霜月のプリティガール

「ねえ、林堂クン。今の授業でココがわからなかったんだけど教えてくれな い?」
 十一月はじめの快晴の木曜日、数学の授業が終わった後に、クラスメイトの笠原さんがノートを片手に僕の所へとやってきた。
「ん――いいよ」
 笠原さんから話しかけられるのは初めてなので、僕はちょっと内心ビックリしながらも、彼女がわからないという所を教えてあげた。のみこみは早い。彼女は 数学の成績はいつもトップクラスなのだから当然か。
「ありがとう。どうしてもわからなくて……林堂クン教えるのうまいねっ!」
 笠原さんは満面の笑顔で言った。それを見た瞬間、頭の中で稲妻がほとばしった……ような気がした。鼓動は異常に高まり、手足が自分の物とは思えないぐら いに震える。それどころか、僕は五秒ぐらい硬直し、彼女の笑顔に見とれてしまっていたのだ。だから僕は、ああ、と、まぬけな返事しか出来なかった。
 今まで気が付かなかったが、彼女はかなりの美人だ。流れるような黒髪は後ろで二つに分けて結び、僕の両手で収まってしまうような小さな顔に、頬はマシュ マロのように柔らかそうで、その間の小さな桜色の唇はふっくらとしている。だが何よりも、くりっとした丸く大きな眼と、その澄んだ瞳の奥に僕の姿が映って いることが堪らなかった。
「あ、そうだ。ねえ林堂クン、メアド教えてくれない?」
 突如、笠原さんはそんなことを言った。予想外の爆撃に対抗手段は無く、心臓はバンジージャンプでもしたかのように上下に激しく揺れた。
 とりあえず、冷静を保たないといけない、と落ち着いた雰囲気を装い、ちら、と彼女を見る。
 笠原さんはちょっと心配そうな顔つきで、しかし小鳥のように小首をちょこんと横に傾げ、上目遣いで「ダメ?」なんて訊いてくるものだから、いよいよ僕は 心をわしづかみにされたような感覚に捕われてしまった。
「――い、いいよ」
「ホント? うれしいっ! じゃあココに書いて!」
 笠原さんは持っていた数学のノートの端っこを指して言った。
 俺は慌ててシャープペンシルを取り出すと、何度も確認しながらメールアドレスを書きこんだ。
「ありがとう。今度送るからねっ」
 笠原さんは、バイバイっと手を振って自分の席へと戻っていった。
 その後ろ姿を夢見心地で眺めていると、友人の加藤が背中を叩いてきた。
「おい林堂、お前笠原にホレたか?」
「――!」
 心の中を読まれたような気がして、驚きながら振り返った。
「そ……そんなことない……よ」
「ホントか? 声がうわずっているぞ」
「あ……」
 それは、恐らく図星だからだ。彼女に話しかけられて、そして笑顔を見た瞬間に僕の時計は動きを止めた。この痺れるような感覚――これが恋に違いない。
「一目惚れか……友人として忠告しておく。笠原には用心しておけ、アイツには何か裏があるような気がするぞ。さらにアイツに挑んだヤツは数多くいるが、み んな砕け散っている。確かに可愛いことは認めるが、俺にはどうも性格が……」
「でも、メールアドレスを教えてって頼まれちゃったし」
「ん――」
 加藤はそれきり黙り込んでしまった。
 キンコンと授業の開始を告げる鐘が鳴る。
「気を付けろよ、俺は忠告したぞ」
 と、一言残して彼は自分の席に戻って行ったが、僕の耳には入っていなかった。
 次の授業も、その後の授業も、帰り道も、さらには家に帰っても、僕は笠原さんのことを考え、彼女の笑顔を頭に思い浮かべては呆、と物思いに耽るのであっ た。
「メール……まだかな」

 一方、笠原は家に帰ってくるとまずシャワーを浴び、夕飯を食べ、それから部屋に入って鞄を開け、授業の復習をするために数学のノートを取り出して、よう やく隅に書かれたメールアドレスを見つけ、林堂に書いてもらったことを思い出した。
 そして、机の上に置いてあったケータイを取り、アドレス帳に林堂の名前を登録すると、嬉しそうに微笑む。
「やった、これでアドレス帳を“あ行”から“わ行”まで全部埋められた。“ら行”の苗字なんてなかなかいないもんね、林堂クンを逃したら、この先苗字が “ら行”の人とは会えないかもしれないし……あー、ついてるなあ。
 おまけに、嬉しいことに私のことを好きになっちゃったみたいだしー、顔は悪くないんだけど声がイマイチだから……まあ滑り止めの滑り止め辺りのポジショ ンでキープしておこうかな。適当に何回かメールしたらしばらくは使えそうだし、もし使えなくなったらポイすればいいだけだもんね」
 そして笠原は、ケータイに「今日はありがとう♪林堂クンが優しく教えてくれて嬉しかったなあ(*^_^*)」と打ち込んで送信した。
 その後、パタンとケータイを閉じて机に置き、自分はベッドに横たわる。
 ケータイからメールの受信を知らせる、倉木麻衣の「Feel Fine!」が流れたのは、それから間もないことであった。
 笠原はケータイを取って、怪しく微笑む。

「男なんて、軽いものね」

 完