲鳴を上げ、そして昴のことを求めた。遠くへと去って行く彼の姿が、以前の父親と妙に似ていて、嫌な予感を胸中へと広げた。
 彼は、もう二度とやってこないのかもしれない。そんな想いが、ほたるの小さな体の中であふれ出しそうだった。
「昴……くぅん……」
 太陽が雲に隠れて、より暗くなった世界で彼女はただ一人、涙を流した。

 ◇ ◇ ◇

 昴と有紗が病院を出ると、外に広がっていたのは、熱く暗い雲で覆われた空だった。
 セミがなく声も聴こえてこない。今にも空が泣き出しそうだ。
 振り返ることもなく、早歩きで道を行く昴を、有紗は小走りで追いかけた。
 行きと同じような構図だが、明らかに違うのは、昴が目に見えて意気消沈しているところだった。
 そのため、有紗はなんと言って声をかけたら良いのかわからなかった。だが、それでも声をかけずにはいられない。
「藤崎、待ってよ!」
 もちろん、止まるはずなんてない。昴はどんどん歩を進めていった。
「藤崎っ!」
 有紗が、昴の前に回りこんで制止させる。昴は、咄嗟に顔を逸らした。
 だが、有紗は見た。昴が泣いているということを。
「あ……藤崎……」
「……夕凪、僕、格好悪いよね」
 昴はうつむいたまま、口を震わせながら言う。
 頬を涙が伝るのを、有紗は見た。
「わかっていたんだ、僕。諦めって言うのかな、勉強もダメ、運動もダメ、いいところなんて何一つない」
 一度、そこで鼻を啜る。空では、ゴロゴロ、と雷の音が響き始めていた。
「それだけじゃない、人付き合いだってダメ、会話だってダメ、気を遣うことも出来ない」
 有紗は答えられない。
「でも、一人の女の子を好きになってさ、振り向いてもらえるように一生懸命頑張って、やっぱり上手くいかなくて……でも、夕凪に手伝ってもらって、やっと こさ付き合うことに成功してさ……夢じゃないか、って思ったんだよ。だけどさ、それはやっぱり夢だったみたいだよ。結局、僕は何をやってもダメだったん だ。好きになった女の子一人守れなくて、そりゃ嫌われるのも当然だよ、僕は自分のエゴだけで行動していた。ほたるのお母さんの言うとおりだよ。卑しくて、 使えなくて、どんだけダメ人間なんだよ……!」
「……違うよ! 藤崎は勘違いしているって! きっと、会えないのはほたるの具合が悪いからで、嫌われたわけじゃないって! さっきの強かった藤崎昴はどこに行ったの?」
 有紗は、昴の肩を揺する。昴は、有紗の目を見ようとせずに、淀んだ瞳で足元のアスファルトを見つめていた。
 有紗の胸が、きゅう、と痛んだ。
「ほたるのお母さんは昴に嘘をついただけだよ! あれを信じちゃダメ!」
「……ほたるのお母さんが、嘘をつくわけがない……」
「藤崎っ!」
「ほたるのお母さんの言うとおりだ。僕はほたるの気持ちなんてこれっぽっちも考えていなかった。自分が会いたいって、そんな身勝手な考えだけでここまで やってきた。ほたるに対して邪なことを考えもした。つまりさ、結局のところ、どうせ僕は、卑しくて、使えなくて、ヘタレで、所詮ダメ人間で……そんな僕 に、ほたるは愛想を付かせてしまったんだよ!」

 パン――と、乾いた音がした。
 有紗は、大粒の涙を流しながら、昴の頬を平手で打っていた。
「どうして――どうして自分のことを、そんな風に言うの? 正気に戻って!」
「……」
 昴は、熱くなった頬に触れる。
 じんじんとした痛みが、頬だけでなく、体全身に響き渡っていた。
「藤崎は藤崎にしかない良いところがあるじゃない……だから、どうせなんて言わないで……ダメ人間なんて言わないで……」
「僕はダメ人間だよ……僕は、ほたるにふさわしい男にはなれないんだ――!」

 有紗は思い出していた。
 そんなに遠くない、けれど、遥か昔のような記憶。それは、四年前――まだ昴と有紗が中学二年生だった頃。
 昴は、体格も良くないし、運動神経も良くない、勉強の成績は中の下、さらに自分の意見を言えない性格で、毎日のようにイジメを受けていた。

 水をかけられたり、転ばされたり、どつかれたり、嘲け笑われたり……一人のときもあれば、時には複数から、思春期特有のコントロールできない苛立ちを発散するための格好の標的とされていた。
 しかし、昴はやられても親や先生に言うこともなく、当然やり返すこともせず、それを受け続けていた。
 反応がないから余計に腹が立つのか、イジメはどんどんエスカレートしていく。それでも昴は耐え続けた。
 ある日、昴が彼らに今までのことを謝るから公園に来てくれ、と言われていた。それは誰が見ても見え透いた嘘、呼び出して何かをするための口実に過ぎない。だが、昴はそれを二つ返事で答えたのだ。
 さすがに見かねた有紗は、彼に話しかけた。
「ねえ、どうして何もしないの? このままやられっぱなしでいいの?」
 有紗は、理不尽ということが許せなかったのだ。
 理由もなく非難を浴びたり、暴力を受けたり、そういったことを憎んでいた。
 そして同時に、他人に痛みを与えた者は、それ相応の痛みを受けるべきだと思っていた。
 だから、昴に話しかけた。イジメを受けていることを言えば、彼らは少なからず罰を受ける。それが当然だと信じていたのだ。
 しかし、昴の答えは、有紗を驚かせることとなった。
「僕、彼らが嘘をついているとは思えないんだ。だって、みんな心に悪いところばかり持っているわけじゃないから……信じないとダメだと思う」
 呆気に取られた。毎日イジメを受けている人間の言う言葉ではないと思った。
 結局、昴は公園に行って、いつも通りイジメを受けた。いつもと違うのは、調子に乗ってしまった彼らが、昴の顔に痣を作ってしまい、それが原因で周囲の大人の知るところになってしまったことだった。
 そして、彼らは罰を受けた。それは当然の結末だったと言えるのかもしれない。だが、事情を知る有紗は、もしも痣がなければ今日も同じようにイジメを受け続けていただろう昴のことを考えていた。
 昴は強かった。人を信じる強さ、それは有紗にはない強さだった。だが、その強さはもっと大きな理不尽の波に襲われたら、あっけなく飲み込まれるようなものだった。
 藤崎昴は、誰かが周りにいて、見張っていないといけない……そんなタイプの人間だと思った。
 有紗は、それ以後そんな気持ちを胸に秘め、昴と接することに決めた。

 その昴が、大きな理不尽に飲まれようとしているのを、今、有紗は目の当たりにしていた。
 守らなければならない、長く彼を見てきた自分にしか、それは出来ない。そんな気持ちが大きく揺れ動く。
 いつからだろうか……有紗は、その気持ちを隠すために、自分に嘘をつき続けてきた。
 昴とほたるの恋路を応援し、自分は一歩後ろからそれを眺める。二人の幸せを願うことで、自分の気持ちを誤魔化してきた。
 しかし、それにも限界が訪れる。
 その大きくて隠しようのない気持ちが、今、ついに弾けた。

「私には、ふさわしいよ……?」

 ぽつ、と、雨が降り始めた。
 次第に強くなっていく雨がアスファルトを叩く。
 しかし、その音でさえも、高鳴る心臓の音を掻き消しはしなかった。


 第三章、完


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