自殺衝動

(第一回月弓杯四月月間賞受賞作品)

 1

 学校帰り、西日を受け、僕、高峯清正はムシャクシャした気持ちを抑えつけながら道を歩いた。

 空一杯に広がる赤いペンキ。
 初秋を感じさせる涼しい風は半袖の僕にとって少し寒い。

 橋を渡りながら、真下を流れる川を眺める。
 僕の今現在のムシャクシャした心を、赤く染まった水の流れは癒してくれると思った、が、それが浅はかな考えだと気付くのに時間はかからなかった。
 逆に、期待を裏切られたという絶望感が体全身を襲う。

 ――くそ。

 なんだってんだ、もう。

 こんな感情でいることで、川を眺めることによって、悲劇の主人公のような自分を格好良いと見ているのか?
 そんなの馬鹿げている。

 後ろから追いかけてきた友達が僕の名前を呼んだ。
 僕は心とは正反対の偽りの笑顔でそれに応える。
 だから誰も気付くハズなんて無い、僕の心にある物なんて。
 でも、気付いて欲しい。

 ――バカ。
 隠していたら気付かれるハズなんて無いだろう?
 それでも僕は友達に嘘をつき続ける、自分を偽り、人を騙す。
 友達だって同じだ、僕に本当の事なんて言ってくれていない。
 傷付けたくないから牽制した会話をしているわけで……本当は僕なんていない方が良いと思っているんだろう?

 ――く……。

 なんでこんな事しか考えられないんだよ?
 ふざけるな、そんなワケがないだろう?
 友達に失礼だ、申し訳ない。

 ――やっぱり僕は、死んだ方が良いのかもしれないな。

 そう思った瞬間、僕は橋に手をかけて、そして下の川へ向かって飛び込んでいた。

 2

(おや…?)

 たまたま、何かが起こりそうな気がしてこの道を歩いていたら面白い物を発見した。
 10メートルはあろうか、そんな橋の上から下を流れる川に向かって飛び込んだ(いや、実際には飛び降りているのかも)少年を発見するなんて。
 なんという偶然。いや、そもそも何かが起こりそうな気がしてこの道を歩いていたわけだから必然なのかもしれないが、とにかくとんでもない光景を目にした のだ。

 体の中を流れる血が疼く。
 心臓の鼓動が異常だ。
 体のアドレナリン濃度が増加していく。

 橋の上には取り残された少年の友人達らしき人物が三人、そんなことはどうだっていいんだ。
 彼らは突発的な少年の行動に驚き、何をするべきか行動を見失っている。
 そうこうしているうちにみるみる少年は下流に流されていく。
 少年は助けを呼ぼうともしない、泳ごうともしない、つまり生きようとはしていない。
 それでも人間というものは自然に浮いてしまうのか、すぐには沈まない、いや沈めないらしい。

 少年は苦しんでいる。

 こんな苦しい死が存在するのか?
 助からないとわかっているのなら、助かりたくないと少年が望んでいるのなら早く死なせてやれ。

 だが、少年はあっけなく川岸で釣りをしていた男に救出された。

(やれやれ……おあずけか……)

 俺はため息を付いて黒いコートを羽織り、その場から立ち去った。
 そして、遠くでサイレンの音が聞こえた。

 3

 僕が川に飛び込んだあの日から、一週間が経った。

 あの後、助け出された僕は救急車に乗せられ病院で手当を受けた後、入院することもなく、また怪我もなく家に帰された。
 一時は消防車やらパトカーやらが来て大変な騒ぎだったし、一日休んでその翌日、学校に行った僕をみんながいつもとは違った目で見た。
 放課後職員室には呼び出されるし、親には泣かれるし、本当に散々な一日だった。

 なんで自殺なんて考えたのか、冷静になってみるとおかしく思えた。
 だけど、今、僕の心の中にあるこの気持ちは何だろうか?

 ――自己嫌悪?

 そう、それだ。
 自分が憎くて、卑しく思えて、世界中の何処をさがしてもこんな最低な人間はいないと思う。
 だから友人とは偽りの友情で繋がっている。
 友達は僕といると楽しいだなんて言うけれど嘘に決まっている。
 単に僕を傷つけたくないから嘘を言っている、嘘を言いあっている。
 心の底では、そんなこと思っていないクセに、僕なんていない方が良いと思っているクセに。
 それでも偽りの笑顔を振りまいて、ガラスの友情で結ばれた人間と相手を傷つけないように牽制しながら会話をする。
 ああ、また嘘をついている。
 嘘をついてしまう自分が、そんなことしか考えられない自分が嫌いだ。
 憎い、卑しい、最低だ、生きている価値がない。
 だったら、やっぱり僕なんて死んだ方が友達のためだ、いや世界のためかもしれない。

 だから僕は、こんな月明かりの下、電灯だけに照らされた暗い公園を歩いている。
 今度はちゃんと死ねるように、手にはロープ…なんて半分冗談なんだけど、丁度いい桜の木と、その近くには公園管理のオジさんが片づけ忘れていったのか脚 立が置いてあるから、ここまで道具と環境が揃ったら後には引けない気がしてくる。
 桜の木にロープをかけた。
 そして脚立を登り、ロープの先に作った輪に首をかけようとした…。

「やめとけよ」

 その一言に、僕はビクッと肩を振るわせて、その声の方向を見た。
「首吊りなんて苦しいだけだぜ、人間あっけなく死んじまうようだけど、だからといって簡単に即死できるってワケにはいかないんだよ」
 そこにいた男は、上下共に黒い服で身を包み、まだ秋も始まったばかりだというのにその上に黒いコートを羽織っていた。
 見たところ大学生ほどの若い男のようだが、銀の長い髪と赤い瞳は日本人には到底見えなかった。
「なんだよ、止めようったって無駄だぞ。僕は死ぬ気なんだ」
「あ……? 誰も止めようだなんて思っていねぇよ、死にたい奴は死ね」
 男は首を一回鳴らすと、脚立に乗っているはずの僕を見下すように冷たい口調で言った。
「この世の中には生きたいと思っていても生きられねぇ不幸な奴がいるってのによ……ったく神様もなんでこんな奴に五体を満足に持たしてやっちまったか ね…?  いや、健康だと命の大切さに気付かねぇものなのかね……?」
 ぶつぶつと独り言のように言うが、はっきりと聞こえたその声に僕の心臓は大きく跳ねた。
「お前……いや、あなたは誰?」
「おいおい……人の名前を聞くならばまず自分から名乗れよ。そういうもんだろ?」
「あ…僕の名前は高峯清正です」
「そうか……清正な……」
 すると黒い男は、満月をバックにすると銀の髪をなびかせながら言い放った。

「俺の名はイズライール、天使だ。いや、死を司る天使だから死神かもしれねぇ」
 クククと、冷たい笑みを浮かべるイズライールという名の男。
 コイツ天使とか言っているけど、何を言っているんだ?
「まっ、当然誰も最初は信じないけどよ……で、死ぬんじゃなかったのか?」
「……そうだ、死ぬ。でもなんで止めようとしないんだよ、人が死のうとしているんだぞ?」
「止めたってしょうがないだろ? 死のうとしているんだ、それを勝手に邪魔したら悪いからな」
「そういうものなのか……どうせ僕なんて…」
「ああ、どうせお前なんて俺には関係ねぇよ。だがな、俺も死神という立場上人の死を見守らないわけにはいかない、それに何よりも俺は人が死ぬ瞬間を見るの が一番好きでね……」
「じゃあ、なんでさっき首を吊ろうとした僕にやめろなんて言葉をかけるんだ? 放って置いて遠くから見ていれば良かったじゃないか」
「そういうわけにはいかねぇ、首吊りは数ある自殺の方法で苦しい死に方ワースト5には入る。それでもその方法で死にたいって言うんだったら俺はその勇気を たたえるけどな」
「ふんっ……」
 こんな男の話を聞いていると死ぬ気が失せる。
 早くこの世界とオサラバしたいのに、世界中が僕に死ぬことを望んでいるのに。
「どうした? 首を吊るんじゃなかったのか?」
「うるさいっ……黙れ!」
 イズライールはじっと僕を見ている。
 はっきり言ってこれから自殺しますというムードではない。
「あっち行けよ」
「俺がここで何をしようが関係ないだろ?」
「そういうわけにはいかないよ、死ぬときぐらい一人で死なせろよっ!」

 その時、脚立ががくんと揺れた。
 そしてそのままロープの輪に首をかけたまま、バランスを崩し…。

 ――高峯清正の人生は終わりを告げようと…していた。

 世界がスローモーションになり、目から涙が溢れる。

 なんだよ、天使とかほざきやがって。
 天使だったら真剣に僕を止めてくれよ……!

 だが、ぼふ、と俺の首が締め付けられる前に下から誰かに支えられた。
 そして、そのまま僕の首からロープが外され、僕の体はふわりと地面の芝生に下ろされた。

「危ないところだったねぇ、なんで死のうなんて思ったのかな?」
 呆気にとられたまま、何が起こったのか頭の中で整理する間もなく、ただ呆とした目の前には、白のワンピースを着た女の人が立っていた。

 ……誰なんだよ。

 4

 その女性は、恐ろしいほどイズライールと対照的であった。
 白のワンピースは月光の僅かな光のみで照らされた公園において際だって映えている。
 銀色の長い髪は、さらりとしていて思わず見とれてしまうほど綺麗だ。

「あなたは……誰?」
 とりあえず、状況整理もままならないまま僕はその女性に名前を問うた。
「私はイスラフィル。こう見えても一応天使なのよ。あなたの名前は?」
 ぺこりと礼儀正しく自己紹介をする自称天使。
 もう慣れたけど、イズライールとかイスラフィルとか……なんなんだよ、もう。
 でも間違いなくイズライールよりは天使らしい。

「僕の名前は高峯清正。高校生です」
「ふぅん、清正くんね。よろしく」
 よろしくなんて言われましたけど、一体この状況をどうしたものか。
 イズライールはなんだか気まずそうに顔を背けているし。

 ん?
 イズライールとイスラフィル、名前もそうだが髪の色といい、色々なところが似ている気が……。

「なんでここに来たんだよ姉さん。俺の仕事の邪魔をする気かよ」
 イズライールの一言ですぐに姉弟だということが確認できた。
 なるほど、天使姉弟か。
「イズライール、私たちの仕事は人を幸せにすることでしょ? なのになんで自殺を勧めようとするの?」
「あ? 俺は自殺を勧めようだなんて思っていねえよ。だがな、こうやって自殺を思い立った人間はどんなにそれを止めても最終的にはまた苦しい目に遭って結 局どこかで自殺してしまう。そんな人間は生きていても辛いだけだ。だから俺がここで苦しまないように殺してやろうと思ったんだ」
「殺してやるですって? いつも言っているけど天使が人を殺してどうするの? それが人を幸せにすることなの?」
「ああ、生きるのが辛いならば死が一番の幸せだ」
「あなた、そのうち天使失格にされるわよ」
「その時は堕天でもしてやるさ」
「……あなたには呆れたわ」

 なんだかよくわからないけれど、僕は一体どうしたら良いんだろうか?
 ちょっと置いてけぼりにされている気がして寂しい。

「清正くん? 私にどうして死のうなんて思ったのか……教えてくれないかな?」
 イスラフィルさんは僕の横に来ると顔をのぞき込むように話しかけてきた。
「……それを言っても何も変わらないよ、僕は自殺するんだ」
「見ろ、話しても無駄だって言っているだろ?」
「イズライールは黙ってて!」
 へいへい、とイズライールはしぶしぶ後ろへと下がっていった。
「私は天使だから……清正くんの力になりたいと思うの。ね? 話してくれる?」
「僕の苦しみなんて他人には理解できないよ」
「うん……それはそうかも知れないけど……でも今の清正くんは自分一人で苦しみを抱えちゃっているじゃない。その苦しみをちょっとでも分けてくれたら…清 正く んは楽になれると思うよ?」
「……楽になろうとは思っていないけど」

 イスラフィルさんはじっと僕の目を真剣な眼差しで見つめてくる、はっきり言ってちょっとドキドキする。
 この人ならば、なんとなくだけど――僕の苦しみをわかってくれそうな気がした。

「僕……上手くいかないことばっかりなんだよ」
 気が付いたら、僕は心の扉を少し開いていた。

「僕……こんな性格だからかな、親には常に“駄目人間”だと言われる。だから認めてもらいたくて一生懸命に喜ばれようと勉強するんだけど、どんなに出来る よ うになったって認められない。そのうち勉強するのがばかばかしくなって来ちゃって……この間は成績が下から数えて二十番目に落ちちゃったんだ。そうした ら、 友達も、先生も、親も、みんなみんなお前は駄目人間だ……って……!」
「言ったの?」
「ううん、直接言ってはいない。でも間接的に言うんだ。“お前と競い合っていた俺がバカだった”とか、“やる気がないならやらなくていい”とか……。悔し く …て…でも結果が全てだ。僕は生きる資格なんて無いんだ!」
「……」
「でも、そんなこと自殺しようと思った原因の一つにすぎないよ。一番の原因は……」
 僕は一呼吸おいてから、それからゆっくりと口を開いた。
「失恋したんだ、一ヶ月前に」

 そう、僕は一人の女の子に恋をしていたんだ。
 恋をしてから毎日が充実して、生きているのが本当に楽しくて楽しくて仕方がなかった。
 いつもだったら楽しみにしている日曜日も、彼女と会えないってだけで苦しいだけのものだった。
 僕はすっかり、彼女の瞳に心を奪われたんだ、もっと話したい、もっとお互いを知りたいって、僕の心は彼女一筋だった。

「それなのに――」
 僕は心にたまっていた全てを吐き出すように言った。
「彼女は僕の事なんて、見てくれなかった」
 駄目人間だから、生きる資格なんてない駄目人間だから、彼女は僕のことが嫌いになった。
 そして――彼女は他の男と付き合いだした。
「……だから死のうって…?」
「うん、死ねばこの苦しみからも解放される、それに他の友達のためにもなる、彼女のためにも。そうしたら…ひょっとしたら僕のためにみんな泣いてくれるか もしれないかなぁ…なんて」
「…死んだら暗い寒い世界で独りぼっちだよ? それはもうとっても怖い世界なんだよ? だから死んでも苦しみからは解放されない、むしろ今以上の苦しみが 待ちかまえているんだよ?」
「それでも、今の人生を終わらせられるならそれで良い。こんな僕でも死んだらきっとみんな僕のことを認めてくれるよ…」
「なんで…?」

 イスラフィルさんは、目に涙を浮かべながらまっすぐに僕のことを見つめた。
「なんで簡単に死のうなんて思うの? 今まで言ってきたこと…清正くんの考えていることだけで、真実かどうかもわからないじゃないっ…。世の中にはね、生 きたいと思っても事故や病気で死んじゃう人達もたくさんいるんだよ? そんなの勝手すぎる…」
 そしてイスラフィルさんは泣き出した。
 イズライールと全く同じ事をイスラフィルさんは言った。
「言ったろ、姉さん。何を言っても無駄だってさ。逆に姉さんが傷付いてどうするんだよ、そうやっていつも姉さんは損ばかりしているじゃないか」
「……っ!!!」
 僕のせいで、僕の言葉が彼女を傷つけてしまった。

 ――どうすればいい?

 これが良心なのか、心臓がキリキリと痛んだ。
「イズラ……イール」
 僕は助けを求めるかのように、イズライールを見た。
「やれやれ、どいつもこいつも。結局お前はわがままなだけじゃないか、自分が死ねば認めてもらえるとでも思ってんのか? そうやってみんなに心配かけてど うするんだよ、先週お前が川に飛び込んだときだってな、お前の友達はみんな心配していたんだぜ」
「でも、彼女は心配してくれなかった」
「じゃあ別の事を言うがな、お前さっきから被害妄想の塊みたいじゃねぇか。自分が死ねば相手のためになる? お前はそんなに影響力のある人間なのかよ」
「……今だって僕はイスラフィルさんを傷つけてしまった……ずっと僕の人生はこんな感じだよ。人を傷つけることしかできないんだ。だからこんな男は死んだ 方が 良いんだ」

 イズライールはため息を付いて、それから横に右手を広げた。
「結局、解決方法はこれしかないようだな」
 イズライールが呟くように言った途端、空間が歪み、世界が重く冷たくなっていく。
 月の明かりすらも奪われていき、穴の底にいるような暗闇が周囲を覆っていった。

「出でよ」
 すると、イズライールの右腕に黒い闇が集まっていき、何かの形を形成していっている。
 細く長い棒のようで、片方の棒の先端は大きく曲がって弧を描いた。。

 これは……まるで……。

 まるでもくそもなく、イズライールは何の冗談か、まぎれもない大きな鎌を手にしていた。
「安心しろ、一瞬、そう一瞬で痛みも苦しみもなく葬ってやる」
 イズライールの口調は酷く重くて冷たかった。
 冷たい風に舞った長い前髪が顔を隠すが、その奥でキラリと鋭く瞳が輝くのだけがしっかりと見える。
 寒さのせいだけではなく、背筋が凍り付くような感覚がして全身が震えた。
 これが、死の感覚なのだろうか?

「イズライールっ! ダメっ!」
 イスラフィルさんが叫ぶが、その声を打ち消すかのような轟音と共に、死神の鎌は僕の首元を横一線に薙ぎ払った。
 風が切れる、闇が切れる、そして……音も立てずに命が切れた。

   5

 僕は、宙に浮かびながら白いベッドの上に横たわる僕自身の姿を見下ろしている。
 イズライールの放った一撃は、僕の命を停止させ、言われた通りに痛みも苦しみもなく僕の生命活動を止めた。
 つまり僕は確実に死んだんだ、だからこうして幽体となって僕自身を見ている。
 こうして幽体となった僕は、何にも縛られることなく自由気ままにあちらこちらへ飛んでいける。
 だから、病院の一室でこうやって漂っているワケなのだが、死んでから丸一日経った今日でも友達は誰一人として僕に会いには来ない。

 当たり前だ、どうせその程度の繋がりしかなかったのだから。
 酷く悲しい感情と、締め付けるような痛みが胸の中一杯に広まって覆っていく。
 わかっていたさ、来るハズなんて無い。
 だけどそれがとても辛い。
 クラスメイトが死んだんだ、それなのに誰一人として会いに来ないと言うのはどういうことなのか?
 部屋に入ってくるのは父さんか母さんのどちらかだけ、父さんは決まって僕に涙を流しながら罵声を浴びせ、母さんは僕の手を握りながら泣きじゃくる。
 でも、僕が見たかったのはこんなのじゃない。

 学校へ出かけると、校庭では全校生徒が集会によって集まっていた
 その中で校長先生の長いいつものスピーチの後、僅かに一分程度僕のための黙祷が捧げられたが、結局それだけで終わった。
 その直後には、周りの奴とふざけあって笑っている人間もいる。
 そう、どうせ僕一人の命なんてこんなものなんだ。

 テレビを見ていると人が何人事故で死んだとか、怪我をしたとか、そういったニュースが流れるも、決してそれに対して涙を流すと言うことは有り得ないし、 一時間も経てば忘れてしまう。
 所詮、他人の命など一つという数字に過ぎないのだ。

 死んでみてはっきりとした。
 僕は死んで正解だった、僕はこの世界において必要とされていなかったんだ。
 駄目人間と言われ、努力も個性も認められない。
 僕は、生まれながらにして欠陥品だったんだよ。
 この苦しみを、誰かにわかってもらいたかった。
 特に、彼女だけには知ってもらいたかったのに…。

「それがわがままだって言っているんだよ」
 横にはイズライールが立っていて、僕に向かって話しかけている。
「……なんで、僕死んだのに」
「俺は天使だって言ったろ? 幽体に向かって話しかけることだって出来る」
「それはわかったけど……それよりなんなんだ? 死んでも苦しみから解放されないじゃないか! 死ねば何も考えずに済む、永遠の眠りを手に出来るはずだ ろ? それなのに僕は現実の世界にいる、周りからは僕の姿は見えないようだけど、現実は目の前に存在するんだ、これじゃあ生きているのと変わらない!」
「……死ねば永遠の眠りにつける? はっ、誰がそんなこと保証したんだよ。いいか? 現実から逃避した人間はな、罰として死んだ後も現実に縛り付けられ る、お前が普通に人生を全うするまでの間、眠ることも許されずに現実を見続けることしかないんだ」
「嫌だ……僕はこんな死を望んだんじゃない!」
「嫌だも何も……自殺するって事はこう言うことだ。それに――……」

 途端、周りの現実が崩れ始めた。
 映画で場面が切り替わるように、僕は別の場所に転送されていた。
 見覚えがある光景だ、夕焼けの差し込む教室に一人きり、時計をせわしなく見ながら落ちつきなく同じ場所を行ったり来たりしている僕の姿がある。

 ズキン。

 なんだ、なんだか嫌な気がする。
 吐き気がする、苦しい、胸が詰まる、なんだ、この不快な感じは……。
 鼓動が早くなる、早くこの場から逃げ出したいのに、足はその場に固定されたかのように動かない、顔も体も、何も動かせない、目も閉じることが出来ない。
 ガラガラと音を立てて、教室の扉が開いた音がした。
 カメラが動くように、その方向を目が勝手に追う。
 そこには、僕が憧れていた彼女の姿があった。

 ズキン。

 嫌だ、嫌だ、これは見たくない、嫌だ、見たくない、聞きたくない、逃げ出したい、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ――……っ!!!

 ズキン――っ……!

 そこ――目の前には、彼女に告白してフラレた、僕の惨めな姿があった。
 彼女の言葉、聞きたくなかった言葉が、脳の中で何度も繰り返される。

 僕の初恋が、終わった瞬間だった――。

 瞬間、僕はさっきまでイズライールと話していた元の場所に戻ってきた。
 イズライールは僕のことを冷たい目で見つめる。
「イズラ……イール……」
「……一番見たくない光景、心の奥底にしまいこんだ光景を何度も繰り返し見ることとなる」
「嫌だ――」
「未来は閉じ、過去に縛られ、何処にも逃げ出すことも出来ない、変えることも出来ない、自分しか存在しないために助けをも求めることの出来ない、それが自 殺者の……死後の世界だ」
「うあ……」
「苦しいだろう? でも、これはお前が選んだ選択だ」
「嘘だ…僕はお前に殺されたんだっ! 自殺なんかじゃない!」
「……怒りをぶつける対象が間違っている。自殺じゃない? 俺が殺した? ふざけるな、俺はお前が望んでいたことをお前の代わりにやってやったに過ぎな い。姉さんが止めるのも聞かず、死にたいと願い続けたのはお前なんだぞ?」
「く……でも……でも……僕は死ぬ気なんて無かったんだっ! だけど“死んでやる”ぐらいのことを言わないと人から気にされないと思った、もっと心配して もらいたかった、気にかけてもらいたかった、奥底にある僕の本当の姿に気付いてもらいたかったんだ! 僕は駄目人間なんかじゃない、出来ることは少ないけ れど、これでも世界にたった一人しかいない人間なんだ、だからもっともっと……僕のことを認めてもらいたかったんだ!!!」
「……言えるじゃないか、そう言えばいいじゃないか」
「……?」
 イズライールは恐ろしいほど穏やかな声で、僕に向かって微笑みながら言った。

「気付かれなかったのは、隠していたからだ。認めてもらえなかったのはお前が人を認めていないからだ。お前は友達のことを友達と認めていなかった、信じ 切っていなかったんだ、だから誰もお前のことを信じることも認めることも出来なかったんだ」
「あ……」

 脳裏に、いつも偽りの笑顔で接していた自分の姿が浮かんだ。
 僕は、友達を騙し続けていた、だから本当の僕なんて見てもらえるわけなんかない。
 僕は――僕は――――。

「うう……」
 涙声が聞こえる、僕の声じゃない。
 遠くから聞こえるようで近くから聞こえる、暖かい声。
 たくさんの、とても暖かい声。
「見て見ろよ」
 イズライールがぱちんと指を鳴らすと、僕は自分が横たわっている病院のベッド脇に立っていた。
 ベッド前にはたくさんの友人達がいる、皆泣いている、憧れの彼女の姿もある。
「これは偽りの涙か? 違うだろ、みんなお前が死んで悲しいから泣いているんだ」
 みんなの涙がこぼれるたびに、僕の心臓は苦しくなる。
 死んでいるはずなのに、心臓なんて停止しているはずなのに、なんで……。

 激しい後悔の念に襲われる。
 なんで死のうなんて思ったんだろう、死ななければ良かった、苦しくても現実と共に未来を見つめている方が楽しかったことに気付いた。

「生き返りたい……」
「……それが出来たらな、苦労はしないんだよ」
「イズライール……僕、やっぱり生きていたかった、生きている方が楽しかった」
「……そうか、気付くのはちょっと遅すぎたようだがな。死んでみないとわからなかったか」

 イズライールは深いため息を付いて、そして僕をおいて立ち去ろうとした。
「待ってくれよ、イズライール!」
「なんだ?」
「イズライール、君は天使なんでしょ? お願いだ、僕を生き返らせて。もう死のうなんて考えないから……」
 イズライールは黙ったまま、僕に背を見せている。
 長い沈黙の後、イズライールは背を向けたまま顔を半分だけこちらに向けて、目を細めながら言った。
「いくら天使でも、出来ないことがあるんだ。一度死んだ人間を生き返らせる? そんなこと無理に決まっているだろう?」
「……」
 胸の中が絶望感とキリリという切ない痛みで一杯になった。
「それに……そんなことが出来るとしても、お前を生き返らせるわけにはいかない」
「なんで……? 僕は猛省している、これからもずっとこのことは心に留めておくから……!」
「猛省? ――ふーん……そうかそうか……」
 イズライールは、コートを翻しながら勢いよくこっちを振り向くと、今までで一番恐い表情で僕を見た。
「ふざけるなっ!!! お前は一体どれだけの人間に心配かけていると思っているんだ!? わがままもいい加減にしろ! 猛省しているんだったら、まず人に 心配かけた事を申し訳なく思え! お前は一つ、もの凄く重要なことを忘れているんだ!」

 イズライールは一呼吸で怒鳴ると、再び目を細めて僕を見つめている。
 今の言葉で、僕の頭の中で何かが切れた、忘れ去っていたこと、考えてもみなかったもの凄く重要なこと、それは――。

「考えろ、答えを出して見ろ」

 頭の中を、色々な考えが駆けめぐるが、答えはなかなか出ない。
――が、一瞬だけピンと脳裏に流れ星の如く浮かんで消えたものがあった。
 それは、太陽よりも暖かくてダイアモンドなんかよりもずっと大切なもの、そして決して忘れてはならないもの。

「……イズライール」
「……答えが出たのか?」
「ああ、忘れていた重要なことを思い出した。もしこれが常に頭の片隅にでも残っていたら……僕は自殺なんて考えもしなかったと思う。当たり前のような存在 だけど当たり前じゃない」
「……言って見ろ」
「答えは――」

 6

 天高く馬こゆる秋晴れの空の下。
 
 僕、高峯清正は一歩一歩を大事に踏みしめるように道を歩いている。
 隣には何人ものの友達の姿がある、僕も友達も、お互いに屈託のない笑顔で話しながら歩いている、そこには以前のように牽制しあっている状況なんて何処に もない、純粋に心から笑っているのだ。

 学校に着くと、真っ先に彼女の姿が目に入った。
 その隣には彼女と付き合っている男子生徒の姿もある。
 彼女のことはまだ好きだけど、今でも付き合いたいとは思うけれど、でも恋ばっかりは仕方がないことだ。
 僕に出来ることは、笑顔で挨拶することだけ。
 それも偽の笑顔ではなく本当の笑顔で。
 目が合って、僕が笑うと、彼女も笑った。

 教室の窓から広がる空には赤トンボ。

 7

「よぉ、どうしたんだ姉さん」

 朝早くから人を幸せにしてやるという天使の仕事で歩き疲れ、ちょっと街の片隅にあった公園のベンチで一休みをしていると、俺の前に姉さんが現れた。
「どうしたんだじゃないでしょイズライール。また仕事をさぼってこんなところで休んでる! まだまだ一日は始まったばっかりだよ!」
「ああ、そうかい……なにせ昨日はほとんど寝ていないんだ」
「のんきね。それよりどういうつもりなの?」
「何の事だ?」
「この間の少年の事よ、天使が人を殺すなんて大問題だわ」
「ああ……」
「ああじゃないわよ! いくらあなたが人の命を自由に操れるからといって殺してから生き返らせるだなんて自然の摂理を完全に無視しているじゃない!」
「そうだな、まっ平気だよ。結果的には少年は生きる気力を取り戻したんだ。結果オーライってね」
「……はぁ……そのうち追放されても知らないからね」
「言ったろ? 俺は堕天する事に畏れなんて無いってね」
「全く……」

 姉さんは、呆れた顔をして、それから再び俺の顔をのぞき込んだ。
「ん……?」
「イズライール、あなたやっぱり死神には向いていないんじゃないかな?」
「何を言い出すんだ」
「だって、とっても優しいもの。なんだかんだ言って、結局はあの少年を幸せにしたかったんじゃない、違う?」
「……」
「普通、死神だったら死人を生き返らせなんてしないわよ。特にあなたの場合は死んだ人の魂を天界に連れて行くのが仕事だし」
「うるさいな……俺はな、嫌だっただけだ」
「何が?」
「何がって……よぉ」

 俺は立ち上がって、姉さんをおいて歩き始めたがしつこく姉さんはつきまとってくる。
 挙げ句、先回りしてねーねーと顔をしたからのぞき込んでくるものだから鬱陶しくて仕方ない。
「ねーねーイズライールっ」
「ああ…もう…うっせーな。いいか? 俺はな――」

 ――育ててもらったことにも感謝しないで、親よりも先だって命を捨ててしまうような奴が世界で一番……大嫌いなんだよ。

 8

 夕方、帰ってきて家の扉を開けると、晩ご飯を作っている音と、美味しい香りが漂ってきた。
 僕は部屋に上がる前に一声かける。

「ただいま、今日もありがとう」

 ――お母さん。

 完