うさぎの魔術師
(ああ……青木くん……)
二階の渡り廊下の角。そこからそろそろと顔を出しながら、向かいにある二年四組の教室の中を伺う少女の姿があった。
ふっくらとした頬を朱色に染め、もじもじと制服のスカートを握り締めている彼女の視線の先には、本を読む色白で端正な顔立ちをした青年の姿がある。
彼女は、自分の動悸がとどまることを知らぬかのように加速しているのを感じていた。いわば、暴走した列車のように。
そう、彼女は青年に恋をしているのだ。だが、未だに一歩を踏み出せずにいる。
(よし行こう! あっ、でもダメ……)
気合を入れては姿を見て臆してしまう。さっきからこれの繰り返しで十五分が経過している。
(神様、天使様、妖精さん……! 私に力を……!)
「呼びましたか?」
「ひゃぁっ!」
少女は悲鳴をあげて跳びあがった。それもそのはずだ。彼女の前には黒いタキシードと赤い蝶ネクタイで着飾った“うさぎ”がいきなり現れ、“日本語を”話
したのだから。
「あ……あなた誰? というか……うさぎが喋った!?」
「おやおや、驚かせてしまいましたね。私は由緒正しいうさぎの魔術師、名をニックと申します」
「ま、魔術師?」
少女はキョロキョロと周囲を見回した。他の生徒が通って彼(?)を見付けてしまうかもしれない。そうしたらパニックになってしまう。
「大丈夫ですよ。私の姿は貴女にしか見えませんから」
そんな少女の思いを知っていてか、ニックは言った。
都合よく、二人の男子生徒が前を通っていったが、目の前の不思議には気付かなかった。
「……そうなの。ところで、なんでいきなり私の前に現れたの?」
「なんで、と言うことはないですよ。貴女――ああ名前を」
「綾楓よ」
「あやね――ふむ、良い名前です。えーっと、綾楓が私を呼んだのではありませんか」
「え、私が?」
「はい。恋に悩む少女が助けを求めたとき、私は現れるのです」
「ああ……じゃああなたは妖精さんなの?」
「まあそんなところです。さて、綾楓は今どういう状況なのですか?」
「あっ……」
綾楓は思い出したのか、顔をボッと赤らめた。
「あのね……あそこにいる人――青木くんっていうんだけど、私、彼のことが……」
「ほう、あの筋肉質の」
「違っ! その横の本を読んでいる人!」
「――が好きと」
突然発せられた“好き”という言葉に、さらに熱くなってしまう綾楓。弱々しく、こくり、と頷いた。
「なるほど。で、綾楓はどうしたいのですか?」
「うん……アタックしたいな……って」
少しずつ言葉を紡ぐ綾楓の初々しい様子に、ニックはほう、と優しく微笑んだ。
「あっ、でも私なんかじゃダメだよね? だって上手くいくはずないし……」
何かを遮るようにぶんぶんと体の前で手を振る綾楓。
「いえいえ、そんなことはないです。綾楓は可愛い。きっと上手くいきますよ」
「ううん、ほら、私空手部だから手とかゴツゴツだし……釣り合わないよ」
綾楓が空手部であることは見た目からニックにもわかっていた。だからさっき筋肉質の男が好きであると思ったのだ。
「それは釣り合わないことの理由にはなりませんよ」
その通りだ。むしろ、強い女性であるということが好評価になる可能性もある。だが、綾楓は短い髪を横に揺らした。
「でも……青木くんは空手みたいに野蛮なことは嫌いだよ。だからきっと私のことも嫌いだと思う……」
「待って下さい! 綾楓は青木くんとやらが好きで告白したいのではないですか?」
綾楓ははっ、と目を丸くした。
「綾楓はどうやら悪い方向へ考えすぎるようですね。本心はどうなんですか?」
綾楓は少し黙り込む。だがすぐに強い眼差しでニックを見た。
「アタックしたい、青木くんに」
「はい、それでいいんです。自分の気持ちに素直になって下さい」
「でもいつも体が動いてくれないの……なんか、体と心が正反対だよぉ……」
その様子を見たニックは、ならば、とどこからともなく出したステッキをくるくると回し、綾楓につきつけた。
「綾楓、私が魔法をかけてあげましょう。今から綾楓は自分がしたいと思うことを正直に言って下さい。その通りに行動できるようになります」
「え、じゃあアタックできるの?」
「はい、綾楓が望めば」
「でも、変じゃないかな。いきなりアタックなんて普通は――」
「恋愛にレシピはありません。自分が思った通りにやればいいのです」
「――うん」
ニックの言葉に綾楓は力強く頷いた。
「私、青木くんにアタックする」
放たれた言葉に偽りはなかった。ニックのステッキがきらりと輝く。
「あれ……体が勝手に?」
綾楓は堂々と教室に向かって歩き出した。
ニックはその様子を見送ると、安心したように胸をなでおろした。
「頑張って下さい……綾楓」
そしてニックは消えた。また次の恋を叶えるために……。
直後、二年四組の教室では、言葉通り、青木に向かって跳び蹴りを喰らわせる綾楓の姿があった。
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