螺旋階段
気が付くと僕は階段を上っていた。
ぐるぐると回りながら、休むことなく上へ上へと歩いている。
階段の両端には手すりも何もなく、下には闇が広がる。
もし、ここから落ちたらどうなってしまうのだろうか、と、そんなことを考えて、僕は恐怖を覚えた。
階段は、ところどころで幅が狭くなり、または段差が大きくなり、酷く歩き辛い。
だが、それでも僕は上り続ける。
「よう、状況はどうだい?」
不意に声をかけられる。
驚いて、声のした方向を見ると、同じように別の螺旋階段を歩く童顔の青年の姿があった。
短い髪をワックスで固めてツンツンに立たせ、耳には銀のピアス、首からはクロスを下げ、わざとボロボロである感じにしたTシャツとジーパンを着ている。
一見、不良とか、そっち系の人かと思ったが、瞳は穏やかで声も澄んでいた。
「あの、何で僕らは階段を上っているのでしょうか」
「ん? 何故そんなことを考えるんだ?」
「は?」
彼は、僕のことを珍しいものであるかのように見た。
「普通考えないぜ、何故階段を上っているのかなんて。目の前に階段があるから上る、それは当たり前のことだろう?」
「はあ……そういえば、当たり前のことであるような気がしてきました」
そのまま僕と青年は、それぞれ螺旋階段を歩き続けることとなった。
青年は、積極的に僕に話しかけてくれる。
僕はあまり話すのが得意ではないため、相槌をうったり、当たり障りのないようなことを言ったりすることしか出来ないが、彼はさも愉快そうに次から次へと
話をしてくれる。
しかし、僕の前にある階段は段差が酷く大きい。
おかげで、息はあがり始め、青年の話を聞くどころではなくなってきた。
それに対し、彼の階段は段差がほとんどなく、楽々上ることが出来るように見えた。
「はあ……あなたの階段は楽そうでいいですね。僕の方は段差がきつくて……」
僕は息切れしながら、彼に話し掛けた。
「……なんだよ、俺だって前まではとても険しい道のりだったんだぞ。まっ、そんなのどうだっていいがな」
「でも、僕の階段はずっと上るのが大変な気がします」
と、僕は下を見た。今まで僕が上ってきた階段が視界に入ってくる。
「おいおい、下を見るなって。そんなことを振り返っても仕方ないだろ」
「ああ、確かにそうですね。では一体どのくらいまで、この調子でいくのでしょうか……」
そして僕は上を見た。
しかし、下からは階段がどうなっているかわからない。
「こら、上も見るな、下も見るな。目の前を見ろ。じゃないとつまずくぞ」
「えっ……あ、すみません」
そして僕らは、黙って階段を歩き続ける。
闇に包まれた空間の中で二人、どこまでも続く階段を。
「そういえば」
ふと、思い付いたことがあって、僕は彼に声をかけた。
「どうしてこんなに広いのに、僕ら二人しかいないのでしょうか」
すると彼は怪訝な顔をして僕を見た。また何か、おかしいことでも言ってしまったのだろうか。
「それはお前が俺しか見ていないからだ。ちゃんと見てみろ、俺らの周りを……」
「え……あ?」
いつからあったのか、隣にはもう一つの螺旋階段があった。
そこでは、赤いワンピースを着た女性がハイヒールをコツコツと鳴らしながら歩いている。
さらにもう一つ、今度は老人。さらに一つ、少女。一つ、中年。一つ、老婆。一つ青年一つ少年一つ赤ん坊一つ熟女一つ一つ一つ一つ一つ……!
そして、空虚の闇に、無数の階段と人が現れた。
声が――老若男女の沢山の声が、この広い空間に響き渡る。
「信じられない……どうしてこんなに……」
「これは、お前が見ていなかった人たちだ」
かなり険しい階段を上ろうともがく者。段差ではなく、スロープを上る者。駆け足で軽やかに上っていく者……様々だ。
僕が見ていなかった人たち……言葉の意味が理解できない。彼らは今現れたのではないのか……?
「あっ」
僕は、人々の中に、螺旋階段の最上部へとまさに辿りつこうとしている老婆を見つけた。
杖をつきながら、一歩一歩、ゆっくりと進んでいる……そして、彼女は最上部に到達した。
直後、その体躯が光に包まれ、無数の小さな光の珠へとなって消えていく。
その老婆の顔には、これ以上のものがあるのか、と言えるような、そんな穏やかな笑顔が浮かんでいた。
「消えた……?」
「ああ、逝ったか」
「え?」
「あの婆さんは、ちゃんと自分の足で歩ききり、ゴールに辿りついたんだ。その魂は報われる。それは、全ての人が目指すべき、最上級の幸福……いや、もはや
幸福という言葉ですら言い表せないほどの、幸福だ」
「それは一体……?」
「わからないのか、俺たちは皆、最上部を目指して歩くということだ」
「最上部を目指す――」
「ああああああっ!!!」
その時、空間中に響き渡るかのような大音声が轟いた。
見れば、一人の男が、自分の身長の三倍はあろうかという段差の前で叫んでいる。
「何でなんだ! 何で俺はこんな辛いことをやらなければならないんだ!」
どう見ても、その段差を超えることは不可能だ。しかも、それが一つではなく、段差を越えた先にはさらに巨大な段差があった。
「畜生、俺は全てを恨む! こんなことなら……もう辞めてやる!」
「あっ」
それは一瞬だった。男は螺旋階段から闇に向かって身を投げた。奇声をあげながら落下していき、暗黒に吸い込まれ、見えなくなっていった。
一旦静まり返った空間も、再び活気を取り戻し、人々は階段を上り始める。
その中でただ一人、僕だけが呆然としていた。
「馬鹿だな」
隣で青年が言う。
「……?」
「飛び降りたって、再び同じ階段を上らないといけないのにな。それがわからないのか……」
「じゃあ、あの人はまた同じことを?」
「ああ、あの段差を乗り越えようとしない限り……な。さあ、お前も立ち止まってないで行くぞ」
「あ、はい」
下は吸い込まれそうなほど深い闇。
彼には、闇の方がましだと思えたのだろうか……それとも、闇の中に希望を求めたのか。
階段を上ることは苦痛なのか?
最上部に到達し、光に包まれたあの老婆の幸せそうな表情が脳裏に浮かぶ。
そこにあったのはどんな感情なのだろうか。達成感? 階段を上りきり、消滅することが? その先にあるものが幸せだという根拠はどこにもない。むしろ、
わからないことが恐怖ではないのか――。
「あ、あれっ?」
気が付いたら、僕の前にも壁のような段差が存在していた。高さはおよそ三メートル、とてもじゃないが上れない。
横を見ると、青年は軽やかに階段を上っている。差はどんどん広がる。置いていかれている。
周りを見ると、誰もが進んでいる、僕だけが歩き出せずにいる。どうしたらいい?
試しに壁に手をかけてみた……無理だ、かける場所がない。それは完全に垂直な壁……!
徐々に、空間を覆う闇が深くなってくる。周囲にいた人々たちはその闇に飲み込まれていき、一人ずつ見えなくなっていく。
そして、孤独のみが周囲を包む。
恐怖――そうか、これがさっきの人の経験していた世界――!
「あ……」
恐れは身を裂く刃となり、傷口から侵入した絶望が、僕の体内を駆け巡る。
「たすけ……」
声にならない叫びは虚空へ消える。凍えるような寒気。どうしたらいい? もう嫌だ! どうやったらこの世界から抜け出せる? 助けてくれ!
そうだ、選択肢は一つあるじゃないか――そう、それは下へと飛び降りること――
「おい!」
「あっ」
青年が、上から息をきらして下りてきて、その童顔に深刻さを浮かべながら僕を呼んだ。
「何やっているんだよ、何故上らないんだ?」
「だって、段差がきつくて――」
「だったら俺を呼べよ!」
彼が叫んだ。
その瞳は、炎が宿っているかのように熱く輝き、真剣な顔付きで僕に向き合っている。
「お前、飛び降りようとしただろ。さっきの人間が飛び降りたときに言ったはずだ、飛び降りたって同じ階段を上りなおすだけだと。いいか、絶対に一人でなん
とかしようとするな。ちゃんと周りには助けてくれる人がいるんだ!」
「え――あっ」
前を見ると、もうそこに壁は存在していなかった。あるのは普通の段差のみだ。
「さ、行こう。もう一人で抱え込むのは無しにしようぜ」
彼は、優しく微笑んだ。
それを見たとき、不思議と、体の奥底から元気が泉のように湧き出るのを感じた。
僕は立ち上がり、再び上り始める。
僕は理解した。
僕が階段を上る意味、それは決してゴールに辿り着くためだけではない。
他の人と触れ合う、壁にぶつかっても乗り越える。それを通し、自分の心を成長させるのだ。
だから、無限に続く螺旋階段を上ることを心から楽しもう。今の僕にはそれが出来るはずだ。
そして、僕らは、今日も人生という名の螺旋階段を上る。
fin.
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