かしましモダン・タイムス


 合図はいつも唐突だ。
 体の中から、歯車の回り始める音がする。
 ギチギチ、ギチギチ、と、古く錆び付いたそれは、ゆっくりと回り、そして、次第に潤滑に回るようになる。
 音がしなくなったら、いよいよ起動。夢というモノクロの世界から、現実というフルカラーの世界へと戻っていく。
 それが、私の目覚めだ。

 ◇ ◇ ◇

 轟音とともに、電車がホームへと滑り込んだ。
 夕暮れ時、部活帰りの高校生たちが、ジャージ姿のまま次々に電車へと乗り込んでいく。その中に、ひときわ目立つ女子三人組の姿があった。
「ねえリエ、なんか最近一年生ウザくね?」
「あーあたしも思った。なんかヤな感じだよねー」
「ちょっと顔がいいからってさーセンパイたちに認めてもらいたいってのがバレバレなんだよねー。いい子ぶっちゃってさー! うちらが一年のときは、もっと 努力して実力でレギュラー目指していたじゃん?」
「ってゆーかさ、一度誰かがガツンと言った方がいいんだよ。センパイとしての威厳見せておかないと、マジで調子乗るって。あ、もう着いちゃった。じゃあ ね、また明日」
「ばいばーい」
「じゃあねー」
「……」
「……」
「ねえリエー、メグってさ、いつも言うばかりで何もしないと思わない? いつも偉そうにしていて、マジ、ムカツクし……」
「うん、そうだね」
「……あ、あいつ、まだこっち見てるよ。なんであの髪型にしたんだろう。はっきり言って似合っていないし。っていうか、ありえないよね。自分の顔を鏡で見 てないのかな」
「さあ? 本人は可愛いと思っているんじゃない?」
「うわ、最悪ー」
「……」
「……ん、じゃあうちも降りるね」
「あ、もうそんなところかー」
「うん、ばいばい」
「ん……あ、電話だ。じゃあね。もしもし……あ、メグ? どうしたの? え、ヨシコが自分のこと悪く言っていなかったかって? う、ううん、言っていない よ別に、平気平気。うん、平気だから、じゃあね……」
 電車は揺れる。
 街は黄昏に染まる。

 ◇ ◇ ◇

 私は、一人が嫌いだ。
 この広く大きな世界の中心で、見えない檻に押しつぶされるような閉塞感。息が詰まるような苦しみに、私は耐えられない。
 孤独からは何も生まれない。孤独の先にあるのは暗い闇だ。誰かと繋がっていないと呼吸が出来ない。そう、私にとっての他人とは、酸素のように生きていく ために不可欠な存在なのだ。
 幸い、この学校では、友人作りのスタートダッシュに乗り遅れることなく、仲良しグループを作ることに成功した。
 一旦グループが出来てしまえば、あとは安心。目立たなければ一人になることなんてない。
 そう、目立たなければいい。日和見主義を貫けばいい。常に中立の立場にいればいい。
 ああ、またメールだ。この頃、家にいるときは携帯電話と見つめあってばかりの気がする。いいかげん……疲れた……。

 ◇ ◇ ◇

 鐘の音と同時に、静寂に包まれていた学校は一気に活気付く。
 廊下は生徒であふれ、それぞれが学食や購買部を目指す。
 そんな中、教室では机を並べて、弁当を開く生徒たちの姿が見られた。
「ねえリエ、タカハタのやつ、またこっち見てるよ?」
「あ、本当だ……いつも見てるよね」
「私らの中に、気になるやつでもいるんじゃねーの? ヨシコとか、気に入られているんじゃない?」
「勘弁してよ、マジ最悪だし。あの男キモイんだよ。それに、まだうちだって決まったわけじゃないでしょ。リエとか狙われているんじゃね?」
「や、やめてよ。そんなことないって」
「いやーリエ可愛いからねー。案外わからないんじゃね? 私も絶対勘弁だけどね! キモイし、根暗だし! リエはどう思う?」
「……え、そうだねー暗くてヤだよね」
「だよね! あんな男が好きだってやつがいたら、うちは同性として軽蔑するね!」
「誰か言ってやればいいんだよ。髪を切ってヒゲを剃れってさ。あと、こっち見んなってね」
「そ、そうだね……誰か言えば良いのにね……」
 最頂点まで昇りきった日の光が、窓から差し込む。
 穏やかな昼下がり、日常の風景。

 ◇ ◇ ◇

 私は、嘘つきだ。
 でも、その言葉は不適当かもしれない。だって、嘘って言葉は悪意を持って人を騙すときに使うから。私は誰かを陥れようとしているわけじゃない。
 それでも、それを言うたびに胸がズキリと痛む。痛みは体から発せられる緊急信号。私は、体に良くないことをしている。だから、嘘。悪意はなくても悪意が 込められてしまっているから、そう言える。
 でも、決して誰かを傷つけているわけじゃない。これは、自分が言った言葉が自分を苦しめているだけ。だから、誰も痛くない。私が我慢すれば良いだけの 話。孤独の辛さよりはずっと軽いものだから、ほら、もう大丈夫。
 それでも、まだ少し痛い……。
 ギチギチ、ギチギチ。また音がする……。

 ◇ ◇ ◇

 扉が軋んだ音を立てて開き、大きな鞄を手にした生徒たちが次々に入ってくる。
 暗い更衣室は、熱気と湿気と、そして様々な制汗スプレーの入り乱れた香りで不快感に満ちていた。
「でさ、結局思うんだけど。やっぱりタカハタはリエを狙っていると思うの」
「またその話かよー。ヨシコは本当に好きだね、そういうの」
「いいじゃん楽しいんだし。でさ、リエはどうするよ?」
「どうするって?」
「だからー万が一告白されたらどうするかってこと」
「ってゆーか、ありえなくね? タカハタが告白なんて、そんな甲斐性あるわけないだろ」
「万が一だって、メグはいちいちうるさいな」
「はいはい、悪かったですね」
「で、リエはどう? まあ、答えはわかっているから聞かないでおくけどさ、男って時には狼になるから、ちゃんと返事しないとひどい目に遭っちゃうよ」
「え……どういうこと?」
「だからさ、振るときは全力で振ること! 中途半端は良くないからね。特にタカハタみたいなタイプは危ないんだから、見るからにストーカー予備軍って感 じ?」
「うわヨシコ、それマジウケるんだけど!」
「んー、でも良い子ちゃんのリエには難しいかもね。でも、相手を少しでも思いやったらダメだって。『うちはあなたが大嫌いなの。もう二度とあたしに話しか けないで』ぐらい言ってやんなきゃ!」
「……わかった。じゃあ、もしものときはそうするね」
「うわー、なんかそう言われたときのタカハタの顔見たくなってきちゃった! リエ、告白されるといいね!」
「……うん、でも、あたしはヤだな」
 外からは、ランニングを始めた陸上部員たちの声が聞こえてきた。

 ◇ ◇ ◇

 錆びた歯車の回る音がする。
 体の奥から聴こえていたその音は、頭の中から響いている。
 ギチギチ、ギチギチ。うるさくて仕方がない。
 これは罰なのかな、タカハタくんのことを少しでも悪く言ってしまったことへの。
 胸が苦しい、痛い、痛みが治まらない。
 私が一人我慢すれば良いだけなのに。ちょっと自分を騙すぐらい簡単なのに、タカハタくんのことだけは我慢が出来ない。
 みんなと違うことを言ったら、孤独になってしまうのに、どうして私はみんなと違うことばかり考えてしまうんだろう。
 本当は、一年生の悪口なんて言いたくない。タカハタくんのことも悪く言いたくない。そんな気持ちが、どうしてこみ上げてくるんだろう。
 私は、みんなと一緒にいたい。一緒にいたいから、余計なことは考えたくない。
 ギチギチ、ギチギチ、ギチギチ、ギチギチ……! ああ、うるさいうるさいうるさい……っ!

 ◇ ◇ ◇

「あれ、リエ、何か落としたよ」
 私が下駄箱の戸を開けたとき、中から白い何かがひらりと出てきて、ヨシコの足元に落ちた。
 彼女はそれを拾うと、悪戯をしようとする子どもの目になって、私を見た。
「リエー……ほら、きたよー。ラブレター」
 ヨシコがひらひらとそれを振る。白いそれは、電子メール中心の今では珍しい封筒だった。
 ラブレター、という言葉にメグも反応する。私の心臓が、大きく跳ねた。
「リエ、開けてみようよ……きっとタカハタだよ……本気なんだよー」
 ヨシコが封筒を私に渡す。
 丁寧にハート型のシールが張られた封を切り、中を開けると、そこからは白い便箋が出てきた。
 黒いボールペンのくせ字が、網膜に飛び込んできた瞬間、私の思考は働くことを止めた。

『好きです、付き合ってください。高畠満』

 それは、何よりも素直に私の胸に呼びかける言葉。
 体が宙に浮き、このまま飛んで行ってしまえそうな感覚。
 そうか、私はタカハタくんのことが……。

「げっ、直球かよ……キモーい!」
 だが、メグの言葉で、ふと我に返った。
「うわー……まさかこうくるとはね。わ、メアドまで書いてあるし……マジキモいわ……リエ、返事用のメール打ってあげるからケータイ貸して」
「あ、私もやるぜー。楽しそうだし!」
 二人が迫ってきたとき、私は自動的に携帯電話を渡していた。
 メグとヨシコは、あーだこーだ言いながら、笑顔で汚い言葉を並べていく。
 ギチギチ、と音が響き始めた。世界中の音という音が、そのギチギチによってかき消される。
 部活後の校庭の喧騒も、外を走る車の音も、二人のケタケタという声も、全部全部ひっくるめてシャットダウン。
 ギチギチ、ギチギチ、ギチギチ、ギチギチ……! 割れる、割れる、割れてしまう、頭がおかしくなってしまう! 助けて、助けて誰か、ごめんなさい、許し てください、でも、私が何をしたって言うの? ああ、うるさい、痛い痛いうるさいうるさいうるさい割れる割れるうるさい……!

 ◇ ◇ ◇

 いつもの駅で二人と別れた後、一人の帰り道を歩く。
『――はい、できたよ。送信ボタンは自分で押してね』
 別れる間際に手渡された携帯電話のディスプレイには、汚い言葉の羅列。相手を陥れるだけの意味が込められたメッセージ。
 結局、送信した、と嘘をついて、メールは送信されずに、今も彼女が握る携帯電話の中に残っている。
 もし、送信ボタンを押したら、瞬間、結ばれるはずだった赤い糸は、弾けて切れてしまうだろう。それを思っただけで、彼女の心臓はねじれるような痛みを発 した。
 それでも、彼女の手は送信ボタンに伸びる。
 孤独に怯え、機械仕掛けへと成り果てたその体では、もはやそうすることしか出来なかった。
 震える指先、鳴り響く歯車の音。

 彼女は携帯電話をコンクリートの床に叩きつけ、そして、泣いた。



 完