ねじれたリボンは、ほどけない


 一、手紙

 生きるためには、酸素が必要。
 生きるためには、食事が必要。
 生きるためには、あと何が必要?


 朝だ。まず顔を洗った後に、やかんに火をかけ、そしてお湯が沸くまでの時間に玄関へと新聞を取りに行く。安アパートの鉄の扉に小さく空いた新聞受けには 乱雑にチラシが突っ込まれていた。おかげで、昨晩夜遅くまで飲み、記憶が曖昧なままに帰ってきたことを思い出した。
 新聞を引き抜くと、バサバサとチラシが狭い玄関に散らばる。舌打ちしながら、落ちた紙の山をにらみつける。カラフルな文字の羅列がチカチカと、二日酔い による不快感を呼び起こし、神経を逆なでした。
 そんな紙の中に、圧倒的な存在感を放つ白い封筒を見つけた。宛名も差出人も書いていない、当然切手も貼ってない。以前、管理人から夜中に大学の友人と騒 いで怒られたときは、こんな封筒に入っていた手紙で呼び出されたことを思い出す。しかしそれ以降、怒られるようなことはしていないはずだ。
 中身が気になって封を乱暴に切った。つん、と何とも言えない刺激臭が広がる。だが、中に入っていたのは、ただの白い便箋だった。

 あなたを愛しています。

 ……そうして飛び込んできた一行目がそれだった。
「は――」
 やかんが甲高い叫び声をあげるまで、ただ呆然とするしかなかった。


「にが……」
 分量を間違えて入れてしまったらしいコーヒーにクリープを多めに落とし、もう一度手紙を見た。

 あなたを愛しています。

 何度目を通したところで変わらない文字がそこに存在する。この文章シチュエーションから導き出されるのは、この手紙が恋文、すなわちラブレターであると いう答えだろう。だとすれば、当然喜ぶべきだ。何にせよ、好意を抱いてくれている人が存在し、わざわざ筆を走らせ、この部屋の前までやってきて投函してく れたのだから。なんと初々しい! 直接想いを伝えることができず、手紙に託すあたりがいじらしい。
 ……と考えるのが普通の反応だろう。ああ、そうならそうであって欲しい。だが、その文章がワープロのゴシック体ならばどうだろう。こういう手紙は、自筆 で書くのが常識ではないのか?
 脳みそに喝を入れるために、コーヒーを一口。甘ったるいその味に嫌気がさし、マグカップを机に置いた。クリープを入れすぎた。
 問題は書体だけではない。手紙には続きがあった。改行もせず、つらつらと文章が流れている。

 あなたを愛しています。あなたを一目見た瞬間に、運命の人だと確信致 しました。それなのに、今まで連絡を取らなかった私をどうかお許し下さい。しかし、あなたも悪いのです。あなたには私たちの間で張り詰めている赤い糸が見 えないのでしょうか。いいえ、見えているのに見えていない振りをしているだけに違いありませんよね。お会いしたとき、あなたが運命の赤い糸から必死に目を 逸らしていたのを覚えています。その可愛らしい姿は、脳裏に焼き付き、毎晩夢の中に出てきます。そうして夜な夜な想いをあたためている私のことを、あなた はどうして無視するのでしょう。冷たいお方だと憤りを感じることもありました。悔しいと思うこともありました。しかし、最近はあなたが恥ずかしがり屋であ るということに気付きました。それならば仕方がありません。だから、私の方からこうして行動のきっかけを用意することに致しました。ここまでしたのですか ら、あなたも行動を起こしてくれることでしょう。早速明日から私はあなたを待つことに致します。あなたは私のことを見つけ出していただければ良いのです。 運命の二人ですから、出会えばもう何も心配はありません。全て流れるままに事が進むでしょう。明日が素晴らしい日となることを、私は確信しております。  A子

 頭痛が、する。
 この手紙を書いた本人が、まともな思考回路を持っているのか、はたまたおかしいのは自分なのか。これが世間一般では常識的なラブレターなのか。いや、も しかすると新興宗教の誘いというのはこういうものなのかもしれない。新手の出会い系サイトの紹介? 考えれば考えるほどに、頭がこんがらがる。コーヒーを いれなおして、頭を覚醒させる。しかし、何度目を通しても手紙の内容は理解できなかった。
 そうしているうちに、思ったよりも時計の針が進んでいることに気付く。結局手紙は悪戯ということで結論づけて、部屋を出ることにした。学生は勉学に励ま なければならない。
 だが、靴をはきながら、一つの疑問が頭に浮かぶ。
「……A子って、誰?」
 当然、誰も答えなかった。

◇    ◇ ◇

「おはようカズ。相変わらず変な顔しているね」
 開口一番、そんな無礼な言葉を吐き出したのは、小須貝なぎさだった。さすがにそんなことを突然言われて、そのままそうですねなんて返すわけがない。僕の 沽券にも関わる。
「なぎさ、もしかしてまだ酔っている?」
 少し脱色されたロングの髪を後ろで束ねただけの髪型に、メイクはしているのだが、それでも誤魔化しきれていないむくんだ顔は、女としての価値を一時的に 下げている。無理もないだろう。昨晩の飲み会で一番はしゃいでいたのは彼女なのだから。そういう僕も、昨日は彼女に巻き込まれて、寝不足なのだが。
「もう大丈夫。ところで、あなたどこか変だったりしない?」
 やはりこいつは酔っているのではないだろうか。親しき仲にも礼儀ありと言うが、もはやこの質問は礼儀とかそれ以前の問題である。
「ちょっと傷ついたな」
「ああ、うん、ごめん、訊き方が悪かった。昨日のことについてなんだけど、何か身の周りで変なこと無かった?」
 ……昨日のこと? 何故彼女はそんなことを訊いてくるのだろう? 正直なところ、あまりに飲みすぎたせいで記憶がほとんどない。
「変なことと言えば、なぎさがぐでんぐでんに酔っぱらったことぐらいかな」
「カズも結構酔っていたってば」
「おいおい、飲ませたのは誰だ。ハイペースにも程度がある」
「……ふふん、あの程度で酔う方が悪いんだって」
 なかなかとんでもないことを言うものだ。酒には自分なりのペース配分というものがあるはずだ。他人に飲みを強要しておいて、それはないだろうに。
「で、変なことはあったわけ、無かったわけ?」
 なぎさは語気を強める。僕の反応が気に入らないのか、心なしか苛々しているように見える。これ以上お嬢様のご機嫌を損ねてもいけない気がするが、どう対 応したらよいものか、答えに困る。
「さあ。僕も酔っていたから、よく覚えていないな。具体的にどういうことが変だって?」
「ん……」
 急に言葉に詰まるなぎさ。そして、そのまま時間だけが過ぎる。そんな沈黙だけが流れる中、講義の始まりを告げるチャイムの音が鳴る。
「おい、なぎさ?」
「ごめん、変なこと訊いちゃった。それじゃ、またね」
 そうして、なぎさは早々と立ち去った。おかげで腑に落ちない思いだけが心に残ることになった。
「……なんなんだ、一体」
 当然、誰も答えなかった。

 ◇ ◇ ◇

 授業の空き時間に部室の扉を開けると、岡本秋子が本を読んでいた。切り揃えられた黒い前髪から覗く瞳が、ちら、とこっちに向いたが、すぐに興味なさそう に視線を本に落とす。
「おはよう、秋子」
「……」
 笑顔で挨拶を試みるも、華麗にスルーされた。おかげで微妙な空気が流れる。同じ部活のメンバーなのだから、挨拶したら返してくれたっていいものだ。
 しかし、基本的に秋子と話せる人は限られている。というか、存在するのかどうか怪しい。普段から誰とも接することなく、本を読んでいる。その本の内容も 魔術だったり占いだったり、あるいは精神世界だったりと、そういったオカルト趣味に倒錯しているということは明らかであり、近寄りがたい雰囲気をいつも身 にまとっている。それなのに、飲み会などのイベントにはしっかりと参加する。が、やはり誰とも話さず、テーブルの片隅でちびちびと烏龍茶を飲んでいたりす る。ちなみに、昨日の飲み会にもちゃんと参加していた。何が楽しいのだろう。
 つぷ、と買ってきたアイスコーヒーにストローを刺した。パックの側面が膨らむ。秋子を見る。陶磁器のような透明な白い肌と、全身を覆っているレースのつ いた黒い服のコントラストは、やはり他の女の子とは違った雰囲気を演出している。まるで彼女を見ていると別の世界に迷い込んだみたいだ。
「――手紙」
「え?」
 突然、秋子が言葉を発したので、驚いて背筋を伸ばす。危うく、パックを握りしめるところだった。
「みた」
「な、何が」
「だから、手紙」
「はぁ?」
「それじゃ」
「え……ちょっと」
 するとすぐに、秋子は本を閉じて部室を出て行った。ぽつん、と一人、部室内に置き去られることになる。
 秋子が話すことだって珍しいのに、今、若干だがコミュニケーションが成立したのも珍しい。硬直した頭をぽんぽんと叩く。あまりに衝撃的すぎて上手く機能 していない。
 ずず、とアイスコーヒーを飲む。安っぽいその味が、やっと脳細胞を働かせた。
 手紙、と彼女は言っていた。手紙、見た? 彼女はそう言ったのか? 手紙という言葉に、胃がざわざわと騒ぎ出すのを感じる。何故、彼女は手紙のことを 言った?
「……A子……秋子?」
 閉じた扉を見た。扉の向こう側から、彼女の黒い瞳が覗き込んでいるような気がした。鳥肌が立った。

 ◇ ◇ ◇

「昨日はありがとう」
 昼過ぎになってキャンパスを歩いていると、偶然、桜木美和と出会ったので、昨晩のお礼を告げた。
「いいよ、いいよー。あのまま放って家に帰るのも心配だったからねー」
 間延びした声で彼女は言う。彼女も、僕やなぎさと同じ部活に所属する仲間で、昨晩の飲み会にも一緒に参加した。面倒見がよく、朗らかで誰からも愛される 性格の持ち主である。昨晩、飲みすぎで具合が悪くなった僕のことをアパートまで送り届けてくれたのも彼女だ。
「でも、本当は龍司と一緒に帰りたかったんじゃないの? 僕に付き合わせて悪かったね」
「リュージ? だってあいつ、さっさと帰っちゃったじゃない。せっかく楽しいお酒の席なのに、いくらカレシでもそこまでは付き合えないよー」
 そうして彼女は屈託のない笑顔を見せる。その美貌たるや、周りの男友達も一度会っただけで今度紹介しろと言ってくるほど、男心を捕らえて離さないものな のだが、美和には、やはり同じ部活に滝沢龍司という彼氏がいるため、大抵の男はすぐに落胆することになる。僕も正直、初めて会ったときには、彼女の笑顔に 胸を高鳴らせたものだが、今となってはその感情はない。ただ、こうして美人と話すことができているというだけで、自分という存在を学校中の人々に誇示でき るような、そんな優越感に浸ることができる。
「それでも本当に感謝してるよ」
「どういたしましてー。カズくんも元気そうで何よりだよ」
「そこまで元気ってわけでもないんだけどね」
「……?」
 言ってから、しまった、と思った。美和は首をかしげる。今日は先ほどのなぎさとのやり取りや、例の手紙のことがずっと気にかかっていて、心が休める暇が ない。だがそれは美和を巻き込むことでもない。
「カズくん、なんか悩んでいるの?」
「いや、そういうわけじゃないんだ……けれども」
 嘘だった。現に今でも手紙のことを思い出すだけで胸の中で大量の虫が這い回るような、ざわつきを覚える。虫は胸の中だけではなく、全身を駆け巡り、そう して体の感覚を麻痺させる。落ち着け、落ち着くんだ。まだ何も決まったわけじゃないだろう。
「大丈夫? 顔色、悪いよ」
「ん……その、昨日飲みすぎたからさ……ちょっと体調が悪くて」
「なんだ、二日酔いなの?」
「そんな感じ」
「そっか。体は大事にしてね」
 下手な言い訳で何とか誤魔化す。少し冷静になってみれば、特にやましいことをしているわけでもないのだから、焦る必要なんてなかったはずなのだが……や はり、全身を虫が這い回るような不快感だけは拭い去ることができない。
「カズくん?」
「な、なに?」
 美和がちょこんと小首をかしげて、上目遣いで下から覗き込んできた。長い睫が揺れる。
「あのさ、なぎさと今日会ったんだけどね」
 心臓が飛び跳ねる。
「カズくん、手紙のこと、知っているかな?」
「てが……み?」
 全身から汗が噴出した。何故、美和が手紙の事を訊いてくる?
「なんか、なぎさが手紙についてカズくんに訊きたがっていたみたいなんだけど、今日さっき会ったときに話せなかったからって……ちょっと気にしていたみた いだよ」
「なぎさが、僕に、手紙について訊きたがっていたって?」
「うん。ちょっといつもに比べて様子が変だったよ。カズくん、手紙ってなあに?」
 単純な好奇心なのか、それとも真剣なのか、美和の視線が胸の奥を見透かすように僕に突き刺さる。どう答えるのが正解なのだろう。わからない。言い訳も思 いつかず、背筋に氷の柱を詰め込まれたような感覚に襲われる。息が詰まる。呼吸ができない。一体、美和はこの事についてどこまで知っているのだろうか。そ れが判断できなければ、返事はできない。だがしかし、沈黙を突き通すことは逆に余計に怪しまれることになる。即座に反応しなければならないはずなのに…… ああ、彼女の瞳に僕が映っている。思考回路が変調をきたしている。落ち着くんだ僕。魚が水面で口をパクパクさせるように、僕も口を開く。だが、続く言葉が 出てこない。それでも、歯磨き粉をチューブからひねり出すように、強引に言葉を発する。
「知らないな」
「え?」
 そうして発した言葉は、驚くほどに冷静だった。
「ごめん、なぎさが何のつもりで言ったのか、僕にはよくわからないな」
「そうなの?」
 きょとん、とした表情を浮かべる美和。残念そうに眉をひそめる。
「今朝会ったときも、なぎさはちょっと調子がおかしかったからね。今度直接会ったときに、ゆっくりと訊いてみることにするよ。教えてくれてありがとう」
「あ、うん……別に、いいんだけど」
 美和は納得していないような様子だったが、それ以上追及してくることもなかった。そうしてお互いにそれ以上何か話すこともなくなり、多少気まずい雰囲気 になったが、龍司がタイミングよく現れて彼女を連れて行った。龍司が現れた途端に、僕には見せたことのない笑顔を浮かべる美和を見たとき、少しだけ、胸が 痛んだ。
「手紙……か」
 今日は、どうもこの言葉に踊らされてしまっている。この様子を客観的に見ている人がいるならば、僕の姿は滑稽に映っていることだろう。
 帰ろう。
こういう日は、さっさと家に帰るのが一番だ。

 ◇ ◇ ◇

 アパートの重い扉を閉めて部屋へと上がると、開けっ放しにしたままのインスタントコーヒーが目に飛び込んできた。虫とか入っていないだろうか。嫌な予感 がしてビンを手に取り、中を覗き込み、意味があるのかどうかはわからないが臭いをかいだ。大丈夫、特に変わりのないコーヒーの香りがする。
結局、手紙についての情報はほとんど得られなかった。何も進展はない。手紙には『明日が素晴らしい日となることを、私は確信しております』なんてことが書 いてあったが、特に何もなかった以上、気にする理由なんてほとんどないのだろう。しかし、今でも脳裏に焼きついて離れないのは、秋子のあの視線だ。黒いア イシャドウによって強調されたあの瞳ならば、全ての真実を見通しているのかもしれない。いや、もしくはビンゴの可能性も無きにしもあらず……考えすぎだろ うか。そうして視線を移す。玄関前には、今朝落としたチラシが散らばっている。掃除しないと、と思っても、億劫なのは仕方がない。
 だが、その億劫だという気持ちも一気に吹っ飛んだ。慌てて立ち上がり、玄関へと向かう。先ほどは見えなかったが、今投函されたのだろうか、それとも最初 からあったのか。わからない。だがしかし、チラシの山の上には白い封筒、それがただ一つのリアルとして、強大な存在感を放ち、そこに置かれていた。
 手紙を手にとって封を切る。相変わらず、また同じ刺激臭がした。

 こんにちは、それともこんばんは、と言った方がよろしいでしょうか。 本日は残念でした。私にとっても残念極まりない結果です。
 あなたはどうして私を見ないのでしょうか。
 あなたはどうして私を無視するのでしょうか。
 あなたはどうして私を傷つけるのでしょうか。
 あなたはどうして私を苦しめるのでしょうか。
 あなたはどうして私を憎しみの色に染めるのでしょうか。
 私はあなたが必ず私のことを見つけてくれると信じていました。それな のに、あなたは私を探す努力もしませんでした。愛があれば造作もないことを、どうしてあなたはしてくれないのでしょうか。今の気持ちを正直に書きますと、 大変腹立たしく思っています。あなたのその体に刃をつきたてて、迸る真紅を見てみたい、そんな衝動にも襲われます。しかし、それは許されないことです。私 とあなたは永遠に結ばれなければならないのに、一度きりの怒りで全てを台無しにしてしまうのは、あまりに勿体無いと感じます。それ故に、私は耐え忍ぶとい うことを選択いたしました。私はもう、玩具を激しく扱って壊してしまうような子供ではありません。人形ならば首が取れても直せますが、あなたの場合は直す ことができませんから。ここは寛大な心で、あなたに猶予を与えることにします。本日はあなたも勇気が出なかっただけかもしれませんね、そういうところも愛 おしいと思っています。あなたが好きです。部屋の隅に飾っておきたいほどに愛しております。私がここまで愛しているのですから、どうか、明日こそは良い返 事が聞けることを祈っております。A子


 手紙を持つ手が震えた。これは決して悪戯程度で済むような話ではない、と、本能が訴えてくる。アパートの扉は冷たく重くそこにある。だが、その向こう側 に今も誰かが立っていて、そして刃物を持ってニタリ、と笑っているような気がする。全身の産毛が逆立つのを感じた。慌てて、鍵だけではなく、チェーンをか ける。家という存在がこんなに安心できるものだとは知らなかった。寒気がする。カーテンを閉めて、家中の電気をつけた。僅かにカーテンの隙間が開いていた ので、それも見逃さずに閉めた。テレビをつける。芸能人たちのうるさい声が響く。こうして、ようやく安息を手に入れることができた。しかし、根本的解決に は何も至っていない。このままでは明日以降どうなるのかわからない。

――そもそも、A子って誰だ?

 その問いに答えはない。



 二、秋子

 大人と子供。
 男と女。
 空想と現実。
 愛の形は、必ずしも一定ではない。


 朝から気分はブルーだった。昨晩、結局ほとんど寝ていない。あの忌まわしい手紙を一体誰が何のために送ってきたのか、結局答えなんて出るはずがなかっ た。正直なところ、学校行こうなんて気分ではなかったが、家にいたところで何かが変わるはずもない。出席をとる授業もあるため、多少強引に来たのだ。
そうして迎えた昼休み、部室の扉を開くと、美和と秋子が向かい合ってソファに座っていた。
やあ、と声を掛けると、いつものことだが、美和の声だけが返ってきた。
 美和の隣に座り、コンビニで買ってきたおにぎりとアイスコーヒーを机の上に並べる。それを見て、美和が眉をひそめる。
「またコーヒー?」
「これがないと、午後の授業が辛くて」
 とは言ってみるもののどうせコーヒーを飲んでも午後の社会学の授業では船を漕ぐことになるのだが、もはやコーヒーを飲むことが生活の一部となってしまっ ている。恐らく、カフェイン中毒なのだろう。
「秋子ちゃんは、コーヒー好きー?」
 美和が言った。
「……嫌い」
 秋子が返す。
「ミルクやお砂糖入れても飲めない?」
「無理。どんなに上辺を誤魔化そうとしても、本質の部分は何も変わらないもの」
「なるほどねー。じゃあ、紅茶は飲むの?」
「飲む」
「そうかー。私も紅茶の方が好きかなー。レモンティーにして飲むのが好き」
「レモンは邪道」
「そ、そうなの?」
「英国ではレモンなんて入れない」
「そうなんだー……秋子ちゃん、物知りだね」
「別に」
 ……驚いた。確かに美和は面倒見もいいし、まるでお姉さんかお母さんのような雰囲気を持っているけれど、秋子がここまで心を許しているほどの仲とは知ら なかった。秋子とコミュニケーションをとれる人物など皆無だと思っていたので、隣の光景が新鮮に映る。
「仲良いんだね」
 思った通りの感想を口にする。それを聞いて、美和がこっちを見た。
「うん、秋子ちゃんと話していると面白いよ。色々なこと知っているし、話し上手なんだよ」
 ここで話し上手という単語が飛び出してくるのは意外だった。秋子は話し上手という雰囲気から最もかけ離れている。どちらかといえば、美和にこそ当てはま りそうだ。
「……!」
 その時、再び昨日から感じる悪寒が走った。秋子が、見ている。その黒い瞳で、覗き込むように、こちらをうかがっている。瞬きをしていなければ人形と見間 違うかのような、そんな無表情の仮面を張り付けたような様子で、彼女は前に座っていた。
「……なに?」
 声を絞り出す。コーヒーを持つ手が震えた。
「なんか、今日は変」
「な、何が」
「顔色悪い」
「そ、そんなことないよ」
 変な汗が出てきた。
「ううん、昨日から様子がおかしい。普段の調子じゃないと思うわ。上手く表現できないけど、なんだか妙に怯えている感じがする」
……これほどにまで雄弁な秋子を見るのは初めてだった。吸い込まれそうなほどに深い黒の瞳に、自分の顔が映る。なるほど、言い得ている。自分でも情けない と思うような表情がそこにあった。
「秋子ちゃんの言う通りかも……なんか気にしていることでもあるの?」
「う……」
 美和もこちらを見る。逃げ場がない。
「……手紙?」
「……!」
 秋子がその単語を口にした途端、背筋を電流が走った。どっと汗が噴き出す。怖い。なんなんだ、一体どういうことなんだ?
「んー手紙? なになに、どういうことー?」
「私、全部知っている」
 そう言って、秋子がこちらを見た。ぞわ、と、全身の産毛が逆立つような感覚を覚えた。
「ご、ごめん。もう授業に行かないと!」
 無理矢理、適当な言葉を言って、その場から逃げ出すつもりで立ち上がった。その時、手に持っていたコーヒーをあやまって滑らせ、机の上にぶちまける。
「あっ……わ、悪い! 片づけ頼みます!」
 自分がやらかしたことなので悪いとは思いつつも、唖然とした表情を浮かべる二人を残し、部室を飛び出す。とにかく早く、あの空間を抜け出したかった。
 秋子が全部知っている? どういうことだ? いや、そんなこと、考えるまでもない! 全てを知っているということは、つまりそういうことだ。答えを先延 ばしにするな、考えろ、最悪のパターンを! すなわち、秋子が手紙を書いて、家のポストに入れた張本人! A子=秋子……答えは最初の手紙の時点で書いて あった。秋子という人間を知っていれば、すぐにでもわかるようなことだ。だが、これからどうすればいい? 手紙の内容からいって、秋子は正常じゃない。不 用心に秋子に近づけば何をされるかわからない! 考えるんだ、これからやらないといけないことは何か? まずは逃げという一手を打った。その先の行動は何 も考えていない。落ち着くんだ。まずは落ち着いて、それからじっくりと今後のことを考えよう。
 大丈夫。
 そう自分に言い聞かせて、まずは早鐘を打ち続ける鼓動を落ち着かせることに専念することにした。
もう見えない誰かにおびえる必要はないんだ。
 なぜなら、A子はそこにいたのだから。

 ◇ ◇ ◇

 昼過ぎのキャンパスを歩く。何度も自分を落ち着かせようと努力したものの、以前として鼓動は早いままだった。考えまいとしても、手紙のことで頭がいっぱ いだ。いい加減気が滅入ってくるってものだ。
 しかし、この時間もそう長くは続かない。すぐにこの問題は解決するだろう。そう、早ければ今日中にでも……。
「カズ!」
 いきなり聞き慣れた声で名前を呼ばれて、心臓が大きく揺れた。見れば、なぎさが早足でこちらに向かってくるところだった。平常心を持って接するができる ように、深呼吸を一回。うん、それだけで大分落ち着いた。
「やあ、なぎさ。元気にしてる?」
「うん……あ、いや、元気なんだけど、なんだろ、元気じゃないって言うか」
「……何言ってんの?」
「き、気にしないで。別に私は大丈夫だから」
「はぁ」
 なぎさの様子が、昨日に引き続き相変わらず目に見えておかしい。そういえば昨日、美和がなぎさが僕に手紙のことで訊きたいことがあるって言っていたよう な……。
「なぎさ、もしかして、僕に何か言いたいことでもあるのか?」
 彼女が話を切り出しやすいように言う。案の定、僕の言ったことになぎさは反応した。
「えーっと、いや、話したいことはないんだけど」
「本当に? 本当に何もないのか?」
「ん……あ、いや、別に何もないってことはないんだけど……うん、わかった、言うよ」
 ……来た。ついに切り出してきた。あとは、彼女の口から出る言葉で、推測を確信へと変えるだけだ。鼓動が再び、ギアを徐々に上げて加速を始める。さあ、 言ってくれ。真実は、一体何なのかを。
「カズ」
「わあっ!」
 なぎさが素っ頓狂な悲鳴を上げた。それもそのはず、音も立てずに、秋子が僕たちの真横に立っていたのだから。
「あ……秋子」
 くそ。何故、このタイミングで現れる? 秋子はいつもの、しかし怪しげな一体何を考えているのかわからない氷の表情で僕らを見上げている。悪寒がした。
「カズ、今、なぎさに近付いたら駄目よ。それはあなたにとって好ましくない結果になる」
「え……それって?」
 見れば、そこに立っているなぎさの様子は変だった。表情は髪に隠れて見えないが……足が震えていた。
「なぎさ?」
「カズ、ごめん!」
 そう言って、なぎさは横を駆け抜けていった。一体どうしたのか、さっぱり理解できない。
「秋子……一体どういうことだ?」
 その問いに、秋子は答えなかった。ただ、目を細めて、つまらないものでも見るかのように、一度だけこっちを見ただけで、あとはもう二度と振り返ることな く去って行った。
 ……おかしい、どういうことだ。一体何が起こっているのか理解ができない。なぎさも、美和も、そして秋子も、先日から様子がおかしい。一体誰が何を知っ て、一体誰が何を誤解しているのか。
 もしかしたら、全てを誤解しているのは僕自身かもしれない。もし、第三者が僕を見ていたら……その姿は彼らにどう映っているのだろう。
 嫌な予感がした。全身から湧き出る鳥肌が、それを告げていた。

 ◇ ◇ ◇

 それを見るのは、これで三度目だった。
 だからと言って、決して慣れるわけではない。しかし、やっぱり来たという予想通りの結果に、もはや諦めの感情しか残っていなかった。
 恐らく、この封筒の中に書かれていることは、昨日よりもさらに過激な内容となっているだろう。手が震える。しかし、開けないで無視し続けることの方が恐 ろしかった。なぜなら、これを送り届けてきた犯人は、すぐ近くにいるのだから。
 ――びり。
 封筒を開け、中に入っていた白い便箋を取り出す。また、あの刺激臭。香水だろうか。誰の趣味かはわからないが。

 今日は惜しかったですね。もう少しでうまくところだったのに、邪魔が 入るとは思いませんでした。これは私の失態です。運命的な瞬間になるはずだった筋書 きが狂ったことは、非常に遺憾に思っております。悔しさのあまり、我を忘れ、ぬいぐるみを一つ縫合しても間に合わないほどにまで壊してしまいました。彼が 尊い犠牲となってしまって、胸が痛んでおります。同時に、あなたにもご迷惑をおかけしたことを、お詫び申し上げたいと思います。さて、過ぎたことは仕方が ありません。私としましても、出来る限り穏便に進めていきたいと思っています。明日、十一時に部室でお待ちしておりますので、どうかご協力をお願いしま す。A子

 ミルクをたっぷりと多めに入れて、コーヒーを飲む。もはや、何も考えることはできなかった。寒い。この手紙に書いてあることは、もはや異常者の妄言だっ た。怖い。正常の範疇で測れない相手というのが一番怖い。まさに異常としか呼ぶことのできないこの非日常の中で、どれだけ自分を保つことができるだろう か。たった二日のことなのに、随分長い間苦しめられているような感覚だ。だが、今までは姿の見えない存在に脅かされていた……しかし、A子はついに姿を現 した。A子はそこにいる。逃げも隠れもせずに、待っていると言うのだ。戦おう。そして全て明日終わらせるのだ。
怖い。
それでも、何もしないほうがもっと怖い。



 三、決着

 暗い森の中で、一人、歩いていた。
 日の光は当たらず、道は狭い。どこから来てどこへ進めばいいのかもわからない。しかし、それでも歩き続けた。野獣の声が聞こえる。遠くからだろうか、そ れとも近くからだろうか。頭の中でぐわんぐわんと声が鳴り響く。吐き気がする。声から逃げる。進む。足元にご注意、誰かが耳元で囁く。転ぶ。膝から血が出 た。痛い。歩けない。赤い血が流れる。どくどく、どくどく、どくどく。止まらない、血が流れる。手当てをしないと。何も持っていない。森の奥から、金色の 眼がこちらをうかがっている。逃げないと。顔を上げる。小屋があった。立ち上がる。足が痛む。早く歩かないと、獣が襲ってくる。小屋の前までつく。トント ン、トントン、トントン。ノックする。はい。声がする。ドアが開く。優しそうなおばあさんが顔を出す。おいで。中に入る。暖炉の火が暖かい。ぐつぐつ。 スープが美味しい。温かいコーヒーがありがたい。迷子かい。迷子です。泊まっていきなさい。いいえ結構です。泊まればいいのに。おばあさんは秋子の姿に なっていた。足から流れる血が、赤い縄となって手足を縛りつけた。動けない。
「素敵な格好ね」
 白いレースの付いた、黒いワンピース姿の秋子が言った。
「ようこそ、魔女の晩餐へ」
 細長い彫刻のように透き通った白い指を、軽快にパチンと鳴らす。家の壁がすべて取り払われた。周囲には黒い獣が数匹、こちらを囲んでいる。
「可愛いでしょう?」
 秋子が、獣の頭をそっと撫でる。獣は舌を出し、まるで口付けでもするように、そっと彼女の頬を舐めた。
「今夜は御馳走よ」
 秋子が再び指を鳴らす。それに呼応し、獣らが一歩、迫ってくる。
「――!」
 声が出ない。体の自由が効かない。
「暴れないの。みっともないから」
 獣が迫る。吐息が漂ってくる。臭い。血の匂いだ。迫る。生暖かい唾液が滴り落ちる。獣の前足が体を掴む。口腔が大きく開かれた。
「私は魔女だから」
 秋子が歌うように言った。
「あなたは抗えないの」

 ぐしゃり。
 暗転。

 ◇ ◇ ◇

 部室の扉を開けた。相変わらずこの部屋は、晴れているときでも日が当たらず 薄暗い。机の上は雑多に散らかっており、本や食べかけのお菓子が乱雑に放置されていた。
「やあ、秋子」
「……カズ」
 奥のソファに腰掛けていたのは、秋子だった。僕が声をかけると、一瞬だけこちらを見たが、すぐに読んでいた本に目を落とした。
「秋子、どういうことだ? ちゃんと説明してもらいたいんだが」
「別に……言うことなんてないと思うけど」
 秋子はこちらを見ないまま返答する。
「あるだろ」
「ないわ」
 その秋子の態度が腹立たしかった。まるで自分が高い場所にいて、僕を見下しているようだ。
「秋子、僕は怒っているんだよ。言うだけ言って、逃げるなんて卑怯じゃないかい」
 冗談でないことを知らしめるため、一歩前に踏み出す。その時、つんとした刺激臭が鼻孔をついた。
「なんだ、コーヒー臭いな」
「昨日、なぎさがコーヒーをこぼしたからでしょう」
「なんだよ……コーヒーなんて大嫌いだ」

 ◇ ◇ ◇

 今朝も調子は絶不調。悪夢を見たせいで頭痛がひどい。しかし、だからと言って家に閉じこもっているわけにもいかなかった。
学食に行くと、彼氏の龍司と一緒に談笑をしている美和を見つけた。
「やっぱり、この時間ならいると思った」
 買ってきた缶コーヒーをテーブルの上に置き、二人の間に座る。
「どうしたの、なぎさ?」
「相談があるんだけど」

 私は、三通の手紙を見せて、そして昨日まであったことを美和と龍司に話した。少しでも信頼できる人を味方につけておきたかった。
「……こんな大変な目に遭っているのに、なぎさは一人で悩んでいたんだ」
 美和が同情するような、そんな目で私を見た。しかし、今は同情などいらない。必要なのは、協力だ。
「それで昨日、秋子ちゃんが手紙について言ったときにあんなに慌てていたんだね。やっとわかったよ。もっと早く相談してくれればよかったのに」
「ごめん、そんな気分じゃなかった」
 いくら女の子同士とはいえ、美和がA子の候補に挙がっていなかったと言えば嘘になる。しかし、今なら確信を持って彼女がA子でないと言える。A子の正体 は秋子だ。それは間違いない。
「それで、これからなぎさはどうする気?」
「……わからない。こんなこと、やめて欲しいって言いたい。でも、一人じゃ怖くて……」
「そんなことなら大丈夫でしょ。私だっているし、リュージだっているし!」
 龍司はうんうん、と頷いた。やはり話して良かった。一緒に相談に乗ってくれる相手がいるだけで、ここまで心強いとは思わなかった。
「ありがとう。それじゃ早速、秋子に会いに行こう」
 そう言って立ち上がる。しかし、二人は立ち上がらず、疑問符を頭に浮かべたような表情で、私を見た。
「……どうしたの?」
「秋子? なぎさ、何か勘違いしていない?」
「え、え?」
「この手紙、送ったのは秋子じゃなくて――」

 ◇ ◇ ◇

 秋子は依然として、本を読むことをやめない。二人しかいないのに、しかも会話の途中なのに、その行為は失礼極まりない。
「……コーヒー嫌いなんだ」
「ああ、大嫌いだよ。それがどうした?」
「なぎさのことは、好きなのに?」
「別になぎさがコーヒー好きだろうと、僕が――待って、どうして僕がなぎさのことを好きだってことを知っているんだ?」
 手が震えた。頭の中で何本か、理性のネジが外れたような気がした。
「見たから。手紙」
「……っ!」

 ◇ ◇ ◇

 美和と龍司、そして私の三人は部室の扉を勢い良く開けた。
「……カズ! 秋子!」
 見れば、部屋の奥、ソファの前でカズが秋子の胸ぐらを掴んで、今にも手を出そうと右手を振りかぶっていた。
「やめて!」
 叫ぶよりも早く、龍司が机を飛び越えてカズに肉薄していた。咄嗟のことで対応ができないカズは、龍司に突き飛ばされ、したたかに壁に激突した。一方の秋 子は、苦しそうに何度か咳きこんでいたが、特に怪我をすることもなく、無事な様子だった。
「……カズ、どういうこと」
 カズは、肩で息をしつつ、よろめきながら立ち上がる。
「どういうこともこういうことも、何もないさ。それより、なぎさの方こそ僕に言うことがあるんじゃないのか」
「……じゃあ言うけど、手紙を送ったのは、カズ、あなたね」
 カズは目を逸らしたが……しかし観念したのか、こく、と頷いた。
「どうして……」
「どうしてもこうしてもあるかよ……僕はさ、なぎさのことが好きなんだよ。ずっと友達だと思っていたけどさ、女の子として意識し出しちゃったら、もうどう しようもなかったんだ。だから手紙を書いて想いを伝えようとした。それで飲み会の日にポストに投函したんだ……ただそれだけのことだよ」
 頭に一気に血が上った。ただそれだけのこと! この三日間、ずっと私を苦しめ続けたというのに、この男はそんな言葉で茶を濁すのか。開き直りも甚だし い。自分のしたことが理解できていないのか。
「じゃあ、次。どうして秋子に暴力を振るったりしたの」
 自分が暴力を振るいたい気持ちを抑えて、問いかける。
「……仕方ないだろ。こいつ、昨日からなぎさに近づくなとか、上から目線で全てわかりきったようなこと言いやがって……知っている理由を訊いたら、手紙を 見たからと答えやがった」
「そうなの? 秋子」
「中身は見ていない。飲み会の日にカズが持っているのを見ただけ」
「それで、手紙を『見た』って言ったわけ?」
「そう」
 なんという誤解。しかし、私も同様の誤解をして、そこから秋子を疑ってしまって……カズのことを言う資格がないかもしれない。
「それでも……普通そういうことは隠しておきたいだろう? なんだよ、人のプライベートにズカズカ入り込んできやがって……!」
「私、カズくんがなぎさのことを好きだってこと、前から知っていたけど?」
 美和が、あっけらかんとした表情で言った。
「だって、わかりやすいんだもの」
 ついでにとどめも刺した。
「は――」
 ちなみに当事者である私は、そんなこと全く知らなかったし気付かなかった。
「なんだよ……それじゃ、僕がまるで馬鹿みたいじゃないか」
 カズが、うなだれながら言った。その姿は確かに馬鹿で、惨めで、そして愚かだった。
「……なぎさ」
「な、なに」
 カズが顔をあげて私を見た。急に見せる真剣な表情に、一瞬だけ圧倒される。
「こんなことになっちゃったけどさ……僕、君のことが好きだよ」
 ……告白された。
 正直なところ、カズとは仲良くやってきたが……友達以上の感情を抱いたことは無かった。もちろん、男と女というところで線引きをしてしまう瞬間がなかっ たわけではないけれど、それでも性別をこえた友人として接してきたつもりだ。
 しかし、告白された。こんな形で、最高にロマンチックから程遠い場面で。
 こういうとき、なんと言って返したらいいのかわからない。わからないので、ストレートに今の感情をぶつけることにした。
「無理。気持ち悪い」
 カズが、その場に泣き崩れた。見事な男泣きだった。



 四、真実

 話は三日前。なぎさが最初の手紙を読んだ前の晩、カズこと樋口和馬、小須貝なぎさ、岡本秋子、桜木美和、そして滝沢龍司の五人により、のんびりとした飲 み会が行われていた。
 なぎさは酒に強いわけではないが、ハイペースにカシスオレンジを飲み続け、また、それに和馬も付き合わされていた。美和と龍司はほどほどに酒をたしな み、秋子はちびちびと烏龍茶を飲む。こういった風景は、このメンバーの飲み会では日常茶飯事だった。
 おかげで、なぎさは早々に酔い潰れ、周囲の目も気にせずに横になって寝てしまう。一方で和馬は、相当に酔いながらもまだ意識を保ち、やれやれ、と仕方が なさそうに彼女を介抱していた。
 そして一気に静かになった飲み会の場で、和馬が席を立った時、和馬のカバンが横に倒れ、中身が一部散乱した。その時、秋子、美和、そして龍司の三人は、 表に「なぎさへ」と書かれた封筒を見てしまった。決して覗き見ようと思ったわけではない。ただの不可抗力だった。しかし、以前より三人は和馬がなぎさに好 意を抱いていることは理解していたので、今さら驚くこともなく、カバンに手紙を戻し、見て見ぬふりをしたのだ。
 その後、龍司が家の事情で先に帰ってしまった。こうしたことはよくあるのだが、その日はなぎさが早々に眠ってしまったので、残されたのは和馬、美和、秋 子の三人のみであり、和馬も気分が優れなかったので、そのままお開きになった。
 しかし、なぎさは意識が朦朧としており、そのまま一人で帰すのは危険だと言うことで、和馬と美和は二人でなぎさをアパートまで送り届けることにした。
 なぎさのアパートは居酒屋からそう遠くはない。数十分歩き、二人は彼女を無事に送り届けた。インスタントコーヒーの香りが充満する部屋に入り、美和が ベッドの準備をしている間に、和馬は机の上に持ってきた手紙を置いたのである。そして、二人はそのまま家路についた。
 翌日、和馬は手紙の返事を気にしていた。しかし、なぎさは返事をしてこなかった。当然、気が気でないが、催促もできず、和馬はもどかしい思いを抱えるこ とになった。その中で、美和が言った、なぎさが手紙のことで話したがっているという言葉だけが救いとなり、ひたすらに返事を待ち続けたのである。
 一方でなぎさは、その手紙の存在に恐怖していた。送り主不明の奇妙な内容に加え、秋子の言葉に過剰に反応してしまい、恐怖心を増大させていた。秋子は、 「手紙は見た?」という軽い気持ちで聞いたのだが、言葉足らずなところと、普段あまり話さないことが災いし、なぎさに誤解を与えることになってしまったの だ。
 むしろ、今回の騒動の第二の被害者は、秋子だった。秋子は全て気付いていた。その上で、なぎさに対して心配をしてみたり、また、和馬に対してはなぎさの 精神状態が良くないので近付かないほうが良いと忠告したのだが、全てが裏目に出てしまい、余計な怒りを買うことになってしまったのである。
つまり、最初の誤解に誤解が重なり、しかも誰も修正する人がいなかったのだ。そのため、なぎさが美和に相談するまで、誰も間違っていることに気がつかな かった。秋子も、違和感を覚えていたのだが、その理由を説明できなかったのである。
 こうして、一通の手紙から始まった騒動は、幕を閉じたのである。



 五、終演

「おーい、なぎさっ」
 道を歩いていると、偶然なぎさを見つけたので、後ろから話しかけてみた。あの一連の騒動があってから、なぎさは元気がない。仲の良かったカズくんがあん なことになったのだから、さすがにショックが大きいのだろう。
「美和……私さ、カズのこと、ちょっとだけ好きだったのかもしれないんだ」
 おやおや?
「なんていうのかな……一緒にいると面白くて、楽しくて、幸せだった。でもね、別にそれは恋人関係じゃなくてもいいんだ。一緒に遊べたらそれでいい。つま りさ、友達をこえた親友……多分、そんな感じだったんだと思う。よく、友達以上恋人未満なんて言うけれど、あれって、ポジティブな言葉だと思うんだ。ネガ ティブにとらえる人もいるみたいだけど、私は、その距離間でカズと付き合っていきたかったんだと思う」
「……なぎさは、カズくんを許してあげるの?」
 訊いてみる。手紙の内容は、とても健全な男女関係を望むようなものではなかった。一見表面ではお互いに仲良くしてようであっても、内面ではズレが生じて いた。その事実を、なぎさは受け入れられるのだろうか。
「ゆる……したいけど、さすがに……ちょっと、これは無理かな。上手く話させないと思うし」
 ですよねー。
「あーあ、なんかパーッとしたいなー。美和、カラオケ行こう! 私椎名林檎歌うから!」
「はいはい、今度行こうね」
 言って、なぎさと別れた。なぎさは強い子だ。きっと、すぐに立ち直ることだろう。それまでは、ゆっくり見守ろう。

「あ」
「あ」
 ばったり、カズくんと出会った。お互いに硬直する。
 カズくんは、私の顔を見るなり、気まずそうに顔を逸らした。無理もない。しかし、私に対して気まずく思う理由なんてないはずだ。
「カズくん、元気出してよ。一回フラれただけだよっ」
「はは……美和、そうは言うけどさ……気持ち悪いは、無理だよ」
 そうだろう。気持ち悪いなんて言われてフラれたら、私ならトラウマになる。
「まだまだこれからだよ。きっと、カズくんなら別のいい女の子が見つかるって!」
「自信なくすよ……あのさ、美和。今回の僕、そんなにおかしかった? 映画のチケットを渡したこと……間違っていたかなぁ」
 カズくんは、今話題になっている映画のチケットを一枚ポケットから取り出すと、ひらひらと振った。
「ううん、間違っていなかったと思うよ」
 なんて、都合のいいことを言ってみる。
 実際、カズくんの取った行動は間違っていない。なぎさの家に行って、机の上に映画のチケットが入った封筒を置いて、デートに誘う……なかなかいい演出か もしれない。
 私がその封筒を、回収していなければ。

 ――A子は私だ。

 一連の手紙は私が書いた。
 飲み会の晩、最後に部屋を出た私は、カズくんが見ていない隙にポストから手紙を入れた。次の日、目に見えて雰囲気が変わっているなぎさを遠目に見た後、 私はカズくんになぎさが手紙について話を訊きたがっていると嘘をついた。そうすることによって、カズくんがなぎさの返事をもう少し辛抱強く待つと期待した のだ。
 続いて、二枚目の手紙をポストに入れた。今度の手紙の目的は、なぎさに恐怖心を植え付けることにあった。予想通り、効果はてきめんだった。なぎさは非常 に怯え、目に見えて動揺していた。私はそれで、十分な効果を得られたと確信した。
 そして、三枚目の手紙で、なぎさを部室に向かわせることにした。その時間帯には、いつもカズくんがやってくることを私は知っていた。なぎさも手紙を出し ている人物の正体がカズくんだと気付いているころだと思い、そうしてはち合わせることによって、お互いの誤解と誤解の衝突により、仲互いが発生するだろう と踏んだのである。誤算だったのは、秋子が普段は授業を受けているその時間に部室にいたことと、なぎさが、手紙の送り主を秋子と勘違いしていたことだっ た。確かに、A子と言えば秋子を連想してしまうのも無理はなかった。そこは、私のミスだと言えよう。A子と名乗った理由は、最初からA子の正体をカズくん だと思わせないための工夫だったのだ。
 こんなに回りくどい方法で、なぎさとカズくんを騙し続けた理由は、ただ一つ。私はカズくんのことが好きなのだ。
 正直なところ、私は龍司のことが好きではない。形式的に付き合ってはいるものの、龍司の行動には辟易しており、そこには愛情のかけらも存在していなかっ た。だがしかし、恋人の存在を求め続けているのも事実であり、私は龍司に依存してしまっていた。それでも、自分の思い通りにいかない龍司は私の心を満たし てくれなかったのだ。それよりも、いつも温和で誠実なカズくんと一緒にいられる時間のほうが楽しく、私もそれを求めていた。
 だが、カズくんはなぎさのことが好きだった。それはもう熱愛と呼べるほどにまっすぐな好意で、その間に誰が入ってこようと、彼の眼は常になぎさに向けら れていた。なぎさに対する嫉妬心と羨望、それが私の心を動かした。しかし、いくら私がカズくんを求めても振り向くはずがない。なぎさはカズくんのことを はっきりと好きだと思っているわけではなかったが、些細なきっかけ一つで、心が揺れ動いても不思議ではない関係を構築していた。
 カズくんがなぎさを映画に誘おうとチケットを買うのを見て、私の心はいよいよ痛みを増した。ここで何も手を打たなかったら、間違いなくカズくんは私の手 が届かない場所へと行ってしまう……その焦燥感が私を動かした。そして私は手紙を書き、二人の仲を引き裂く計画を立てたのだ。ずさんな計画だったが、シン プルであったがゆえに上手くいった。
なぎさには悪いことをしたと思っている。色々な人に迷惑をかけたとも自覚している。しかし、悪魔の声は鳴りやまない。ならば、私は私のために、私が思うま まに、私が望むままに行動する。私は私が一番可愛かったのだ。

「ねえカズくん」
「……なに」
「あのさ、その映画、私と見に行かない?」
「美和と?」
「うん、私と二人で。それでさ、そのあとは美味しいご飯を食べに行こうよ。カズくんの傷心パーティなんてどう?」
「はは……いいね」
「うん、決定!」

 彼とデートをしたら、なぎさが彼にそうしたように、いっぱいお酒を飲ませよう。相手は失恋したばかりの男だ、落とすのはそう難しいことではないはずだ。

「美和」
「ん?」
「ありがとう」
「どういたしましてっ」

 獲物は餌に食いついた。

 これであなたも、私のモノ。


 


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