ユメ売リビト
外に出ると、ろくなことがない。
灰色の街に住むのは、どうせくだらない人間ばかり。他人を見下し、罵り、嘲り、平気で嘘をつく。そのくせ中身は空っぽ、そんなやつらがごろごろ転がって
いる。なんて……俺も人のことを言えない。
こんな世界じゃ未来なんて見えない、そんなのどうだっていい、とにかく今は生きていければそれでいい。
つまらない。適当に落ちていた空き缶を蹴る。派手なカラーリングの缶が、モノクロの世界の宙に舞う。つまらない。
「そこのお兄さん――」
「あ?」
缶がカラン、と無機質な音を鳴らして落ちる。俺のことを呼んでいるのか?
声のした方を見ると、暗い路地裏への入り口にその男は立っていた。闇に溶けるような黒いスーツに、今どき映画の中でしか見ないような円柱に長く伸びたシ
ルクハット、顔が半分隠れるほどにまで伸びた銀色の髪、その影からは、ぎょろり、と大きな目が俺のことを射抜くように光っていた。どう見てもまともな人間
じゃない。
「――夢、買いませんか?」
そいつが次に発した言葉は、それだった。
ああ、外に出ると、ろくなことがない。
◇ ◇ ◇
俺、河端健は、自信を持って誇れることがある。それは、俺が駄目人間だ、ということだ。
俺は、決められたことをやらされ、束縛された日々にうんざりして社会のレールの上から逃げ出た。だが、途中下車した先に待っていたのは、空虚でモノクロ
な毎日。テレビを見ても漫画を読んでも面白いことなんて何一つない。建設的なことなんて何もない。結局生活するために、やりたくもないコンビニのバイトを
始め、家と職場を往復するだけのマンネリ化した日々を繰り返している。
バイトで稼げる金だってたかが知れている。稼いだ金は、家賃と食費とタバコ代に消える。それの繰り返しをし続けてきた。なんて無意味な生活、いや、人
生。
人生やり直せるならやり直したいと思ったこともある。今からでも生活を変えられるなら変えたいと思っている。だが、そのために何かを始めようという気に
はなれない。きっと、俺はこの生活に深く馴染みすぎたんだ。
「ハイ、というわけで、多くのお客さんのニーズに応えられるよう様々な種類の夢をご用意しております。ギタリストにプロ野球選手……大豪邸でハーレム作っ
てウハウハな生活なんてものもありますよ」
で、気がつくと俺はネズミがゴミを漁っているような路地裏に入り込んで、この胡散臭い男の話を聞いていたりする。
マンネリ化した人生に少しでも変化があるならば、それに付き合う価値はあると思ってのことだった。
男は、自分のことを夢売り人だと名乗った。
話を聞くところによると、『今の人生に飽き飽きした、夢のない人々に夢を売っている』らしい。さっぱり意味がわからない。
「なあ、一つ訊いていいか」
「はい、どうぞ」
男は、大きな目を細めて気色の悪い笑顔を作った。俺はそれをなるべく見ないように質問をぶつけてみる。
「夢を売っているって言ったな。それは具体的にどういうことだ、夢を買うとどうなるんだ」
「はい、それは言葉の通りに受け取ってもらえれば構いません。私が売っている夢を買っていただければ、その夢が実現します。いえ、夢が実現する、というよ
りは、夢を実現させることが可能になる、と言った方が正確でしょうか」
「……どういうことだ」
「つまりですね、今の世の中、夢を持っていない人々が多いんです。貴方もその一人だと思いまして、お声をかけさせていただきました」
「大きなお世話だ」
悔しいが、当たっていた。
「はい、それでですね……若いのに夢を持っていないとなると、やることなすこと気合が入らず、あらゆることに無気力無関心無感動……それでは、まるで生き
ながらにして死んでいるよう。そこで、私が夢を売り、それを買ってもらうことで生きるうえでの目標としていただきたいのです」
「目標? つまり、今から何かを始めろってことか?」
そんなのは真っ平だった。今から何かを始めたとしても全てが遅すぎる。楽器が弾けるわけでも運動神経がいいわけでもない、教養だって持っていなければ、
恋愛なんて程遠い。
「無理だ」
「いえ、それは夢を持っていないからそう言うのです。本気でやりたいこと……それがあれば全力で取り組めるはずです。私の売っている夢は、貴方の心に大き
な変化をもたらすでしょう」
「……悪いが、興味ない」
さっさとこの路地裏を立ち去りたくなってきた。じめじめしていて、しかも臭う。ちょうどこの男の胡散臭い話にも飽きてきた。
「きっと、貴方は夢が欲しくなりますよ。欲しくなったとき、そのときに私はもういません」
黒の世界から白の世界へと抜け出そうとしたとき、男は俺の背中に話しかけてきた。
「貴方は貴方自身わかっているのでしょう。このままではいけない、と。しかし、今の生活を変える勇気もない。それ故、貴方はやり場のない怒りを社会に向
け、妬んで恨んで嫉んで生きているのです――図星でしょう」
……戯言だ。
そう思いたいが、男の言葉が頭の中で何度も響き、足が動かなくなった。
なんだ、なんでだ?
「貴方は本当は望んでいるのです。今の生活を変えたい、誰かが今の生活を変えてくれると……そんなありもしない奇跡にすがって、毎日を繰り返しているんで
す――」
「勝手なことを言うな……」
「――ここには、その奇跡があったというのに」
男が、俺のすぐ後ろ……髪に息がかかるほどにまで近づいて囁いた。
ぐわん、と頭を強く打たれるような衝撃。
心拍数が上昇する。どくん。夢。目標。どくん。希望。奇跡。どくん。それは、俺が今一番求めているものじゃないのか……?
振り返ると、男の姿は無かった。奥の闇にまぎれているのだろうか、それとも隠れた? いや、路地裏に隠れるところなんてない。彼は消えてしまったの
だ……俺が悩んでいる間に。
「……くそっ」
壁を蹴る。つまらない。白い世界へと出る。
世界が白く見えるのは、人工的な、かりそめの白。本質は黒なのに、それを誤魔化そうと必死で塗りつぶした結果がこれだ。
そして、醜い灰色に染まった街は、静かに夜を迎えるのだった。
◇ ◇ ◇
夢でも見ていたのだろうか。
夢売り人と名乗る男との邂逅から一週間が経ち、現実味なんてものは一気に吹き飛んでいた。考えれば考えるほどに馬鹿げた話だ。
だが、それでもやつが言った言葉が、頭の中でリフレインし続ける。この一週間、ずっとそれが気になり続けている。
原因不明の頭痛に悩まされ、やる気を失った俺は、三日間バイトをサボった。おかげで、先日職場に行ったときにはクビを宣告された。恐らくアルバイトの一
人や二人いなくなっても店に問題などないのだろう。以前からサボることが多かった俺みたいな人間を残しておく理由なんてない。
フリーターからニートへと進化を遂げた記念に、アパートの窓から紫煙を揺らしてみた。虚しい。全然面白くねえよ、馬鹿。
一服し、空を見上げてみる。小さい頃は青く見えた空も、今では灰色にしか見えない。
「夢……ね」
幼い頃は、プロ野球の選手になりたいと思った。友達と毎日公園で野球をして遊んだ。だが、俺には運動神経がないという現実に直面して諦めた。
高校生の頃は、あるバンドに夢中になって、ギタリストになりたいと思った。お小遣いを溜め、親に頼み込んでギターを買ってもらい、数日練習してすぐ飽き
た。音感もないし、俺には向いていなかったのだろう。
結局、俺に夢なんて似合わない。どうせすぐ飽きる、すぐ諦める。今までそうやって生きてきた。これからもそうやって生きていく。それでいいのか?
溜まっていた灰がポロリと畳の上に落ちた。虚しく散っていく灰に自分自身の姿が重なる。俺もこんな風に落ち、そして、風に吹かれて消えていくのだろう
か。それでいいのか?
「……畜生」
いいわけがなかった。
人生にリセットボタンがあるのなら、俺は喜んで押すだろう。人生というレールから外れたあの日に戻り、そこから全てをやり直せたら、それはどんなに救わ
れることか。
わかっていた。こんなことを考えることが無意味だってこと。結局のところあの男が言った通り、ありもしない奇跡にすがって生きる、それだけの男だ。
じゃあ、俺に何が出来るというんだ?
「出来ますよ」
「――っ!」
いつどこから現れたのか、部屋の隅にあの男――夢売り人が立っていた。相変わらず全身黒ずくめのスーツ姿にシルクハット……それは、初めからそこにいた
かのように、部屋の雰囲気に溶け込んでいた。
「お前……どこから……」
「貴方が言いたいのは、そんなことではないはずですが、河端健」
口を三日月のように歪ませ、男は言った。嫌な汗が背中を伝った。
全てお見通しなのだ。視られている。
俺の胸に穴を空け、心をまるで神経衰弱のようにペロンと裏返し、それをまじまじと眺めている……俺には男がそうやっているように映る。
言い返すことは出来なかった。ただ、その金色に光る瞳に吸い込まれていくような感覚のみが全身を巡る。
「欲しいのでしょう? 私の売っている夢が」
男が、右腕を前に差し出す。その手のひらの上に青い炎が揺らめいているのが、確かに見えた。
「これは……?」
「これが貴方の欲しがっているものです」
にい、と男が笑う。どくん。鼓動が高鳴る。手を伸ばせば届く。どくん。俺の望むもの。どくん。
「どうぞ、お手を触れてみてもいいですよ?」
それが、引き金となった。
ためらうことなく、手を伸ばす。おあずけされた犬が食事を許された瞬間のごとく……!
炎に触れる。
刹那。
世界が揺れる。
体の感覚がなくなる。
視界が白に侵されていく。
そして、果て無き夢に落ちる。
◇ ◇ ◇
「畜生、畜生、畜生――!」
見たこのとない青年が走る。
剥き出しのギターを片手に、まるで何かから逃げるように必死で。
青年の後ろを黒い犬が、赤い瞳を輝かせ追う。
犬の速度は速い。青年との距離は瞬くうちに縮まり、そして肉薄する。
犬が青年に飛び掛る。俺の目の前に倒れこんでくる。
「畜生……もう、ここまでか……」
青年が呟く。
犬は彼の背中にのしかかり、醜く涎を滴らせる。
青年は俺の姿を確認すると、微笑み、ギターを差し出してきた。
「このギター、あなたに託します。本当は音楽学校に行って、好きなだけ音楽を学んで、そしてあわよくばメジャーデビューを目指したかったけど……もう、叶
わないから」
気がつくと、俺はギターを手にしていた。重くも軽くもなく、熱くも冷たくもなく、堅くも柔らかくもない、まるで俺のために作られたかのようにジャスト
フィットする。
青年は笑った。とても笑顔と呼べるような顔ではなかった。それでも、青年は確かに笑っていた。そして、その腕に犬の牙が迫り――
◇ ◇ ◇
「おい、ちょっと待てよ――」
しかし、俺の声は大音量の歓声によってかき消された。
歓声? なんだ、どういうことだ?
手には青いギター。目の前にはスポットライト。そして大勢の人間が下から俺に注目していた。下から? そこで俺は気付く、俺が今ステージに立っているこ
とに。
「……どういうことだ?」
呟いた瞬間、後ろでドラムの音が鳴り響いた。演奏が始まったのだ。
「え……お、おい?」
どういうことなんだ。わけがわからない。だが、俺の手はギターの弦を押さえ、コードを刻み始める。俺はコードなんて知らない。コードを覚えようとする前
に止めたからだ。しかし、俺はギターを演奏している。
大勢の人間が俺を見つめる。高まる鼓動。身体の芯から熱くなっていく感覚。脳が痺れてくる。ベースの低音がリズムを刻み、それに合わせて俺はメロディを
かき鳴らす。それは、初めてタバコを吸ったときのような感覚、いや、そんなもの比べ物にならない。
演奏は次第に激しさを増し、会場の熱気は上昇していく。丸い雫のような汗が額から吹き出し、スポットライトに照らされ七色に光る。身体の奥からこみ上げ
てくる衝動。熱い。激しい。気持ちが良い。
それは、曲がサビに到達した瞬間、一気に弾け全身を電流となって駆け巡った。同時に会場全体を包み込んでいた熱情のオーラが大波となってステージに押し
寄せ、未だかつて経験したことのない快感に襲われる。
このとき俺は、気持ち良い、という言葉では到底表せないほどの快感があることを知った。
◇ ◇ ◇
「すげえ、すげえよ!」
「はい、すごいですよ」
「……え」
目の前には、夢売り人。
「……なんだ、夢か」
場所は見慣れたアパートの自分の部屋。だが、そこには何か違和感がある。
「あれ、ここ、俺の部屋だよな?」
「はい、貴方の部屋ですよ」
「こんなに、綺麗だったっけ?」
「何も変わっていませんよ」
「そうか?」
とても信じられない。明らかに先ほどの自分の部屋と変わっている。一言で言うなれば、世界が白くなっていた。
そして、俺の中にあるこの熱い想いは何だ?
ギターをやりたい。無性にギターをやりたかった。必死に練習して、そしてプロのギタリストを目指すんだ。
「お気に召しましたか?」
「……え?」
「それが夢を持つということです。最も、その夢はかなり新鮮で想いの強い、特上の夢ですけれどね」
「そうか……これが夢か……」
生まれ変わったような気分だ。
身体の奥底から噴出したエネルギーが、身体全身を駆け巡っている。抑えきれないパワー。今すぐにでも走り出したい。
「ご購入で、よろしいですか?」
「あ、ああ……うん、買う。買うよ。でも、今俺金が無いんだけど――」
「ご心配なく。お代金は貴方が夢を掴んだ後にいただきますので……」
「え、じゃあ今は払わなくても良いってこと?」
「はい。万が一、夢を叶えられなかったときはお代金を請求することもありませんので、安心してご存分に夢のある人生を満喫してください」
こんなことなら、最初から夢を買っておけばよかったと思う。
何も損することはない。夢一つ買うだけでこんなに世界が輝いて見えるなら、誰だって買うに決まっている。
「それでは、私は失礼させていただきます。その夢は目玉商品でしたから、早速新しい夢を売ってくれる人を探しに行かなければなりませんからね」
「ああ、ありがとう……」
……あれ、何かが引っかかる。
夢を、売ってくれる……?
何処で買う? そういえばさっき新鮮で想いの強い夢って……。
……誰から、買う?
「なあ、夢売り人。最後に一つ訊いて良いかな」
「なんでしょう?」
男は、振り返り、そして笑う。
「この夢って、何処でどうやって仕入れてくるんだ?」
「――本来ならば、企業秘密なんですが、貴方は上客なので……特別に教えましょうか」
そして、歪めていた口を結んだ。
「夢が邪魔になった人、夢が必要なくなった人、夢を持っている理由がなくなった人……ざっと、こんなところですかね」
銀色の髪の影で、瞳が揺れる。
「じゃ、じゃあ……この夢は、誰かが……」
「貴方には関係ない話ですよ。それでは」
「待てよ!」
帰ろうとする男の肩をつかむ。そんなの許せるわけがない。
「――夢、返す」
「……何故ですか、夢を持った瞬間、世界が変わったでしょう。とても素敵な力でしょう。それをどうして今さら手放すことが出来るんですか。夢を持つ前の貴
方には何もない。社会の屑みたいな生活、生ける屍、どこに良いところがあったというのです。そんな生活を続けるんですか」
「違う。この底知れぬ力を持った夢を果たすべき人間は、俺じゃない。一瞬消え去りそうだったが、これは消しちゃいけない。俺は確かに見た、確かに聴いた。
ギターを片手に持った青年は悔しさに覆われた笑顔で最後に言ったんだ」
――仕方ないよ、この腕じゃもう、ギター弾けないから。
「そう言って、あいつは赤く血に濡れた腕を見せた……あの姿を、俺は忘れることなんて出来ない。ああ、素晴らしい夢だった。とてつもなく大きくて輝いた夢
だった。だから、こんな俺にその夢を引き継ぐ資格なんてない」
「では、どうするおつもりですか」
「この夢は返すぜ、夢売り人。元の持ち主のところに返してやってくれ。俺の夢は、俺が見つけ出してやる。今さらかもしれないけれど……もう一度、夢を追っ
てみたいんだ」
「……」
夢売り人は、肩をすくませた。ため息を吐き、そして一言。
「はいはい、仕方ありませんね。この愚か者」
それはとても俺を軽蔑した口調だった。
だがそれでもいい。
扉を開き、一歩外へ。
青い空が、目の前に広がっていた。
◇ ◇ ◇
夢売り人は、彼の出て行った部屋にひとり残された。
手のひらの上には青い炎。それは、返品されたギタリストを目指す青年の夢だった。
今まで夢を返されたことは一度もない。誰もが夢を見た瞬間にそれに魅了され、そして購入していった。だが、彼は違っていた。
夢売り人は、ギュッと夢を握り締め、大事に懐にしまいこんだ。
そして部屋を出ようとしたとき、部屋の片隅に、無造作にギターが転がっていることに気付いた。そこで夢売り人は、彼が少しの期間だけだがギタリストを目
指していたことを思い出す。
手にとって、弦を弾く。
とても懐かしい音がした。
夢売り人は、一度だけ笑うとギターを置く。
袖の端から、白い包帯が一瞬だけ顔を出した。
完
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