修学旅行という、高校生活における一大イベントが終わった。
 生徒たちは僅かな非日常から日常に戻され、さらに夏休みの前に、壁として立ちはだかる期末試験という現実を受け入れることとなる。
 そのため、学校中はローテンションな空気に覆われる。
 修学旅行の疲れと、迫り来る期末試験への脅威の両方と戦わねばならないのだ。
 だが、その中であっても、藤崎昴の気持ちは常にハイだった。
 ずっと憧れていたほたるからの突然の告白によって、めでたく二人が恋人同士になってから一週間。これで浮かれないほうが、おかしいというものだろう。
 学校中が相対的にローになっている状態で、絶対的なハイ。
 当然目に付くわけで、今日もこうして梅雨も去った快晴の夏空の下、三バカトリオによって屋上へと強制連行されるのだった。

「さて、一人勝手に幸せを勝ち取ってしまった昴くん。今日もじっくり話を聞かせてもらいましょう。出来ればより詳細に」
 淳が昴に迫る。
 ただでさえ暑いのに、一人でかなりの熱気を放出していた。
「話って言っても……昨日も一緒に帰っただけだよ」
「だけ! 帰っただけと仰いましたよこの人は! ああ羨ましいぜこの野郎。俺も有紗ちゃんと一緒に下校して、『一緒に帰っただけだよー』とか何とか言って みたい、モテナイ男を見下したい……はっ、ひょっとして、俺は今昴に見下されているのか? パンがなければケーキを食べればいいじゃなーいなのか? 畜 生、なんてこったい、これが負け組の心情かっ!」
 おかしなことを喚いているが、それは恐らく、このところ急に暑くなったからだろう。
 大久保が、『祭』と書かれた団扇で淳を扇いだ。
「で、で、帰るときどんなことを話しているんだ? あれか? 十歩に一回ぐらいの割合で愛してるとか言っちゃうのか?」
「そんなこと言うわけないよ……普通に世間話してるかな。あとは、お互いの家の話とか」
「お互いの家の話?」
 淳が驚愕の声を上げた。普通ならばオーバーに見えるが、彼の場合、これがデフォルトである。
「家、というと……屋根瓦の色は何色かとか、築何年かとか、もしかして部屋の電気の数とかも訊いちゃったりするのか!? あぁっ、そんなところまで……なんてこったい!」
「ええと、バカは放っておいてくれ。で、七月の家ってどうなっているんだ?」
 喜久井がすかさずフォロー&クエスチョン。さすが淳といつも一緒にいるだけあって、扱いに慣れている。
「母親との二人暮らしだって言ってた。父親はなんだか知らないけど、いないんだって」
 ぴた、と空気が停止する。
「あれ、何かおかしなこと言ったかな?」
「藤崎、そういうことは、他人に話しちゃいけません。ひょっとしたら、知られたくないことかもしれないから」
 大久保が言う。
 父親がいないということは、何らかの家庭事情があるに違いない。思春期の子どもなら、そういったことを気にしている可能性もある。
「え、でも、僕に言ってるから……」
「お前は彼氏だろっ! はぁー……なんだってこんなやつに彼女が出来るんだ……」
 大久保は、頭を抱えながら言った。
 昴は、まだ何故自分が注意されたのか、わかっていない。
「それはともかく、今のところは上手くいっているのかね昴」
「う、うん。上手くいっているよ。最初は緊張しちゃって話せなかったけれど、今では落ち着いて話せるようになったかな」
「ほほう、そいつは大進歩ですねえ。てっきり、昴が七月のことを怒らせて、すぐ破局! という流れになってしまうのではないかと心配していたのだ」
「随分とひどいこと考えていたね……大丈夫だよ」
 昴は、苦笑した。
 自分が女の子と付き合えるとは、とても思っていなかったからだ。
 それでも、今は上手くやれていると、そう信じている。
「今は……七月さんと、毎日下校できるだけでも幸せだよ」
「……む」
 その言葉に、淳が眉をひそめた。
 同様に、大久保と喜久井も顔を合わせる。
「昴クン、それはちと向上心が足りないというか、まだまだではないですかねー? というか、甘いっ! 駅前のモンブランより甘いっ!」
 淳が勢いよく立ち上がるっ!
 ぎらぎらと照りつける太陽の光が、淳の歯を白く光らせたっ!
「いいか、毎日下校するだけ……そんなのは、彼氏彼女じゃなくてもできる話だ! それよりも、次のステップを考えるんだっ! じゃないと、いずれ七月に 『昴くんって、一緒に帰るだけでどこも誘ってくれないのね……』と思われてしまうこと必死! もっと貪欲になれ! お前は王様だ! 皇帝だ! 大王だ!  全国に数多く存在するもてない恋愛難民たちの中から、富を掴んだ幸せ者なのだ! それが、『財布の中に千円札があるだけで幸せだよ』とは何事か! 目の前 には万金に値する宝が転がっているのだぞ! さあ、それを手に取り、傍若無人の限りを尽くすが良い! いっそのこと、暴君だの何なの言われてしまえこのラ ブルジョアがチクショー!」
「……入ったな」
「ああ、入った」
 どうやら、淳はトランスモードに入ったようだ。
こうなると、もう二人の力でも止まらない。
「……で、僕はどうすればいいんだろう?」
「……はぁ?」
 だが、昴の一言で、淳のトランス状態は瞬間的にディスペルされた。
 体の回りに漂っていた熱気が一気に飛散し、糸が切れた操り人形のようにがくり、と崩れ落ちる淳。やれやれ、と大げさに頭を抱えた。
「……あのですね、要するに、もっと色々なところに誘えということだよ……デートの約束はしたか? 明日は休みだぞ?」
「え、でも期末試験」
「お前、一日ぐらい平気だろう……いいから誘ってみろ、それでダメだったら勉強会でもやればいいじゃないか。あと、その七月さんって呼び方をやめなさい。 彼氏なんだから、下の名前呼び捨てにしてみろ。とにかく攻めろ、攻めまくれ」
「なるほど、参考になったよ」
 こくり、と頷き、昴は納得する。
 大久保と喜久井が、深いため息をついた。

◇    ◇ ◇

 修学旅行最終日に起きた、ほたるの突然の告白という事件は、物陰に隠れていた四人だけでなく、すぐにクラス中が知ることとなった。
 昴とほたるの本人たちは、恥ずかしいから隠しておこうと考えたのだが、普段女の子と話すことなんてしない昴と、同様に男と話すことをしないほたる、この二人が急に親しくなり始めたら、何かあったことぐらい、よほど興味がない人以外はわかる。
 そんなわけで、一週間のうちにクラス全員に関係がバレた。今ではクラス公認のカップルである。
 だからこそ、昴は淳ら三バカトリオからアドバイスを受けることが出来ているわけで、それはほたるも同様だった。

「デート?」
 ほたるが小首を傾げながら言った。
 対話者は、親友の夕凪有紗だった。
「そう、デート。藤崎は鈍感というか奥手だからねー、このままだと、『毎日下校を共にするだけで幸せー』とか考え続けると思うな」
「ふ、ふうん、有紗ちゃんよくわかるね」
「まあ、一応中学の頃からの付き合いだからね……って、それはともかくとして、あいつは甲斐性ないんだから、ほたるからアプローチしていっていいと思うの」
「それで……デート……」
「そうそう、定番で水族館なんてどう? あそこ近いし、今学生割引してるし」
「水族館……はあ」
 ほたるは、曖昧な返事をする。
「どうしたの?」
「なんか……あたしが実際に男の人とデートするなんて、想像できないから……」
 ほたるの瞳がとろんと垂れる。
 少女マンガのように、男性に華麗にエスコートされるようなロマンチックなデートを想像しているのだろう。
 それはそれで幸せそうなのだが……
「ほたる、現実の相手は、あの鈍い藤崎よ」
「あ、そうだった」
 ぱちん、とシャボン玉がはじけるように、現実の世界へと戻ってくるほたる。
 思わず、目をぱちぱちとさせる。
「……でも有紗ちゃん、藤崎くんって鈍いかなぁ?」
「いや、鈍いって」
 有紗は即答する。
 あの男が鈍くないと言うのなら、愚鈍という言葉はこの世に生まれていない。
「そうかなあ……あたしのこと、ちゃんと考えてくれているよ」
「ほたる……訊いていなかったけど、いつもあいつとどんなことを話しているの?」
「え? あのね――」

 ほたると昴は、学校を出て下校路を歩いていた。
 好きな人と肩を並べて歩くというその行為が、ほんの少しの恥ずかしさと混ざり合って、くっつきすぎず離れすぎず、という絶妙な距離を作り出している。
 お互いに口を開くことはない。
 もう、付き合っていることが周りにバレていることはわかっていても、誰かに聞かれてしまうのではないか、という気持ちが、会話をせき止めていた。
 しかし、さすがにそれも気まずくなってくる。
 お互いに、相手の鼓動が聞こえることはないとわかっているのだが、それでも鼓動の高鳴りを感じているのだ。
 早く何か言わないといけない。二人はそれぞれ会話の内容を考える。
 適切な言葉を選ぼうとするほたる。しかし、緊張しているために脳内からワードを検索できずにいる。
 そんな気持ちを知らずか知ってか、昴がほたるに緊張させまい、と先に口を開くのだ。
「き、昨日の晩ごはんのおかずは、どんなだった?」

「ね、あたしのことを、ちゃんと考えてくれているでしょ?」
「さて、次の授業の準備でもしようかな」
「あ、有紗ちゃんー」
「ほたる……あなた、本当に今幸せ?」
 有紗は半分呆れながら、少しばかり真剣に質問をぶつけてみた。
 ほたるの恋を応援した身として、ひょっとしたらとんでもない男とつき合わせてしまったのではないかという責任感を覚えていたのだ。
 これが、もしも成り行きで恋人になるようなことになっているとしたら、それは申し訳ないと思ったのである。
「う、うんっ。あたし、藤崎くんの恋人になれて、幸せだよ」
 だが、そんな憂いを吹き飛ばすように、真っ直ぐな瞳と輝かんばかりの笑顔でほたるは答えた。
 有紗は、思わず口元を緩める。
「――ま、ほたるが幸せならそれでいいかな。明日、水族館行くんでしょ?」
「あ、うん、そうだった。あたし、頑張って誘ってみる」
「うん、応援してるからね」
 そうして、ちょうどよく休み時間終了の鐘がなったので、各自自分の席へと戻る。

 有紗は、嬉しそうに授業の準備を始める親友の姿を見て、微かにため息をつく。
 決してそれは、羨みとかそういった感情ではないつもりだった。
 だが、心から幸せだと言える彼女を見て、少し心が痛むのだった。
「……幸せ、か」
 独り言を呟き、有紗は原因不明の胸の痛みを払うように、授業の準備を始めた。
「幸せって……なんだっけ……」
 三バカトリオに散々いじられた昴が、屋上から降りてきたのは、ほぼ同時だった。

 ◇ ◇ ◇

 そして、放課後。
 昴は一足速く教室を飛び出すと、昇降口にて靴を履き替え、校門の前でほたるを待った。
 四、五分後に、やや遅れてほたるがやってきたので、なんとなく歩き出して合流する。
 何故こんな回りくどい方法を取るのかというと、やはりまだ、学校内で二人並んで歩くというということに抵抗があったからだ。
 からかわれることこそないと思っていたが、僅かであっても注目されるのが恥ずかしかったのだ。
「遅れてごめんね」
「……う、ううん、待ってないよ」
 そんな定番のやり取りを交わすと、二人は黙って歩き出す。
 ほたるの歩幅は狭い。気を抜くと、放っておいたまま先に進んでしまうので、昴はゆっくりと歩調を合わせた。
 おかげで、多くの生徒に追い抜かれる。そのときにチラと見られるのが、二人はたまらなく恥ずかしかった。
 それが気まずいと感じたのか、ほたるは少し歩を速める。これでようやく昴の普段の歩く速度……確かにそれはそれでいいのだが……結果、五分も立たないうちに、彼女は息切れすることとなるのだった。
 さすがにぜいぜいという声が聞こえてきたら、鈍い昴でさえも気付く。
 羞恥心だけではなく、疲労から顔を赤らめるほたるを見て、昴は声をかけようとする……が、言葉が上手く出てこない。
 こういうとき、一般的には何と言うのだろう。昴にはわからなかった。
(とにかく攻めろ、攻めまくれ)
 淳の言葉が頭の中で反芻される。
 そうだ、こういうときに話しかけないでどうするのだろう。
 今の昴は、決してほたるに憧れて、遠くから眺めているだけの存在ではない。ほたるの彼氏なのだ。近くにいることが許されているのだ。
 勇気を込めて、一言を発する。
「だ、大丈夫?」
「あ……」
 ほたるの頬がさらに赤くなった。
 いきなり言葉を発するのが予想外だったのだろう、息を大きく吸って呼吸を整えた。
「うんっ、藤崎くん、歩くの速いから……」
「無理しなくていいよ。ゆっくり歩こう」
 その言葉に驚いたのは、ほたるだけではなかった。昴自身も、どうしてこんなにスムーズに言葉を発せたのかわからず、自分で驚いている。
 ほたるは、自分の心臓がとても高鳴っているのを感じた。強い日差しでさえも、心地よい。
 今なら言える、デートに誘おう。そうして、ほたるも決意した。
「七月さん」
 だが、昴の方が先に口を開いた。
「は、はいっ?」
 少し声が裏返る。それが情けなくて、ほたるは慌てて口を押さえた。
 だが、昴には気付かれていないようだった。
「あのさ、明日、ヒマ?」
「え……? うん」
「よかったらさ、僕と……デ……あ、遊びに行かない?」
 言った。
 絶対に言うことなど出来ないと思っていた言葉が、勇気に後押しされて、昴の口から放たれた。
 一瞬、時間が止まる。みんみんと鳴くセミの声も、どこか遠くなる。
「藤崎くんから誘ってくれるなんて……嬉しいな」
「え?」
「うん、いいよ。明日行こう」
 ほたるは、笑顔で答えた。
 もとよりほたるも、昴を誘う気だったのだ。断る理由なんて一つもない。
 だが、肝心の昴は、オーケーだということが未だに理解できないでいた。
「……藤崎くん?」
「あ、お……そうか、そうだよね、うん、そうか」
 昴は混乱していた。
 時間は少しかかったが、それでも冷静さを取り戻す。
「それで、どこに――」
「どこに行くのがいいだろうね」
 どこに連れて行ってくれるの? とほたるが訊こうとしたとき、昴が発した言葉はそれだった。
 少しばかり残念がるほたる。
「七月さん、どうしたの?」
「ううん、なんでもないの」
そしてふう、と昴に聞こえないようにため息をついた。
「あのね、有紗ちゃんが教えてくれたんだけど、水族館が今オススメみたいだよ」
「夕凪が……水族館を?」
「うん、あそこならバスで行けるし、そんなに遠くないからどうかな? あたしも水族館行きたいし……」
 ほたるが、微かに目を輝かせていたが、昴はそれに気付くことはなかった。
 だが、水族館に行くという意見には納得し、そうしよう、と頷いた。
「なんか……嬉しいね」
「……うん」
 デートの約束をするということが、二人の胸中を幸福の二文字で満たす。
「あたし、驚いちゃった。藤崎くんからデート誘ってもらえるなんて思っていなかったから」
「む……確かに、友人にアドバイスされたってのもあるけど、でも、いつかは行きたいと思っていたんだ……行き場所まで考えていなかったけど……ごめん」
 珍しく、昴が詰まることなく饒舌に話す。
 二人の間にあった、ほんの僅かな抵抗感が、徐々に崩れていっているのだ。
「あたし、男の人と付き合うの初めてだから、こういうとき、なんて言ったら良いのかよくわからないけど――」
 ほたるが、昴を見上げながら言う。そのとろんとした瞳に、昴の顔が映った。
「あたし、藤崎くんと一緒に出かけられるなんて……すっごく幸せだよ」
「うぐ……それは恥ずかしい」
「うん、言ってて思っちゃった。恥ずかしいね」
 二人の笑顔が咲く。
 こそばゆいほどに初々しい恋愛。セミの合唱が二人を包む。
 明日は晴れるだろうか。
 大きな入道雲が、青い空に浮かんでいた。

 ◇ ◇ ◇

「ごちそうさまー」
 食事を終えるなり、昴は自分の部屋へと駆け上がった。翌日のデートに向けて、準備をしなければならない。
 普段は、あまり身だしなみに気を遣わないが、明日は特別だ。
 学校と違い、私服である。ファッションセンスは全くと言っていいほど持ち合わせていないと自覚していたが、それでもできる限りの努力はせねばならない。
「うーん……」
 だが、昴は自分の洋服ダンスを引っ掻き回してから、悩むこととなる。
 無い。センスのいい服が無い。
 ワンポイントだけの白いTシャツにグレーの短パン……これではダメだろう。
 では、東南の民族衣装のような柄ならいいのか……これも違う気がした。
 もっとまともなものはなかっただろうか。普段から服装に気を遣っていないことを、今さらながら後悔することとなる。
 下も、動きやすいから、という理由だけで、今まで短パンばかりはいていたのだが、それでもジーパンの一本ぐらい持っていたっていいと思う。
「昴、入るわよ――って、どうしたの?」
 昴の母親が、地上から三センチほど浮いている昴のことが心配になって、部屋へとやってきた。
「母さんっ……なんで服ないのさ!」
「服? 着るものなら、ちゃんとあるじゃない」
 母親が指差したのは、近所のスーパーで、去年在庫処分セールをやっていたときに買った紺色のポロシャツだった。
「む……」
 買ったときの経緯は、「あらこれ安いじゃない」「今さら半そでは寒いよ」「来年着られるでしょ」という、適当な会話だったが、今まで見た中では一番まともに見えた。
「でさ、ズボンっていいのなかったっけ?」
「あるわよ。ジーパンが」
「え? どこに!?」
「ほら、ここに……ちゃんと探しなさいよ」
 母親がガサゴソとタンスを漁る。
 すると、不思議なくらいあっさりと、最後にはいたのがいつだったのか記憶にないが、とにかく一応恥ずかしくない程度のジーパンが出てきた。
「これ、どうしたんだっけ。僕買った記憶ないんだけど」
「当たり前でしょ、お父さんのお古なんだから。あなたたちは体型が似ているから、きっとはけるでしょ」
 ぽん、とジーパンが手渡される。
 まあ、この上下で服装は何とかいけるだろう。昴は安堵する。
 ……だが、服装が決まったからといって安心してはいけない。
 次に必要なのは、情報検索。今日は不覚を取ったが、一応昴は男。好きな女の子はエスコートするべきではないのか。
「母さん、明日隣町の水族館まで行ってくるんだけど、あの辺のオススメスポットって知らない?」
 というわけで、母親に訊いてみた。
 ちなみにリビングにはインターネットという文明の機器があったのだが、あいにく昴はパソコンが苦手だった。
「オススメスポットって……どういう意味で?」
「えっと……だからさ、ほら、ロマンチックだったりとかさ、なんというか、いい雰囲気の場所!」
「また漠然としてるわねえ……ロマンチックって……まさか、昴、彼女でも出来たの?」
「う、どうしてわかるんだ」
「……血筋かしら、お父さんもそんな性格だったわ。今度紹介しなさい」
「わ、わかったよ、それよりオススメスポット……」
「そうねえ……お母さんは若い人が行くようなところはわからないわ。お友達に訊いてみたらどうなの?」
「そうか、そういえばそうだ」
 そして、昴はバタバタと階段を駆け下りて、リビングにある電話を取りに行った。
 その様子を見て、ますます不安になる母親だった。

『――で、なんで私のところに電話してくるわけ』
 電話越しに聞こえるのは、微妙に苛立ちを含んでいる有紗の声だった。
 初めは、淳に訊こうと思ったのだが、下校途中、ほたるが有紗に水族館をオススメされたと言っていたので、一番手っ取り早いだろうと思ったのだ。
「ほら、やっぱり夕凪なら詳しいと思って」
『そう、それは光栄なことで。ま、訊かないで自爆するよりはマシかな。いっそ自爆もらっても良かったけど、それじゃほたるが可哀想だしね』
 物騒なワードが聞こえてきた。
 もちろん、有紗とて本気で言っているわけではないのだが、今日はいつにも増して棘があるような……昴はそんなことを感じた。
『そうねー水族館だけで一日いられると思うけど、夕食は、駅前のセンタービルの中にあるパスタ屋が美味しいかな。オススメメニューは、カルボナーラだけ ど……あっ、昴は卵苦手だっけ?』
「苦手じゃないよ。ちょっと待ってて、メモとペン取ってくる」
『ちょ……こら、人に電話をしておいてから、メモを用意するなっ!』
「ごめんごめん、それで、カルボナーラがセンタービルのパスタ屋ね? 他には?」
『あとは……そうね、そこからバス停に向かって歩く途中に、可愛い小物屋さんがあるけど。プレゼントにはいいんじゃない?』
「え、プレゼントって誰に?」
 昴は、本気で言っていた。
『藤崎……今度会ったら、一発平手ね。本気で』
 受話器から、何やら黒いオーラのようなものが漂っている気がして、これには、さすがの昴も身の危険を感じた。
「えと……つまり、夕凪にお土産を買ってくるってこと?」
『――っ! 知らないっ!』
 受話器を置かれたのか、それ以降、ツーツーという電子音しかしなくなった。
 昴は、首を傾げて、そのまま目を落としてメモ帳を見る。
「……カルボナーラがパスタって……当たり前だよな」
 メモ帳には、カルボナーラはパスタ、小物屋はバスの途中、という謎の文章のみが残されていた。

 ◇ ◇ ◇

 食卓に、食器の音が響く。
 七月家の食事はいつも静かだ。ほたる自身が、そこまで饒舌ではないのもあるが、人数が少ないのだ。
 皿の上には、綺麗に彩られた料理が並んでいる。量はそう多くないが、女二人で食べるには十分な量だ。
 黙々と食事が進んでいく。これがいつもの食事風景だった。
 だが、本日は少し違った。ほたるの鼻歌が、食器の音と一緒に混じっている。
「ほたる、何か良いことあったの?」
 よって、母親が尋ねる。
 ほたるは、柚子ドレッシングをサラダにかけながら、うん、と笑顔で頷いた。
「あのね、明日デートに行くんだ」
「デートって……藤崎さんと?」
「そうだよー他に誰がいるの」
 ほたるは、昴と付き合っていることを、既に母親に報告していた。
 躊躇いがなかったわけではなかった。だが、ほたるは隠し事をするのが苦手な性格だ。きっと、言わなかったとしてもすぐにバレていただろう。それならば、 はっきりと言った方が、かえって母親を安心させられる――そう思ったのだ。
「大丈夫? 変なことされないかしら」
 しかし、それは逆効果だったようだ。
 当然、母親に悪気は無い。女手一つで育ててきた愛娘の身を案じての言葉なのである。
「大丈夫だよー藤崎くんは、きっとそんなことできない人だから」
 だから、ほたるも笑顔で返す。母親はそれを見て、僅かに安堵するものの、胸に抱える不安は拭い去れないままだった。
「ごちそーさまー」
 食事を終えて、ほたるは食器を流しに運ぶ。
「そこに置いておいていいわよ、あとは私がやるから。ほたるは明日の準備をしてきなさい」
 母親がそう言ったので、ほたるは、ありがとう、と一言残し、リビングを出ようとした。
「ほたる」
 だが、ドアに手をかけたところで、母親がほたるを呼んだ。
「なあに?」
 母親は、疲れた顔をしていた。
 眉を寄せて、娘のことを心配そうに見つめている。
「ほたる……男の人は、平気になったの?」
「――」
 ほたるは、すぐには答えられなかった。
 男の人が平気か――その言葉が、ほたるの心を僅かに揺さぶる。彼女にとってその言葉は、単純な言葉ではない。
 母親はそれを承知で……娘を傷つけるかも知れないとわかりながらも、それでも訊かなければ気が済まなかった。
「あたしは――」
 ほたるが、かすかに声を震わせる。
「あたしは――藤崎くんなら大丈夫だから」
 これだけは間違っていない。そう自分に言い聞かせるように、はっきりと言う。
「そう――」
 母親も、その回答を訊いて、ようやく胸を下ろした。
 ほたるは、その様子を見てから、リビングを出て、自分の部屋へ入り、ドアを閉めた。

「――っ……!」
 部屋に入った途端、目の前に浮かぶ光景。
 壊れたテレビのように網がかった画面の中で、少しずつ輪郭を得ていくその存在。
 男の人が立っている。こちらに背中を向けて、どんどん遠ざかっていく。
「いや――」
 ズキン。
 胸が痛む。
 これは、見てはいけないとわかっているはずなのに、もう取り返しのつかないことなのに。
「――いや……嫌……」
 フラッシュバックする光景。
 いやだ、これ以上見たくない。
 消して、早く消して。どこ? リモコンはどこにあるの?
 ゆっくり、少しずつ小さくなっていく人影。
 もう、まるで豆粒のように小さくなったそれは、一度だけ振り返り――遥か遠くにいるはずなのに……ほたると目が合う。
 その口が、微かに開き、呟いた言葉は――

「あ――……は……はっ……」
 気がつくと、ぼろぼろと、瞳から涙がこぼれていた。
 電気もつけないままで、真っ暗な部屋の中、ほたるは立ちすくんでいたのだ。闇の中で、時計の音だけが等しいリズムで響いているのが聞こえてきた。
「……っく……っく……」
 ごしごしと手で涙をぬぐい、深呼吸をする。
 ほら大丈夫、怖いものなんて何もない。ここは自分の部屋で、お母さんと自分の二人だけの家だ。
 そう、明日は楽しいデートの日……不安になる必要なんて無い。
「……大丈夫」
 ゆっくりと、その言葉を唱える。
「大丈夫、藤崎くんなら大丈夫、大丈夫、大丈夫……」
 呪文のように、その言葉を何度も、何度も繰り返し、自分を落ち着かせる。
 鼓動の音は、ゆっくりと、普段通りの速度へと戻っていった。

 ◇ ◇ ◇

 翌日、天気は最高だった。
 空は一面の青で、朝から夏の太陽がさんさんと輝いている。
 セミたちは、まるで大サービスとでも言わんばかりの大合唱を、朝っぱらから始めていた。
 空気はからっと乾いていてしていて、湿度もあまりなく、肌に洋服がべたつくこともない。絶好のデート日和と言える。
 待ち合わせ場所のバス停に、待ち合わせ時刻よりも十五分早く昴はついた。
 昂ぶる気持ちを抑えつつ、出切るだけ冷静にほたるを待つ。
 服装は、昨日母親が引っ張り出してくれたポロシャツにジーパン。彼が出来る最高のファッションだった。変な場所はないかチェックを入れてみる。
 そのとき初めて、ほたるの私服姿を初めて見ることが出来るということに気付いた。
 再び感情が昂ぶる。落ち着け昴、と心の中で何度も唱えてみる。
「おはよう、藤崎くん」
 だが、そんなもの、目の前に本人が登場したら全く意味なんてなかった。
 ほたるの服装は、水色のブラウスに白いロングスカートだった。頭の上には、ちょこんと青いリボンつきの麦わら帽子が乗せられており、短くて柔らかそうな髪がそこから揺れている。
 少し照れているのか、昴と目が合うと、手を胸の前で組み、頬を紅潮させて、はにかむような笑顔を見せた。
「あ――」
 やや不意打ち気味に放たれた、クリティカルヒットな一撃。
 昴のツボというツボにクリーンヒット。地面に立っていることすらわからなくなってくるような状況。
 落ち着け、落ち着け昴、とやや強引に心拍数を安定させる。
 だがほたるは、ちらちら、と上目遣いで昴の顔を覗き込んでくる。茶味がかった髪が、ふわりと風に揺れていた。
「お、おはよう、今日は元気? えと……」
「うん、元気だよ。昨日はドキドキして、ちょっとしか眠れなかったけど……」
 息をつく間もなく放たれる二撃目。
 さっきとは違った角度から、捻るように叩き込まれた。
「あ……うん、そうなんだ……僕も、ドキドキして……眠れなかった、よ」
 昴はちゃんと発音ができていない。
 頭がぐらぐらと湯だっているように感じるのは、きっと暑さのせいじゃないだろう。
 このままいたら、きっとおかしくなってしまう。
 昴がそう思っていると、ちょうどバスがやってきた。おかげで、ひとまず息をつくことが出来るのだった。

 そう思えたのは、一瞬だった。
 バスの座席は狭い。二人で腰掛けたが、思ったより体が密着する。
 ほのかに漂うシャンプーの香りや、かすかに触れ合う肌の感触などが容赦なく昴を襲う。
「藤崎くん、今日は晴れてよかったね」
 ほたるは、普段とは違う高揚感に包まれながらも、ワリと冷静だった。昴との関係に大分慣れたというのもあるだろうが、元から落ち着きがある性格だ。
「そ、そうだ、ねぇ」
 だが、昴は心此処に在らずといった具合で、魂が口から飛び出して数十センチメートルほどの距離でフワフワと浮かんでいた。
 ほたるは、どうしたの? と小首を傾げて覗き込んだが、お互いに顔がかなり近いことに気付いて、慌てて距離を離した。
「あ、あたし、水族館って大好きなんだ。小さい頃から、いつも行っていたんだよ」
 恥ずかしさを誤魔化すように、ほたるは話を再開する。
 昴も、このままではダメだ、ということに気付く。
「そ、そうなんだ。水族館は大きいもんねえ」
「え? う、うん、それはそうだけど……」
 だが、自然な会話に失敗する。
 これでは先が思いやられるのではないか、と、昴は自分自身で感じるのだった。

 そんなこともあったが、バスは、隣町の水族館前に到着する。
 隣町は都市化が進んでおり、巨大なセンタービルが駅の近くに位置していて、町のシンボルとなっていた。
 近代的な建物も数多くあり、この水族館もその一つだった。
 早速、水族館のチケットを買う。そのときばかりは昴が率先して二人分買おうとしたが、高校生なんだからいいよ、というほたるの言葉によって、割り勘にして入るのだった。
 館内は、冷房が効いていた。
 コンクリートジャングルの町では、太陽の熱が反射してかなり暑い。だから、こうして涼しい温度設定にしてあるのは、ある意味では正しい選択だといえよう。
 それはともかく、水族館だ。
 水族館に入るなり、ほたるは目を輝かせて水槽の前へと走る。そして、手をバタバタと振って、見て見てと昴のことを呼ぶのだった。
「どうしたの?」
 冷静さを取り戻した昴が訊ねる。
 ほたるは、磯の生物の水槽の前で固まっていた。視線の先には、黒くて長く、ふにゃふにゃとした物体が沈んでいる。
「見て見て! 藤崎くん! ほら、ナマコだよー……可愛いねえ」
 全国広しとは言えども、ナマコのことが好きだという女子高生も珍しいのではないだろうか。
「そ、そうだね」
 昴も返答に困る。先ほどのように緊張しているわけではなく、冷静にはなっているのだが、さっきとはまた別の意味で答え辛かった。

「藤崎くーん、ヒトデだよ! ヒトデ! ざらざらしてるー」
 続いて、ほたるは、ふれあいコーナーなる、水槽の中に手を突っ込んで生き物に手を触れてもいいですよ、という生き物にとっては迷惑以外のなにものでもないコーナーで、ヒトデをすくい上げて、裏側をつんつんとつついていた。
 満面の笑顔が咲いているところを見ると、きっと楽しいのだろう。
「ヒトデも、大変なんだろうね……ストレスたまらないのかな」
「えー、ヒトデくんは、結構楽なんじゃないのかな? ただ砂の上にいて、色々な人に触られるって条件だけで安全性も食料も確保されているんだよー。これが、もしもバイトだったら、あたしはやりたいかな」
「やらんでいい、やらんで」
 思わずツッコミを入れてしまう昴。
 だが、ほたるはヒトデと戯れるのに飽きたのか、ぽちゃ、と星型のそいつを水槽に戻すと、昴のことはそっちのけで順路を先に進んだ。
 昴は、慌てて後を追う。

 水族館内は広い。ポケベルのように便利な道具を持っているわけじゃないのだから、はぐれないようにしなければならない。
 しかし、ほたるは次の部屋にいて、水槽の中をまじまじと見つめていた。
 水槽の中では、白く透明なたくさんの生き物が浮いたり沈んだりを繰り返している。これは一体……。
「藤崎くん! 見て見てークラゲだよー」
「……それは見たらわかるけど」
「可愛いよね」
 振り返ったほたるの笑顔は、今までに見たことがないぐらい輝いていた。
 思わず赤面する昴。だが、ほたるは、それに気付くことはなく、まるで子どものように水槽に張り付き、このままではクラゲに穴が開きかねないほど、熱い視線を送っていた。
「はぁー……クラゲって家で飼えないのかなあ? 飼いたいな……いつか、大きな水槽でふわふわ浮かんでは沈むのをずっと眺めていたい……」
「クラゲ、好きなの?」
「うんっ、だってさ、可愛いじゃない! 何を考えているのかわからないところとか、透明なところとか、ふわふわしているところとか!」
「……そうだねー」
 そう断言されても、それしか返せない。
 そうか、ほたるは本当に水族館が大好きなのだ、ということを、しみじみと思い知る昴だった。

 ちなみに、ほたるは一応、ペンギンやイルカなど、一般的に人気のある動物も大好きなようだった。
 ペンギンの水槽の前では、やはりちびっ子に混じってガラスに張り付いて、すごいね可愛いねを繰り返し、イルカのショーも食い入るように眺めていた。
 ほとんどほたるが暴走し、昴はそれに後ろからついていくだけだったが、楽しんでいる姿を見るのは気分がとても良いものであった。
 時間はあっという間に経過し、気がつけばランチタイムの時間になっていた。
 昴は腹が減ってきたので、電気ウナギの発電に興味津々なほたるに声をかけ、そろそろ昼食にしようと誘うと、ほたるは名残惜しそうに口元に指を当てていたが、どうにか水槽から引っぺがすことに成功し、無事昼食にありつけるのだった。

「美味しいね、このエビフライ!」
 水族館で食べられるものなんて、たかが知れている。だが、ほたるはご満悦なようだった。
 シーフードカレーを頼んだ昴は、それに入っているアサリが、さっきまで見てきた水槽の中にいたものではないかと訝しみながら食す。
「大分見て回ったね。午後はどうしようか」
 ほたるに声をかける。すると、ほたるは、やはり目を輝かせてパンフレットを出す。
「これ見よ! アシカ! アシカくんのショーがあるんだよ」
「アシカかー」
 なるほど、アシカのショーは、イルカのショーと交互に行われており、今度はアシカの番だった。
 時間も昼食を食べ終えてから行けばちょうどいい。
「じゃあ、食べ終わったら行こうか」
「うんうんっ、じゃあ早く食べるね」
 そうして、大きな口を開けて、がぶ、とエビフライに食らいつくほたる。
 その様子が、なんだかさっきまで見てきたペンギンみたいで、思わず昴は笑ってしまう。
「ん? 藤崎くんどうしたの?」
「い、いや、なんかさ、七月さんの色々な面が見られるなって思って」
「そう? いつものあたしと違う?」
「うん、学校で見る七月さんとは全然違うよ」
「……変かな?」
 ほたるが、少々心配そうに昴を見た。
「ううん、変じゃないよ」
 昴は、すぐにそう返事をする。すると、ほたるは顔を赤らめて、また二尾目のエビフライにかぶりついた。

「あれー」
 ほたるが不思議そうに声を上げた。
 ショーが行われる特設プールに行ってみたが、もう始まる時間だというのに人がほとんどいなかった。むしろ、出て行く人の方が多い。
 同時に、スピーカーから、アシカが病気のためショーは中止、という放送が流れてきた。
「あらら、残念だったね」
 昴は、ほたるを覗き見る。
 ほたるは、心底残念そうな表情で、ステージの中央を見つめていた。
 さっきから楽しみにしていたのだ。仕方ないといえば仕方がないが、やはり残念だろう。
 昴は、別の場所へ行こうとしたが、ほたるはピタリと止まったままで動こうとしない。
「アシカくんも、病気になるんだね」
 そんな中、ほたるが呟いた。
「そりゃ、アシカだって生き物だしさ、命があるんだから、時には病気にだってなるさ」
「治るのかな?」
 ほたるが、心配そうに昴を見る。
 その様子がひどく真剣だったので、昴は少し言葉に詰まった。
「治るよ」
 でも、これははっきりと言わないといけないことだ。
「命があるんだから、きっと治るよ。だから大丈夫」
 すると、安心したのか、ほたるの口元がすう、と緩んだ。
「そうだね」
 諦めがついたのか、ほたるは振り返り、館内へと戻っていく。
 昴は、いきなり行動を再開するとは思っていなかったので、慌てて後を追う。
「ちょっと……七月さん、次どこに行くか決まっているの? もう、午前中でほとんど見て回っちゃったけど……」
「んー? せっかく時間が空いたんだから、もう一周しようよー。またクラゲ見に行きたいよー」
「また!?」
 昴の一言を軽く聞き流し――ひょっとしたら、聞こえてすらいないのかも知れないが、ほたるは普段からは想像の出来ないスピードで館内へと歩いていった。
 昴は、やれやれとため息を一つつき、後を追う。
「ま……七月さんの嬉しそうな顔を見られるんだったらいいか」
「なんか言ったー?」
「いや、何も」
 そうして、再びクラゲの水槽へと向かう二人だった。
 時間はまだたくさんある。
 日は高い。
 楽しいデートの時間は続いていく。

 ◇ ◇ ◇

「楽しかったねー」
 ほたるが、少し疲れの混じった声で言った。
 隣町からのバスから降りて、夕日を背に、地元の道を歩く。
 オレンジ色に輝くアスファルトに、二つの影が長く伸びていた。
 昴の予定では、水族館を出た後は、隣町で遊んで、有紗に教わったとおり、センタービルにあるというパスタ屋でカルボナーラを食べるつもりだったのだが、ほたるは夕食までに家に帰るということを伝えてしまっていたらしく、仕方なく夕暮れ前に帰路につくことになったのだ。

 静かだ。
 セミも朝から歌い通しで疲れたのか、鳴いているものは少なかった。
「あ、藤崎くん、こっち歩こう」
 ほたるが、昴の服の袖口を控えめに引っ張る。
 そちらの道は、小川が流れている散歩道だった。
 少し遠回りになってしまうが、そちらの道を選ぶ。二人とも、少しでも長く一緒にいたかったのだ。
「蛍いるかな?」
 ほたるが、自分の名前と同じ、虫の名前を呼ぶ。
 小川は流れていたが、蛍の姿は確認できなかった。
「蛍ってさ、綺麗な水じゃないと棲めないらしいよ」
「そうなんだ……」
 昴が言うと、ほたるは少し残念そうに呟いた。
 そして、そのまま二人で小川沿いを歩く。
 足音が二つ。川の流れる音に混じって、リズムを奏でる。
 散歩道から、また元の舗装された道路に出る直前で、ほたるは不意に足を止めた。
「どうしたの?」
 昴が振り返る。
 ほたるは、優しく、穏やかに笑っていた。
「センタービルは、また今度行こうね」
「え、どうしたのさ急に……」
 突然のほたるの言葉に、昴は戸惑う。
「ううん、特に意味はないんだよ。あのね、あたし、藤崎くんって、デートの計画とか立てられない人だと思っていたの」
「そう、なんだ」
 昴は、ほんの少し落ち込む。実際、そうだからだ。
「最初はどこに行くかとか、全然決まっていなかったし、女の子と話すのも苦手って感じだったけど……なんだかね、藤崎くんって面白いなって思うの。不器用なんだけど、一生懸命なところとか、あたしのことを考えてくれているって感じるんだ」
「それって……どういうこと?」
「あのね、今日、文句言わずに、あたしとずっと付き合ってくれたし、水族館を出た後にセンタービルに行こうって誘ってくれたでしょ? それ……嬉しかったんだよ。だから……あたし、今日一日で、藤崎くんのこと……もっと好きになっちゃいました」
 そうして、またはにかんだ笑顔を見せる。
 夕日に照らされ、柔らかそうな髪が透き通って見えた。
 昴は、思わず頬を紅潮させる。
「僕もさ……今日、七月さんと一緒にいて楽しかったよ。僕だって、至らないところはたくさんあったかもしれないけど、七月さんが喜んでくれたなら、それが嬉しいよ」
 不思議と、この言葉はスラスラと言えた。
 今朝まではずっと緊張していたが、今は胸の高鳴りはあるものの、緊張はしていないということに気付いた。
「それにさ――とても……その……たくさん笑っている七月さんが可愛かったから――僕も、もっと好きになった……よ」
 その言葉には、ほたるも真っ赤になった。
 お互いに、どことなく恥ずかしくて、視線を足元に移す。
 鼓動の音が、徐々に強くなる。さっきまではあんなに話せたのに、急にほたるも昴も、黙り込んでしまう。
 視線をちら、と上に移すと、それを二人同時にやってしまい、目が合って、慌てて下に戻す。
「……あのさ」
 それを、何度か繰り返して、昴が口を開く。
「なあに?」
 ほたるも視線を上げる。今度は、しっかりとお互いに目が合ったが、逸らすことはなかった。
「僕さ、思ったんだけど、もう僕ら彼氏彼女じゃない? だからさ……その……七月さんのこと、下の名前で呼んでもいいかな?」
「え……」
「僕のことも、昴って呼んでくれていいからさ……むしろ、そうして欲しいかな……なんて」
 言えた。言えてしまった。
 ほたるは、その意外な提案に、目をまん丸にさせる。
 もう、昴に、ほたるに対する抵抗感なんてなかった。憧れているだけの存在――そういうことにして、距離をとるために立ちはだかっていた壁は、崩れ去ったのだ。
 それは、ほたるも同じことだった。いきなりだったので驚いたが、しっかりと昴のことを見つめなおす。
「うん、いいよ。よろしくね、昴くん」
「――」
 驚いた。まさかそう返されるとは思っていなかったのだ。
 だが、面食らったのも一瞬だけ。
「よろしく……ほたる」
 昴は、しっかりと、自分の口で下の名前を呼んだ。

 セミの声が止む。
 二人が見つめあう。
 小川の音だけが聴こえる。
 日が落ちて、夜の帳が下りてくる。
 自然と、二人の距離が近づいていく。
 二つの鼓動の音が空間を支配し始める。
 吐息が触れるほどにまで近づき、ほたるが瞳を閉じる。
 昴の腕が、ほたるの肩に伸びて、そして――。

 ――昴の手が、空を掴んだ。
 どさり、という、草むらに何かが落ちる音。
「え――?」
 脱げた麦わら帽子が、転がって小川に落ちた。
 目の前に、ほたるはいなかった。代わりに、昴の足元でほたるは、目を閉じたまま、仰向けに倒れていた。
「な……ほたる?」
 声をかけても返事がない。
「ほたる? ほたる!?」
 しゃがみこんでほたるの名前を呼ぶ。ほたるに意識はなかった。
「――き、救急車を……しっかりしろ、ほたる!」
 青いリボンの麦わら帽子が、小川の上で浮かんでいた。

 ◇ ◇ ◇

「高瀬川先生、急患です」
 休日、自宅で音楽を聴きながらディナーの仕度に取り掛かろうとしていた彼は、その電話を受け、病院へと直行することになった。
 病院は小高い丘の上にある。自宅はすぐに駆けつけられるように、その丘のすぐ下にあったため、車で僅か五分で到着する。
 だが、その五分という時間でさえ、彼にとっては長いと感じていた。
 早く行かねばならない。焦らないようにするものの、実際に患者を診るまでは、安心など出来ない。
 車を病院の前に止めると、鬼気迫る勢いで医療室へと向かう。
「患者の様子は? どっちだ?」
 転がるようにして医療室へ入ると、彼は吼えるように言った。
「それが――恐らく……」
 看護婦が口を濁らせる。
 それで、高瀬川は、理解した。
 目の前で眠る少女の姿を確認し、近くに寄ると、目を閉じて手をかざした。
 そうすること一分弱……高瀬川は、目をかっと開くと、振り返り、深いため息をついた。
 彼は、デスクに両手を叩きつけると、地の底から響くような声で笑い出す。
「はは……わかっていたはずなのに……必死で目を背けようとしていた――だが、現実が現れた……何てことはない、いずれ来るとわかっていたものが、今日来 ただけだ……はは」
「せ、先生?」
 看護婦が、心配になって背中越しに声をかける。
 すると、笑うのを止めて、高瀬川が振り返る。この僅かな時間で、高瀬川の表情は一瞬にしてやつれた……そんな風に見えた。
「先生……では……」
「ああ――彼女はそう――」
 そこで、高瀬川は一度言葉を止め、そして再び、続く言葉を吐き出す。

「悪魔憑きだ」


 第二章、  完


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