空気の流れが変わった。
ぴくり、と自然に耳が動く。
せっかくの陽気に恵まれた日だ。今日は縁側でのんびりとお茶でも飲みながらネコのアキラと戯れていたかったのだが、それは出来そうにない。
やれやれ、と腰をあげる。
久々の客人だ。招き入れるとしよう。
サトリ
1
玄関の戸を開けると、チャイムに手をかけようとしていた少女と目があった。
彼女は、まだチャイムを押していないのにどうしてわかったのか、と驚きの視線を向けている。
ふむ、着ている服はふもとの街にある高校の制服か。わざわざ平日の朝っぱらからご苦労なことだ。
「あ、あの」
「入りなさい。私に用があって来たのだろう?」
私はどうぞ、と入れようとするが、ショートカットの少女は気が弱いようで、なかなか応じようとはしない。
彼女は私が不機嫌だと思って怖がっているようだ。そりゃあまり機嫌は良くないが、客人をすぐ追い返すような無粋な真似をするつもりはない。
「ほら、いつまでそうしているつもりだ?」
私が先にあがると、おずおずと彼女もついてくる。おじゃましまぁす、と小さい声が、木造の家に微かに響いた。
彼女は靴を脱ぎ、家へとあがる。私がそれをじっと見ていたら、はっ、として靴を揃えはじめた。
失礼だと思われたかな、なんて思っているようだ。アポなしでいきなり訪ねてくる時点で立派に失礼だから気にしなくていいよ。
ああ、なんだか疲れそうだ。
2
応接間の座布団の上に座らせ、お茶の用意をする。
お構いなく、なんて言ってはいるが甘いお菓子を期待しているようだ。ようかんとかケーキを期待していたらすみませんね。
「はい、どうぞ」
お茶と煎餅を机に置く。
「ありがとうございます」
少女はちょこんと首だけを曲げた。ひょっとしてそれはお辞儀のつもりなのか?
お茶請けも少し不満なようだ。文句があるなら食べなくていいから。
しばしの沈黙。
お茶に手はつけない。猫舌らしい。
さらに沈黙。おいおい、訪ねてきたのはそっちだろう。
気まずくなってくるのを感じたみたいで、彼女は意を決したように口を開く。
「あ、あのっ、私、蛍原玲(ほとはられい)といいます。今日は突然おじゃましてすみません」
お、言葉遣いはなかなか礼儀正しい。私もどーもどーもと挨拶をする。
「えと……失礼ですけど、サトリさん、ですよね?」
はあ……またその呼び名か。
大抵ここを訪ねてくる人は、私のことをサトリと呼ぶ。きっと下界では本名ではなく、そっちの名で噂になっているのだろう。
「そうだよ、安心しなさい。見た目が若くてイメージと違ったかも知れないけど、ちゃんと君の求めていたサトリ本人だよ」
少女は玄関のときと同じように、何で考えていることがわかるんだろう、と目を丸くしている。まさかこいつも……。
「君さ、サトリってどういう由来でついたか、わかっていてここに来てる?」
「いえ、わかりません……。私は悩みごとを聞いていただけると聞いて来させていただきました」
やれやれ、やっぱりか。悩みごとがあるなら友人に相談したらいいのに……。悩みごと相談所みたいに噂されるのは非常に面倒だ。それは置いておいて――
「じゃあ君も、私がどういう存在なのか正しく理解しないで訪ねてきたのか……」
「えと……はい」
まあ仕方があるまい。面倒だが説明するとしよう。
「私のサトリという名は、人の考えていることがわかるということから付けられた。……理解していないね、無理もない。だが私とはそういう者だ」
「はあ……」
「わからないかな、そのままの意味だ。君が考えていることが私にはわかるんだ」
少女――玲といったか――は、頭の中で今私が言ったことを整理し、そのまま言いたいことをまとめ始めた。どうやら理解してもらえたようだ。
「あの……」
「私のことはサトリでいい。で、相談ごとがあって来たのだろう? それは口で言ってくれ」
「あ、はいサトリさん」
玲は姿勢を正す。縁側でアキラがみぃと鳴いた。
「あの……今悩んでいるんですけど、私、今対人関係が上手くいっていないんです」
「ふむ」
「仲の良い子からもそうなんですけど、誰からでもウザいって思われているみたいなんです」
玲の頭の中ではかつて二人の少女に言われたことが反芻されている。
大抵こういうときに言う『みんな』とか『誰もが』というのは二、三人程度だ。
「で、どうしてそう思うの」
「それが……この間、『玲ちゃんって最近目立っているね』って言われたんです」
玲は少し目線を下げた。長い睫毛が瞳を覆う。
「そしたら、隣にいた別の友人が、『玲は良いよね、可愛いから目立って。そんなんだからモテるんだよ。私なんて可愛くないからモテない』って言ったんで
す……その時なんか機嫌悪くしていたみたいで……それが私のせいじゃないかって心配なんです」
自慢なのか悩みなのか……褒められたことを素直に喜べばよいのだが、彼女にとっては友人に嫌われたかも知れないということのほうが大きいようだ。
「それで思ったんです。ひょっとしたら最初に言ってきた子も、皮肉で言ったんじゃないかって……」
それでうざったいと思われているかも知れない――か。
ウザいという言葉は、いまや最高クラスの悪口だ。口にしたり、そう思うだけで相手を大いに傷つける。
彼女は友人関係が壊れることに過度の恐怖を覚えている。私の耳は考えていることしか聞こえないので憶測だが、彼女は被害者か加害者か、とにかくイジメに
関わった過去があるように思われる。
もちろん、それは珍しいことではない。今の時代、誰もが被害者になる可能性がある。まあ今回程度の話で友人関係が壊れ、イジメの対象になることはないだ
ろうが。
「だから私、よく考えたら目立ってたな、って思ったんです。髪型も以前まで普通の人と違って二つに分けて結んでいましたし、笑いの沸点が低くて、すぐ笑っ
ちゃうんです」
「ふーん」
なるほど、それでショートカットにしたのか。
「正直な意見、それ過半数の人と同じで面白みがないよ」
「そうですか? 変じゃないと思ってますけど」
そりゃ変じゃないに決まっている。それが変だというならば大半の人間が変だ。
「話題ずれちゃったな、ごめん。なんだっけ、目立っていたってことが問題なんだっけ?」
玲ははい、と小さな声で答える。
目立つのが怖い……これも今の若者には多いことだ。
だから個性を大事にしたい、と言いつつも他人と違うことを恐れる。個性的なアイドルに憧れながら、自分は流行のファッションに身を包む。
そういった矛盾の中で、イジメの被害者とまではいかなくても、嫌われないように、うざったいと思われないように行動するのだ。
「私は思うのだが」
「はい」
「君は友人に対して特に悪いことはしていないと思う」
「いえ、そんなことはないですよ……」
嘘付け、心の中では自分のことをかばってもらいたいがために、わざと謙遜しているのだ。
「そんなことはある。君は悪いことは一つもしていない――と同時に、その友人も悪気があってそんなことを言ったのではないということはわかるね?」
「――はい」
一瞬のためらい。いきなり友人の話になったので思考の切り替えに時間がかかったようだ。
「結局、君も友人と同じだ。自分が可愛くて仕方がない。他人を傷つけるのが怖いのではなく、他人を傷つけるかも知れないということによって自分が傷つくの
が怖いだけだ」
「それはどういう――」
「つまり」
一呼吸置き、次の言葉を紡ぐ。
「独りよがりなんだよ」
「――」
沈黙。
ちょっとショックを受けているようだ。
でも運良いよ、こいつ。私が本気のときはこの程度では済まない。
「私、どうしたら良いんだろうな……」
沈黙を破り、玲が再び呟いた。
無論、独り言ではない。独り言のようにして私に話しかけ、答えを望んでいるのだ。
「どうしたら上手くいくのか、ということに関して一つ言えることは、まず私の所に来る前に友人に心をぶつけることだな。嫌だと思ったことや悩みごとは伝え
ればいい。別にその程度では傷つかない。傷ついたとしてもすぐに修復できるはずだ」
玲は少し言葉の意味を考え、難しいな、と小さなため息をついた。
「サトリさんみたいに、人の考えていることがわかれば上手くいくのかな……」
それにはさすがに私もカチンときた。
「人の考えていることがわからないから面白いんじゃないか。人の考えているということがわかるということはこの上ない苦痛だ。知りたくない本音まで全て頭
に聞こえてくる。下手をすると発狂しかねない。だからこうして山の中でひっそりと暮らしているんだ。軽々しくそんな変なことを望むんじゃない」
玲は、はぁ、とわかったんだかわかっていないんだか良くわからない返事をした。
しかし、心の中にあった不安感はなくなっているようだった。早く帰ろうという気持ちがひしひしと伝わってくるからわかる。
「今日はそろそろおいとまします」
「はいよ」
手ごたえのないやつ……こんな短時間で解決する問題ならば私に尋ねてくるまでもなかっただろうに。
そそくさと立ち上がる玲。だが足がしびれたらしく中腰でよろよろと歩き始めた。その様子がひどく滑稽で、今日一番笑えた。もちろん笑いはしなかったが。
玄関につき、靴を履いて彼女は私に向き直った。そしてやはり首だけぺこりと曲げてありがとうございました、と言う。
「もう二度と来るんじゃないぞ。それから山の上に悩みごと相談室があるという噂が流れていたら訂正しておいてくれ。こうして平穏が乱されるのは敵わない」
「あ、はい。そうしておきますね」
とは言うものの、必ずまた誰かが噂を聞きつけてやって来るだろう。人の口に戸は立てられないのだ。
「……それでは失礼します」
「はい、みんな同じこと悩んでいるってこと、忘れるんじゃないぞ」
手を振って別れを告げる。
玲は丁寧に扉を閉め、家から離れていく。
直後、携帯電話を取り出し、電源を入れているようだ。すぐに通話を始める。
「……あ、うん、葵? 今日ちょっと具合悪くて休んじゃった……うん、明日は行くね……」
……ま、いいけどさ。たまにはこういう一日も。
どっと押し寄せてきた疲れを肩に背負い、縁側へと向かう。アキラは一番日の当たる場所で昼寝をしていた。
3
翌日、私は山を下りてふもとの街へとやってきた。
本当は来たくはなかったのだが、たまにはこうして人の集まる場所に行く必要もあるのだ。
こうして歩いていると道行く若者の声が嫌でも耳に入ってくる。
「昨日カラオケで騒いじゃってごめんねー。みんな引いちゃったでしょ?」(昨日のカラオケで私の歌どうだったのかな、感想聞きたいな)
「俺、やっぱり無理だ……絶対ダメ人間なんだって……」(そんなことないって言ってくれ。頼むから同情してくれ)
「あー本当にあいつウザいよね? うん、私もそう思うよ」(あまり気にならないけど、気分悪くさせると怖いし、話合わせておこう)
街中を大量に飛び交う心と言葉が一致していない二重の言葉。誰もが人の顔色を伺い、心を許しつつも心を衝突させないように今日を過ごしている。
息苦しい世界だが、それでも耐えられないほどではない。これも一つの世界のカタチなのだから。
「とかくに人の世は住みにくい……っと」
ほら、文豪も言っているではないか。いつの時代であっても、人の世とはそういうものなのだろう。
本当のところ、昨日の玲のどうしたらよいのか、という疑問に答える術は今の私にもない。その場その場に応じ、自分で解決していくしかないのだ。
やれやれ、と大きなため息をつきつつ、制服を着た私は、久々に高校の門をくぐった。
完
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