軋む扉を開けると、一面の夜空が広がる。
 闇の中にはただ一つ、歪な青い月が、淡い光を放ちながら夜を従えて浮かんでいた。
 眼下の世界では、忙しなく車と人が行き交い、今も日常というドラマを紡ぎ続けている。

 コンクリート張りの床に、赤いライトの光、そして一面を囲う金網。
 そこにあるのは、どこまでも殺風景なビルの屋上。
 下の世界から絶え間なく響く車の重低音と、通り抜ける風の高い声が、この空間を支配していた。

 その中心に、彼女はいた。
 跪き、そして両手を掲げて天を仰ぐその姿は、まるで祈りを捧げる聖母のようにも見える。
 生を謳歌するように、その存在を誇示するかのように、彼女は天に手を伸ばす。

 果たして彼女に、罪など存在するのだろうか。
 祈りに似た彼女の姿を見て、彼はこの場所に来た目的を否定しようとする。
 だがしかし、彼はその一瞬の躊躇いを棄てた。
 静かに、視界が涙で閉ざされる前に、すう、と腕を上げる。

 そして、銃口を、彼女に向けた。


 第一章:ある晴れた空の下〜sowing〜


 夜の帳が落ちた。
 廊下は静寂に包まれるが、それぞれの部屋から熱気が冷めることはない。
 親しい同級生たちが枕を並べるのだ、寝ろと言われても寝られるはずがないだろう。
 もちろん、教師も生徒の心情を理解しているため、形式的に巡回をするとは言っているが、実際に巡回をすることなどない。
 要するに、羽目を外してバカをやる人間さえ現れなければ良いのだ。
 修学旅行、最終日の前夜である。
 修学旅行の夜は特別なものだ。普段から顔を合わせているはずの生徒同士であっても、普段は口にしないような話題で盛り上がる。
 それによって、それぞれが相手の新しい一面を発見し、そして仲を深め合う。これからの学校生活を左右すると言っても、大げさではないだろう。

 七〇八号室、男子部屋。
 この部屋も他の例に漏れず、五人全員が徹夜覚悟で意気込んで、この夜を迎えていた。
 皆で中央の布団に集まり、夜のために準備したスナック菓子に手を伸ばしながら談話に華を咲かせていた。ぱり、ぱり、という心地よい乾いた音が、闇の中で響き渡る。
 藤崎昴(ふじさき すばる)は、眠い目をこすりながら周りを見た。
 真っ暗な部屋の中、明らかな寝息がひとつ。最初は全員、貫徹を意気込んでいたのだが、既に一人がリタイヤしていた。
 昴も迫り来る限界を感じつつも、特別な夜という好奇心に胸をくすぐられ、何とか睡魔を押しのけていた。

「それで、昴はどうなんだ?」
 スナック菓子をひとつまみ口の中に運んでいたら、肩を叩かれ、昴はふと我に返る。
 見れば、戸山淳(とやま じゅん)が、ニヤニヤとした笑みを浮かべ見つめていた。
 それと同時に、大久保と喜久井の視線も昴に集中する。同様に悪戯をする子供のように、興味津々な表情をしていた。
 戸山淳は、昴の数少ない友人の一人だ。健康的に焼けた色黒の肌に、白い八重歯が笑顔の奥からいつも覗かせる。明るくひょうきんな性格で、クラス一番のムードメイカーだ。
 そして、大久保と喜久井の二人がいつも彼とにつるんでいる、いわば仲良し三人組だった。
 体育の成績だけはいいが、ペーパーテストでは揃ってクラス得点ワースト三を取るため、周囲からは三バカトリオと呼ばれている。

「えっと……どうって?」
 昴は、話の流れが見えず訊き返した。すると、淳はやれやれ、といったようにかぶりを振った。
「お前なあ、修学旅行の夜だぞ? そうしたら訊くことなんて一つしかないだろうが」
「んーっと……何?」
 昴の反応に、おいおい、と淳が頭を押さえた。
「お前なあ、修学旅行の夜と言ったら恋バナに決まっているだろ! どうなんだ、昴は何か浮いた話ないのか?」
 そうして昴は気付いた。
 確かに、彼らは、ずっとあの娘が可愛いだの誰と誰が付き合っているだの、その手の話をしていたのだが、昴は、ちょうどそのとき睡魔に襲われていたので、 話の流れに乗れずにいたのだ。
「浮いた話って言っても……そんなの別にないよ」
「本当にそうかぁ?」
 あまりこういった話に慣れていない昴は、こくりと頷いた。
「嘘だろ」
 だが、それもすぐに否定された。笑っていないのは昴だけで、あとの三人は、やはりニヤニヤと笑い続けていた。
「俺さー今日は辛い気持ちを堪えつつ、友人のお前に真剣に宣戦布告しようと思うんだ」
 淳は、宣戦布告というなにやら物騒な単語を使った。何事か、と昴は首を傾げる。
「俺は知っているんだ……昴、お前が彼女のことを好きだってことを……」
「え?」
「お前……夕凪有紗(ゆうなぎ ありさ)が好きだろうっ!」
 一瞬の躊躇いのあと、一気に淳の言葉が放たれた。
 意を決して言ったらしいその言葉は、すぐに闇の中に吸い込まれていった。
 昴は、またしても首を傾げる。
「……僕、そんなこと言ったっけ?」
 すると、またまたぁ、と大久保が茶々を入れる。
「だってさ、いつも楽しそうに話しているじゃん。あれで好きじゃないといったら、それは何かの間違いだと思う。俺は」
 喜久井が言った。
 確かに、昴が夕凪有紗と楽しそうに話しているのは事実だった。だがそれは、恋愛とは全く関係のないことだった。
 夕凪有紗は、昴たちのクラスメイトで弓道部所属の女子生徒だ。
 背は高く、すらっと均整の取れた袴姿に、黒い長髪を後ろで結わんで、射を構えるという姿に魅了された男子は少なくないという。
 つまり、彼女に憧れる男子が複数いるというのも必然のことであり、淳たちは当然昴もその一人だと思っていたのだ。
 だが――
「いや、僕さ、夕凪さんとは中学校の頃から同じだったからさ。ただそれだけだよ」
「な、なんだってー! 中学校の頃から一緒だと!」
 三人の声が綺麗にハモる。
 その驚愕の声は、昴が有紗のことを好きでなかったということよりも、同じ中学校だったということに対して放たれたものであった。
「いいなあ」
 羨望の声があがる。昴ははぁ、とため息をついた。
「そ……そうか、うん、うらやましい。だが、今となっては、昴と有紗ちゃんが同じ学校だったという過去などどうでもいい。強力なライバルだと思っていた男 が一人減ったわけだ、ここは素直に喜ぼう。なに、さっきの意気込んだ宣戦布告が無駄になってしまったが、きっと時が洗い流してくれるさ、ハハ」
 淳が、謎の言葉をブツブツと呟いた。
 そろそろ午前三時だ。少しばかり頭がおかしくなり始めても、変な場面ではないだろう。
「ああ……ほっとしたら何か急に眠くなってきた。すまん、みんな、先立つ不幸を許してくれ」
「淳!?」
「おーい淳ー!」
 次の瞬間、淳は眠りの世界へと、まるで飛び降りたように落ちていった。
 大久保と喜久井が顔を見合わせる。昴も、手を横に、やれやれ、といった表情を浮かべた。
 ムードメイカーが眠ってしまったのだ。このままだと、全員眠りの世界に落ちてしまうのも時間の問題だろう。
 ここで意地を張って、貫徹をするという勝ち目のない戦をするよりは、最終日に備えた方が得だと判断した三人は、それぞれ各自の布団へと戻る。
 そして、その夜はお開きになった。

 昴は、布団の中で目を閉じながら、本当に好きな人のことを尋ねられなかったことに安堵をした。
 彼とて思春期の男だ。年相応に、好きな人ぐらいいる。しかし、彼にそれを誰かに言う気など、さらさらなかった。言ったところで、恋が成就するわけではな いのだ。むしろ、逆効果だと考えていた。言えば、きっと噂は広まる。人の口に戸は立てられない。噂が広まったところで得られるメリットなど微々たるものだ ろうし、むしろリスクの方が大きいと感じた。
 自分の気持ちは、ギリギリまで隠していた方がいいに決まっている。それを、昴は理解していた。
 寝返りを打ち、壁側を向く。目を開けると、漆喰の壁に、彼女の笑顔が浮かんだ……ような錯覚を覚えた。
 きっと、夢と現の境が曖昧になっているだけだ、と、瞳を閉じる。眠りの世界に落ちるのは時間の問題だった。
 だが、その前にもう一度、昴は自分の憧れる女の子――七月ほたる(ななつき ほたる)の顔を思い出していた。

 ◇ ◇ ◇

 翌日。
 ほとんどの生徒が、眠そうに目をこする中、最終日の日程が敢行されることとなった。
 皆眠たそうではあるものの、テンションだけは高い。若さゆえの体力と気力、そしてバスの中での小休眠によって、この一日を乗り越えようとするのだ。
 だが、バスは十五分ほどで目的地の美術館に到着した。おかげで、バス内で眠ろうとする生徒たちの目論見は、いとも容易く崩れ去るのであった。
 昴もまた、その中の一人だったのだが、仕方なくふらふらと外へと下りる。
 見れば、淳や大久保、喜久井も同様に、日の光を浴びて気分を悪そうにしている。その動きは最近流行りのゲームに登場するゾンビのようだった。
「それじゃ、これから一時間半自由行動だ。眠いヤツも多いだろうが、折角来たんだからしっかり回って来い。一通り見たら何をしていても構わんぞ」
 先生の号令が響く。
 その言葉を意訳すると、「眠いヤツはさっさと見て回って、寝ていていいぞ」ということだろう。
 結局、のそのそと、イモムシのような動きで、昴は中へと足を運ぶことになった。

「あ、藤崎じゃない。やほー」
 美術館に入った直後、昴の眠気は一気に吹っ飛ばされることになった。
 彼の隣に立っていたのは、偶然にも見知った二人の女子生徒だったからだ。
 一人は、長身で、白いリボンで束ねた長い黒髪を揺らす少女――夕凪有紗だった。
 普通の男子生徒ならば、ここで有紗の隣に来ることが出来た時点で、幸せいっぱい夢いっぱい、神輿だって担げてしまうぐらいのハイテンションになるのだろうが、昴の場合、彼女の存在はある意味どうでも良かった。
 それよりも、昴にとっての問題は、その隣に立つ少女だった。
 ガラス細工のように透き通った白い肌に、宝石のように輝いたちょっと垂れ目気味の瞳、少し茶味がかかった髪は肩の高さで短く切りそろえられており、ふわっと柔らかそうに 揺れている――そう、彼女こそが、昴の憧れている女子生徒、七月ほたるだった。
「や、やあ、おはよう、夕凪と、な、七月さん」
 昴は、自分の心臓が高鳴るのを感じつつ、なるべく不自然にならないように挨拶をした――つもりだったのだが、有紗はニヤニヤと意地悪そうな目を昴に向けた。
「あれあれ、どうしちゃったのでしょうか藤崎くんは。何やら普段とは違った様子。ふふーん、さてはいきなりの美人二人の登場に、昂ぶる感情を抑えられないでいるな?」
「だ、だれ……」
 誰が、と言いかけて、言ったらほたるに対しても美人でないと言ってしまうことに気付き、押し黙る。
 その様子がおかしいのか、有紗はお腹を押さえて笑うのを堪えていた。
「藤崎くん、おはよう」
 ほたるが昴に挨拶をする。
 それだけで、昴の心臓は、バンジージャンプでもしたかのように上下に跳ねた。
「あ、ああ……うん、朝ごはんは何食べた?」
「え……藤崎くんと同じだと思うけど……」
 不思議そうに首を傾げるほたる。それはそうだろう、今の昴の発言は常識外だ。
 そして、当の昴は、まともに言葉を発することの出来ない状況になっていた。
 全身から嫌な汗が吹き出てくるのを感じながら、くるり、と二人に背を向け、美術館へと入っていく。いわゆる戦術的撤退、もはや敗北だった。
 背中越しに、面白いものを見せてもらいました、とでも言わんばかりに小さく拍手をする有紗の姿があった。

 昴は、女の子と話すのはそう得意ではない。むしろ、苦手という領域に分類されてもおかしくない。
 有紗だけは例外だ。彼女はずっと中学校で同じクラスだったために、気軽に話せるが、他の人は別である。
 特に、自分が憧れている存在と、ましてや心の準備もないまま、不意打ち同然の状態で会ったら、さっきのように話す以前のレベルにまで持っていかれる。
 二人と少し離れて、深呼吸をする。
 まだ胸の鼓動は、正常な状態を逸していた。
 そして、次第に落ち着くにつれ、今度は激しい後悔と情けなさ、そして焦燥感が訪れる。
 手を伸ばさなければ、恋愛どころか仲良くなることすら不可能だというのに、自分には手を伸ばす勇気さえもないのか――と、ため息まじりで自己嫌悪に陥る。
「もっと頑張れよ……僕」
 小さな声で呟く。
 正直なところ、昴は悔しかったのだ。

 昴は、ほたるを想う気持ちだけは誰にも負けていないと信じていた。
 それでも、ほたるのことを想っている男が他にいるかもしれない、と考えると、焦らずにはいられないのだ。
 自分が彼女に抱いている気持ちが、恋愛感情、と呼ばれるものであることに気付いたのは、ほんの三ヶ月前のことだ。
 理由なんてない、世間一般では一目ぼれというのかもしれない。一年生から二年生になったとき、クラス替えで新しく一緒になった生徒の中に彼女がいた……ただそれだけだ。
 それまで、一度も会ったことがなかったというわけではない。一年生の頃から、ほたるの顔は知っていた。
 その理由なんて、本当に些細なことで、ただ単に、有紗とほたるが、クラスが違うころから仲が良かっただけだ。そのため、何度かクラスに足を運んできたほたるのことを、昴は何度か目にしているのである。
 その時は、あのコ可愛いな、と思う程度で、とりわけ気にもしていなかったのだが、同じクラスになった瞬間……その壁は一気に崩れ去ったのである。
 それまでは、別のクラスだからという理由で、関係ないと考えていたのに、クラスが一緒になることで、妙な親近感というものを得たのである。
 その日、堤防を突き破った濁流は、一気に昴の頭からつま先までを浸し、そして心を溺れさせていった。今では息苦しくて仕方がない。酸素を求めてあえぐ姿は、周りから見たらさぞ滑稽に映るだろう。
 たくさんの生徒たちの声が響く館内であっても、微かに聴こえてくるほたるの声だけは、簡単に拾うことが出来る。
 鈴の音のような、控えめで、そして澄んだ声。それを聴くだけで、昴の心臓は再び高鳴りはじめる。
 ほたると話したい、そして好きだという想いを伝えたい、一緒に肩を並べて歩きたい。
 そんな純粋無垢な想いは、昴の中で燻り続けるのだった。

「あいたっ」
 だから、目の前に人が立っていたとしても、自分がその人にぶつかりそうなほど近づいているとしても、昴は衝突するまで気付けなかった。
 鈍い痛みと、ぶつかってしまったという罪悪感が、一気に彼を妄想から現実世界へと戻す。
「す、すみません!」
 謝る昴。だが、前に立つ人物は、壁にかかっている絵画をじっと眺め続けていた。
 まるで、ぶつかったことすら気付いていないかのように、このまま絵に吸い込まれていくのではないかと思うほど、ぴたりと静止したまま、ただ絵を見上げ続ける。
 若い男だった。
 オールバックの髪に端整な顔立ち、銀色のメガネが恐ろしいほど似合っていた。黒のスーツ姿は、彼の長身と痩躯にぴったりと合っており、まさにパーフェクトという言葉が通用しそうだった。
 そんな彼が、あまりに絵を眺め続けているため、つられるように昴もその絵を見てみる。
 それは、ベージュの壁とは似ても似つかない、黒く、そして冷たい絵だった。
 夜を表しているのだろうか、黒い背景に灰色で描かれた人間が立っている。その人間は両手を掲げ、天を仰ぎ見る姿勢をとっていた。
 その人間の頭上には、口の中から湧き出てきているように描かれた煙のようなものが描かれており、金色の瞳が二つ輝いているのだった。
 タイトルは『ルインの種』……正直なところ、昴はこの絵の内容が理解できなかった。
「あなたは――」
 すると、男が口を開いた。
「悪魔の存在を信じますか?」
「え?」
 いきなり飛び出てきた非日常的単語に、昴は反応できなかった。
「きっと、この画家は悪魔の姿を見ることが出来たのでしょう。そう、確かに悪魔は存在する、この世界のあらゆる場所、あらゆる時にその姿を現し、人々に憑いていく存在……この絵は、悪魔の生まれいずる様子を如実に描いています」
「えと……」
 昴が何を言い返せばよいものか思案していると、男は初めて昴の方を向いた。
「ふむ、私としたことが、驚かせすぎたようですね。見たところあなたは高校生のようですけど……地元の生徒ではありませんね?」
「あ、はい。M県から、修学旅行でやってきました」
「そうですか、M県なら私もよく行きます。縁があれば、また会うことになるかもしれません。私の名前は支倉御影(はせくら みかげ)、頭の片隅にでも留めておいていただければ、幸いです」
「え……あの、一体……?」
「それでは、失礼します」
 昴が何か言おうとする前に、支倉という名の男は、コツコツと靴の音を鳴らしながら、大勢いる生徒の間を器用に掻き分けて、去っていった。
 どこからどこまでも謎の男の言動に、昴はただ呆然と取り残されるのみだった。

 ◇ ◇ ◇

 昴が、支倉との邂逅を行っているのとほぼ同じ時間に、戸山淳ら三バカトリオは出遅れたことを後悔しながら、未だに入り口の辺りをノロノロと進んでいた。
 やはり、美術館に一学年の生徒を丸々入れるのは物理的に無理があったようだ。
 美術館とは、人や物を詰め込む場所ではない。絵画や彫刻といった美術品を展示する場所だ。
 となると、いくら内装が広くても、人は見物するために、美術品の前で必ず足を止めるため、渋滞が必然的に発生する。
 たとえ美術品に興味がなく、ただ素通りしてさっさと自由行動時間にありつこうとしている生徒であっても、細い入り口付近の渋滞だけは避けようがないのだ。
 それに加え、淳の場合は、有紗の動向をひどく気にしていた。
 彼の当初の計画は、一緒に肩を並べ、美術品の感想を二人で楽しく語らうという優雅なひと時を過ごし、その後の自由時間もそのままの流れで仲良く世間話でもしている予定だったのだ。
 もちろん、この混み具合だ。周りの人に押されて、肌と肌が触れ合ってしまうとか、ひょっとしたらもっと柔らかいところの感触を味わってしまったりとか、 そんなハプニングすら予想していた。
 それが今の状況はどうだろう。
 何故だか汗臭い体育会系の男子生徒に囲まれ、硬い肉の感触を味わうことになっている。
「くそー、喜久井のせいだぞ……もっと早くバスを降りていれば……!」
「ふぁ……そんなこと言ったってさー、眠かったんだからしゃーないじゃーん」
 喜久井が、欠伸をしながら反論する。
「まったく……誰が好き好んで、こんなムサい男だらけのところを進んでいなきゃいけないんだよ……うわ、なんか今べっとりした! ちょっ、気持ちわるっ!」
 状況は最悪だった。
 無論、有紗の姿など全く見えない。
 当初の計画に、どんなに妥協を重ねたとしても、この状況に行き当たろうとはするまい。むしろこれは、妥協といったレベルではなく、罰ゲームとかそういった類の世界だ。
「昴も先に行っちゃうしよ……まさか、あいつ今頃有紗ちゃんと……くそーさっさとこんなところ抜けるぞ!」
「あ、待てよ淳……あっ……!」
 無理矢理通り抜けていこうとする淳を、大久保が焦りながら追った。
 そのとき、大久保は誰かの足につまずき、結果彼はよろけてしまい……。
「大丈夫か、早く来い……いや、待て、来るなー!」
 心配して振り向いた淳は、倒れこんできた大久保と濃厚な口づけを交わすこととなった。
 『天国と地獄』という名の絵画の前、暑い夏のひと時だった。

 ◇ ◇ ◇

 冷房は効いていたが、代わりにCO2が満ち満ちて息苦しかった美術館内に比べると、外の環境は非常に快適だ。
 夏の日光は、午前中といえど容赦なく降り注ぐが、日陰と噴水のおかげで、幾分か緩和されている。
 昴は、日陰のベンチに腰掛けると、ほっと一息ついた。
 突然ほたるとランデブーしたことや、支倉という謎の男との出会いのおかげで、彼はとにかく休息を欲してしたのだ。
 時計を見ると、集合時間まで、まだ五十分以上残されていた。随分長く美術館の中にいた気がしたが、三十分少々しかいなかったようだ。
 ならば、この時間を無駄にするわけにはいかない、と、昴は目を閉じて休眠体勢に入る。
 まだ修学旅行は半日残されている。今のうちに気力を蓄えておかねば、午後の行動に支障が出るのだ。

「あれれー、藤崎ったら寝ちゃってるの?」
 そんな時、嬉しそうな女子生徒の声。
「ひゃっ!」
 目を閉じていた昴は、突然のひんやりとした感触の正体が何だか気付けなかった。
 おかげで、まるで女の子のような高い悲鳴を上げてしまった。
 反射的に目を開けて、状況を確認すると、またしても有紗がニヤニヤしながら立っていた。
「……夕凪、何やっているの?」
「えへへ、美味しそうでしょ?」
 彼女は、近くの売店で売っているかき氷を、昴の頬へと押し付けていた。
 そろそろ、冷たいという感覚を通り越して痛覚へと変わったため、昴は有紗の手をどける。
「まったく……僕をいじめて何が楽しいのさ」
「んー? 藤崎ほど、遊んだら面白い人いないよ。さっきの悲鳴可愛かったよー。ね、ほたるもそう思うでしょ?」
「あ、あたしはちょっと可哀想だと思うな」
 昴は、二度目の悲鳴を上げそうになるのを、ぐっと堪えた。
 有紗の隣には、先ほどと同じように、七月ほたるが立っていたのだ。
 またしても強烈な不意打ち、いや、有紗がやって来ていた時点で、彼女の存在に気付くべきだったのかもしれない。
 バクバクと高鳴る心臓の音が、ほたるに聞こえていないかと、昴は僅かに後退する。
「そうかな? ほたるもきっと、一度いじったらやみつきになると思うけどな?」
 そういう話は、非常に心臓に悪かった。
 恐らく、ほたるにいじられたら、昴は感動のあまり昇天してしまうだろう。それはそれで、幸せな逝き方だろうが、昴はまだ生きたいと思っていた。
「有紗ちゃん。藤崎くん、なんか困った顔してるよ?」
「うん? あれ、本当だ、悩み多いの? 禿げるよ?」
「あのな……」
 悩みの元凶が二人揃って、昴の前に立っているのだが、そんなこと彼女らは知る由などなかった。昴は頭を抱える。
「ふ、藤崎くん……ごめんね。あ、あのさ、有紗ちゃん、そろそろそっとしておいてあげようよ」
 ほたるが提案する。だが、有紗は笑顔のまま首を横に振った。
「ダメダメ、せっかく藤崎で遊べるチャンスなのに……って思ったけど、ごめん、ちょっとトイレ行ってくるねー」
「え、ええ?」
 わたわたと手を振るほたる。しかし、有紗は空になったかき氷の容器を片手に、さっさと二人の前からいなくなってしまった。
 結局、ほたると昴は二人きりでその場に留まることになった。
 慌てたいのは、ほたるだけではない。
 昴も、この予想外すぎる展開に、眠気なんて一気に吹き飛ばされてしまった。
 今直面しているのは、ほたると二人きりなんていう、あまりに非現実的な状況……頬を何度かつねってみた。痛みは現実だった。
 二人、話すこともなく、ただ黙り込む。
 少し気まずい雰囲気の沈黙が漂う。
 ほたるに憧れる昴にとしては、この状況は願ってもいないような展開だった。しかし、いざ現実になってみると、上手く頭が働かない。
 心臓はまるで、小さい部屋の中を跳ね回るスーパーボールみたいだ。全身は指の先まで痺れてしまっている。ぶわっ、と嫌な汗が噴出す。まったくもって正常から大きく逸している状況だった。
 だが、同時に巻き起こる、後悔だけはしたくないという強い想い。
 これはチャンスだ、そうに違いない。
 近くには誰もいなく、周囲は静か……こんな機会、滅多にあるものじゃない。
 勇気を出せ藤崎昴、と自分自身にゲキを飛ばす。すると、自然と体の芯から勇気が湧き上がってくるのを感じた。
「あの、藤崎くん?」
 そうしていて、まず最初に沈黙を破ったのはほたるのほうだった。
 さっきよりも落ち着いている昴は、なにかな、とまともに返すことが出来た。
「べ、ベンチ、隣座ってもいい?」
 その一言で、そのガラス細工の勇気は即座に粉砕された。
 隣ってことは、今よりも近い距離にほたるが座るということだ。今でさえやばいのに、これ以上近寄られたらどうなってしまうのか。
「い、いいよ」
 だが、当然断ることは出来ない。昴が右端へと寄ると、ほたるは、ありがとう、と小さく呟いて、左端に座った。
 そして、再び訪れる沈黙。
 密着こそしていないが、さっきよりも遥かに近い距離。それ故に、同じ沈黙でも痛ましさが違った。
 とにかく何か話さねばならない。そう思って、昴は意を決して口を開く。
「あ、あのさ、美術館、よかったね」
「え、う、うん、面白かったよね」
「……」
「……」
 再度の沈黙。
 会話は全く続かなかった。
 それでも、今、目を合わせたとき、心の奥底から全身へと力が湧いてきたのを感じて、やはり、この気持ちに嘘はないと確信した。
 だから、この気持ちを伝えるならば今しかないと、直感的に感じていた。
 今を逃せば、この先もずっと、後回しにしてしまいそうだと思う。そうなれば、きっといつか後悔することになるだろう。
 勇気を装填し、意を決する。あとは引き金を引くのみ!

「あの、藤崎くん?」
「あ、七月さん?」
 声がハモる。同時に何か言おうとしてしまったらしい。
 さっきまでお互いに黙りっぱなしだったのにだが、こういう時だけは、かみ合わないようだ。
「ゴメンね、藤崎くんからいいよ?」
「ううん、七月さんからでいいよ」
「え、いや、あたしのは後でも……」
「僕のも後でもいいんだけど……」
「じゃ、じゃあ藤崎くんからどうぞ?」
「で、でもレディファーストだし、七月さんどうぞ?」
「えー……こんなときにレディファーストはずるいよう……」
「じゃあさ、公平にジャンケンしようか、ジャンケン! 勝った方が先で」
「う、うんっ」
 そうして、突然ジャンケンを始める二人だった。

 ◇ ◇ ◇

 トイレに行くと言って二人の前から去った有紗は、建物の影から二人の様子を伺っていた。微笑ましい様子の二人だが、いつもハキハキと行動する彼女にとっては、少しじれったい。
 思いついたら即行動、躊躇はしない、それこそが快活のカギ。それが、有紗のスタンスだった。もちろん、自分のスタンスを人に押し付ける気はない。しかし、今の二人の状況は、もう少しなんとなからないのか、と壁を引っ掻きながら思う。
 二人とも言いたいことがあるのならば、さっさと言ってしまえば良い。じきに美術館からでてくる人も増えて、話し辛くなるに決まっている。
 男と女が二人きりでいることは、高校生にとって、からかいの的になりやすいのだから、もっと今の時間を有効に使え、と、見つめ続けるのであった。
 そんなとき、二人に徐々に接近していく不埒な輩――同じクラスの三バカトリオを発見した。
 三バカトリオは、二人がいるベンチから十メートルほど離れた柱の陰に隠れていた。
 そんな距離、ちょっと気にされたら一発でバレる。
 有紗は、チッ、と、お年頃の女の子らしからぬ舌打ちをすると、二人に見つからないようなルートで三バカトリオのところへと急ぎ、彼らのワイシャツの襟を引っ張って、安全な場所へと引っ張り出した。
「ちょっ……何をする……って、あ、夕凪さん!?」
「声が大きい!」
 頭を殴られ目を丸くする淳、そして同様に引っ張られた大久保も、ほぼ同じような反応をする。
 喜久井は、一瞬何が起きたのか気付いていなかったが、隣にいた淳と大久保がいなくなったのに気付き、有紗たちの場所へとやってきた。
「えと、なんでしょうか?」
 淳がおずおずと訊く。
 彼とって有紗は憧れの対象だ。いきなり引っ張られ、近距離に迫って、さらに殴られて、これで動揺しないはずがない。
「うるさいバカっ! 今いいところなんだから黙って見るの!」
「――バ、バカ?」
 淳は首を傾げる。凛々しい表情と佇まいで弓を引くいつもの有紗の姿からは、とてもバカなどと人に言うとは想像できない。
 あまりに衝撃に、思考回路が停止していた。
「おい、淳っ、ぼーっとしてんなよ」
 喜久井が言う。
 その言葉で我に返った淳は、改めて昴とほたるの様子を伺う。
 そうだった、なかなか珍しい光景を発見したので、覗き見ようとしている最中だったのだ。二人は、何やらお互いに譲り合った後何故かジャンケンをしていた。淳は、突飛な行動にまたしても首を傾げるのだった。

 ジャンケンの勝敗がつき、昴から先に話すこととなった。
 だが、彼はいざ話そうと思っていたことを、あろうことか忘却の彼方へと飛ばしてしまっていた。
 恐ろしいまでのど忘れ、緊張が生み出した思考の停止である。
 それは非常にマズい。彼女を前にして、何も言えないというのか。
 昴は、真っ白になってしまった頭を、必死になって回転させようとするが、ただ空回りするだけだった。

「何やっているのよ、あいつは!」
 有紗が悪態をつく。
 自分から何か言おうとしておいて、何も言えなくなるなんて最悪だ。
 少しは勇気の一つや二つぐらい出しなさい、と叫びたいところをぐっと堪える。
「ぎ……ぐ……くるし……」
 そのために、彼女の隣にいた淳が強烈な力で首を絞められていたのだが、有紗自身をはじめ、誰も気付いていなかった。

「……藤崎くん? 言いたいことって?」
 ほたるが、上目遣いで昴を覗き込む。
 昴の頭は、まさに処理落ちを起こしていた。一昔前のパソコン並みのスペックである。
 徐々に気まずくなっていく空気、とにかく何か言わなければならない。
「あ、あのさ……絵、良かったよね」
 そうして無理矢理ひねり出した言葉は、本当に意味のない言葉だった。
 建物の陰に隠れている四人が、揃ってため息をついたが、昴は知る由もない。
「――うん、そうだね」
 ほたるは、一拍置いたあと、俯いて答える。
 失望されたのだろうか、昴の心の中にもマズいという気持ちが溜まっていく。
 もちろん、本当はそんなことを言いたいわけじゃない。うまい具合にセッティングされたこの状況であっても、勇気を出せないというのか。
 昴は自分に苛立つ。だが、その気持ちも、言葉を紡ぐための勇気へと変わらない。
 そうしてループする思考。
 もうすぐ多くの生徒たちが美術館から出てきてしまう、有紗もトイレから帰ってくるかもしれない。
 自己嫌悪に陥ったって何も変わらない……変わらないのだが……。

「じゃあ、藤崎くん、あたしが言いたいこと……先に言ってもいいかな」
 ほたるの言葉に、昴は少しの猶予を与えられたことに気付き、安堵する。
「い、いいよ」
 今のうちに、伝えたい気持ちを整理しよう。
 昴は、強制終了させて再起動させたを頭脳を再び回転させる。

「あたし、藤崎くんのことが好きです」

 だから、一瞬、その言葉の意味がわからなかった。
 再び凍りつく脳内。
 さらにも増して高鳴る鼓動。
 噴水からあがる水の音すらも、消えた。
 おお、と、物陰の四人からも声が漏れる。
 すごい場面に出くわしてしまったのだ。固唾を呑んで、成り行きを見守る。

「今……なんて……?」
 呆然とした表情で、昴が言った。
「えっ――?」
 顔を林檎のように赤らめたほたるは、驚いて顔を上げる。
「え、え……あの、だから……」
 あまりにも予想外の返答に、辺り一体の空気が凍りついた。
「あ、あたし……あたし……あの……その……」
 今にも泣き出しそうな顔になるほたる。
 緊張しているのは、昴だけではない。告白した当人であるほたるは、もっと緊張している。
 それでも勇気を振り絞り、今すぐ逃げ出したい衝動を抑えつけていたのだ。
 だが、肝心の昴は完全に思考回路が停止してしまっていた。
 物陰の四人も、昴の言動に頭を抱える。
「だ、だから……藤崎くんが……」
「僕も……」
 だが昴は、僅かな勇気を振り絞り、目を覚ました。
 そして、回り出した頭で言葉を紡ぐ。ぎちぎちと固まって動かない糸車を、少しずつ動かしていく。
「僕も、七月さんのことが好きだよ」
「あ――」

 ようやく言えた。
 ずっと心の奥底にしまっていた想いが、今解き放たれた。
 物陰の四人が胸を下ろす。
 ほたるの瞳からは、涙がぼろぼろと溢れ出した。
「え、あ……?」
 目の前の女の子の涙に、あたふたと慌てる昴。
「えと……ごめん?」
 だから、とりあえず謝った。
 こういうときの対応は全くわからない。ぽりぽりと後ろ髪を掻いた。
「ううん、藤崎くんが悪いんじゃないの……ごめんなさい……あたし、嬉しくて……ごめんなさい」
「あ――うん」
「あたしたち……両想いだったんだね……」
 ――両想い。
 その単語が、昴の中をまるで電撃のように駆け巡った。
 頭の中を整理する。
 自分が憧れている女の子が目の前にいて? 告白されて? 自分も好きだって言って? そして両想い? これは……これは……?
 ここまで来れば、どんなにスペックの悪い頭だって理解できる。
 つまり、つまりだ――これは、今までずっと抱え込んでいた想いが叶ったということだ。
「な、七月さん……?」
「あ――ごめんなさい……はい」
 ほたるは、涙を拭いて、真っ赤な瞳で昴を見る。
 ルビーのように輝くそれは、真っ直ぐに昴の顔を映していた。
 昴の頭が再びショートしそうになるが、それをなんとか持ちこたえさせて、ほたるを見る。
「僕たち、こ、恋人……になるってことだよね?」
 間違っていないか確認するように、言う。
 すると、ほたるもしっかりと頷き、笑顔を輝かせた。
「はい――よろしくお願いします」
 とどめの一撃。
 昴の顔も、真っ赤に染まった。

 こうして、この世界の細い二本の糸が、一つに結ばれた。
 そして、全てはここから始まる。

 歯車が、回り始める。

 ◇ ◇ ◇

 白い天井、白い壁、白い廊下。
 全てが清潔に保たれていているこの施設を、男は闊歩する。
 鼻を刺す薬品の臭いも、毎日付き合っていれば気にはならない。
 夜になれば若干涼しくはなるが、それでも蒸し暑いのには変わらない。
 仕事を終えた男は、背広を片手に施設を出た。
 しばらく道を歩くと、闇夜に人影が映っているのが見えて、歩を止める。
 見れば、それは知人の顔だった。
 向こうが男を待っていたらしい。相手は男の顔を確認すると、声をかけてきた。

「どうでした?」
「今回も問題はなかった。君の手を煩わせるまでもない」
「そうですか――それならば良いのですが」
 そして、相手はタバコに火をつけた。紫煙が闇夜に広がる。
「もうすぐ、私の出番ですね」
「……そうならないことを祈るばかりだが」
「いいえ、証拠はありませんが、感覚的に、それは近いです。間違いなく――それは我々の前に現れます。その時は――」
「ああ、もしも手に負えないようならば、君を呼ぶ」
 男は、ぶっきらぼうに言う。それには、相手を拒絶する意思がこめられていた。
「高瀬川、目を覚ましてください。もちろん、否定したい気持ちは理解できますが、あなたもわかっているはずです。それは確実に迫っています。もはや目を逸らすこともできない未来のはず――」
 高瀬川、と呼ばれた男は相手をにらみ、言葉を制した。
「十分、理解している」
 言い放ち、高瀬川は闇の中を歩き出す。
 後ろで、相手はタバコの火を小さく輝かせ、腕時計を見た。

「ああ、もう七月ですか……」
 ふう、とため息と同時に紫煙を吐き出す。

 時刻は、七月一日の午前零時を指していた。


 第一章、 完

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