ハピネス
俺の家は金持ちだ。
親父は相当な資産家で、時代の先読みをしたビジネスが見事に的中。曰く、時代が俺について来た、らしい。
まあ、そんなことはどうだっていい。
自慢じゃないが、俺は、頭がいい。運動神経もいい。学校の成績はオール5以外取ったことがない。いつだって学級委員長をやっている。
でも、そんなこともどうだっていい。
俺は、ほぼ全てのものを持っている。
これからどんな進路を選ぼうとも、人並み以上の結果を残せる才能を持っている。
金だって、これから先、何かやりたいことがあるというのなら好きなだけ出してくれると親父は言っている。
だが――ああ、本当に悔しいことだが、一つだけ――そう、たった一つだけ、俺に欠けているものがある。
それは――
「お帰りなさいませ、トオル様。今日の学校はいかがでしたか?」
俺の世話人“じい”が、俺の顔を見て何やら訊きたがっているが、その質問の意図するところが理解不能だ。
「……別に」
「ほっほっほ、そうですかそうですか。じいは、本日もトオル様が無事に帰っていらしたことが、何よりの幸せにございます」
「――っ」
その単語。
それが一番腹立たしい。
――幸せ? 幸せってなんだよ?
何も言うことなんてない。
無言のまま部屋へと戻り、鞄をベッドに放り投げる。
手元が狂い、革製の鞄は天蓋の柱にぶつかり、絨毯の床に音も立てずに落ちた。
ああ、腹立たしい腹立たしい!
じいはいいヤツだ。小さいころから俺の傍にいて、小さいことから大きいことまで、たくさんの面で手伝ってくれている。だが、その、“幸せ”という単語を
使うのだけは止めてくれといつも言っているだろうに!
そう、俺の欠けている部分、それは、“幸せ”というものが理解できないことだ。
「このままだと、パーフェクトな人間になれないんだよっ!」
「ま、まあ落ち着いて……」
翌日、学校にて、友人のマモルに向かって吼えた。
自分の弱みを見せるなんて一生の不覚だが、幸せが理解できないということは、大人になる前に直さねばならない。
「……大変なんだね、トオルくんも」
「ああ。並大抵の感情は全て理解してきたつもりだ……嬉しいも、悲しいも、悔しいも、切ないも、恥ずかしいも……」
「意外だね、トオルくんにも恥ずかしいことってあったんだ」
「なんでそんなこと思うんだよ?」
マモルの言い方が気に食わないので、威圧的に食ってかかる。マモルの丸顔が少し遠くなった。
「へ、変な意味で言ったんじゃないよ。ほら、トオルくんって何でもパーフェクトにやりこなすじゃない。だから、恥ずかしいと思うことなんてないかなって」
「馬鹿野郎。俺が恥ずかしいと思ったのはな、忘れもしない2002年4月8日、中学校の始業式だ……! 全員が名前を呼ばれるだろう?」
「うん」
「そのとき、あろうことか俺の名前のところで先生が笑ったんだよっ! くそ……そのときに言われた言葉が……くっ」
「……なんて言われたの?」
「俺の苗字は知っているだろ? 軋里だ、軋里ファンドの息子だ」
「それで?」
「俺の名前を続けてキシリトオルってどこかのガムみたいな発音で呼びやがって! そのあと『歯に良さそうな名前ですね』だってよ! 会場内爆笑! あの先
生は一生恨んでやる!」
ああ、あの笑いの渦に包まれたとき、初めて俺はそれが恥ずかしいという感情であることを知ったんだ。
「ああ……なるほど、軋里トオルくんだもんね」
「そうだよ! 軋里の『り』を下げて発音しろってーの! くそう」
「……で、何の話だっけ」
「そうだそうだ! とにかく、幸せってのを理解したいんだ。頭の良い俺だ、きっとすぐに理解できるはずだ」
「うーん……で、僕はどうしたら良いのかな?」
マモルが、頭の上にクエスチョンマークが浮かんだような顔をして見てくる。まったく、少しは考えろよ。
「簡単なことだろ馬鹿野郎。教えてくれればいいんだ。どんなとき、人は幸せになる?」
「えっと……それは僕の場合で良いのかな?」
「お前の場合じゃ駄目だ。万人共通のにしろ」
「そうだなぁ……」
うーん、と、マモルが唸る。
おい、このままだと休み時間が終わってしまうぞ。
「そうだ、食事をしているときが幸せかな」
「食事だと?」
何を言うかと思えば、日々の中で三度も繰り返されるあの単純作業、食事をしているときが楽しいと言ったぞ!?
「うん、幸せだよ。そうだなあ……例えば、大好きな食事を食べるときなんかが、これ以上ないってぐらい幸せかな」
「大好きな……食事……」
そうかっ! それだったのか!
よし、今夜実践だ!
「参考になったマモルっ!」
「う、うん」
家に帰ると、さっそく、じいに今夜の食べたいメニューについて言う。
「夕飯のメニューは松坂牛のハンバーグと北海道産のトウモロコシを使ったコーンスープ、茨城産のニンジングラッセを忘れるな。ライスは新潟産のコシヒカリ
だ。おっと、食器は言うまでもないが、マイセンを使え」
「はい、かしこまりました」
そして、夕飯が並べられた。
いつもと変わらぬ、普通の食事。
真鍮のフォークでハンバーグを口へと運ぶ。うん、いつも通り、ハンバーグの味がする。
真鍮のスプーンでスープをすくう。うん、いつも通り、スープの味だ。
ニンジンのグラッセを食べる。ニンジンの味が口の中に広がる。
普通だ、普通すぎる。
「お口にあいましたでしょうか?」
「……」
おかしい、何も感じない。
何も感じないというこの感情が幸せなのか? そんなはずはあるまい、これは……。
「これはマモルにしてやられたっ!」
「と、トオル様っ!?」
◇ ◇ ◇
「おい、ハンバーグはハンバーグの味しかしなかった! ニンジンはニンジンの味だ! あれのどこが幸せなんだっ!」
「わ……ちょ……どうしたんだよトオルくん」
翌日、マモルに怒りをぶつけてみる。当然だ。
「大好きなものを食べたって幸せなんて感情は湧いてこなかったぞ!」
「ええーっ? 本当に?」
何故か大げさに驚くマモル。この野郎、俺を哀れむような目をしやがって……。
「ああ、あまりにも当たり前であまりにも普通! そもそも腹を満たすこと以外に食事に求めるものなど何もない!」
「そんなはずは……ないんだけどなぁ……僕の場合」
「お前の場合じゃないか! もういい、他の人に訊く!」
「マモルくん!?」
そして、教室の端でいつも眠っている男――テツヤを無理矢理たたき起こす。
こいつなら、マモルよりも話ができる。
「ひゃわ!?」
こいつ……女みたいな声上げやがって……。
「……はっ、ちょうちょが飛んでいる!?」
「飛んでねえ、俺だ、トオルだ」
「ああ……なんだ軋里かー。どうしたんだよ、俺眠いんだけど」
「そんなことはどうだっていいだろ、とにかく俺の質問に答えてくれ」
テツヤは、眉をしかめて眠そうな目をこすっている。
俺が質問しようとしているんだから、もっとハキハキしやがれってんだ……くそ。
「なあ、お前が幸せって感じるときはどんなときだ?」
「……はい?」
テツヤは目を丸くしている。なんだ、俺の質問がおかしかったのか?
そしてしばらく硬直……こいつは長考型だったのか。
「おい、さっさと答えてくれないか」
「い、いや、まさか人の幸せをぶち壊しにしてきたやつに、いきなりどんなときが幸せなのか、と訊かれるとは思ってもいなかったもので」
「なに、俺がいつ幸せをぶち壊しにした」
というか、幸せとは壊れるものだったのか。
これは、ますます理解できないぞ。
「……まあ、いいけどさ……俺の場合の幸せは昼寝をすることだ。これでいいか?」
「昼寝だと? 眠ると幸せなのか」
「ああ、それでかつ、ぶっきらぼうにたたき起こされなければね」
「ふむ、たたき起こされるとアウトなのか。参考になった」
「……これは皮肉だぞ?」
テツヤが何か言っているが、俺は皮肉を言われるようなことをした覚えなんてない。
まあ、所詮は庶民の戯言だと聞き流そう。
昼寝か……帰ったら試してみよう。
そして、家に帰り着く。
「お帰りなさいませ、トオル様。今日の学校はいかがでしたか?」
「――っ! ああ、有意義だったよ」
「左様で……」
じいの言葉は無視だ。毎日毎日同じ事でイライラしているのも、健康に良くなさそうだ。
それよりも昼寝だ。日の昇っているうちから睡眠をとるということに幸せが存在するということは信じ難いが、ひょっとしたら見落としているだけかもしれな
い。
よって、じいに昼寝をする旨を伝え、着替えを持ってきてもらうと、早速着替えてベッドに身体を横たえた。
普段はこんな時間に眠ることなんてないため、なかなか眠ることはできない。
それでも、何回か寝返りを打つと、次第に眠くなってきて、意識はもうろうと……して……。
◇ ◇ ◇
「謀ったなテツヤっ!」
「ひゃわ!」
女々しい声を上げて、テツヤが飛び起きる。
その後、キョロキョロと周囲を見渡し、焦点の合っていない目で俺を見た。
「……はっ、メロス、君は、まっぱだかじゃないか」
「脱いでねえ、俺だ、トオルだ」
「……」
テツヤは、理由は良くわからないが、とにかく不満そうな目をしている。
だが、そんなの関係ない。とにかく言いたいことがある。
「おいテツヤ! 昼寝のどこが幸せなんだ!」
「いや、こういった乱入者がいなければ幸せだぞ」
「嘘だッ!!!」
吼えてみる。テツヤの目が丸く見開かれていた。
「昨日昼寝をしてみたが……結果は最悪だった。起きたときに頭痛はする、喉は渇く、夜は眠れない、挙句の果てに宿題をする時間を失った、と単なる時間の浪
費にすぎなかった! あれが幸せだというのか? いや、広辞苑に載っている幸せの定義とは全てにおいてかけ離れていた!」
「……軋里、お前ってアホなのか?」
あ、この野郎、俺のことをアホと言ったぞ……。
「なんていうのかなー……こう、何も考えないで夢の世界に落ちることができるーとかさ、そういったところが……気持ちよくなかったか?」
「全く」
「うーん……じゃあ、きっと軋里に昼寝は向いてないぞ」
「……くっ、結局のところそれか! もういい、テツヤには訊かぬ!」
「それは良かった……普通に眠らせてくれ」
「というわけでマモル、やっぱりお前の力が必要になった」
「……ワガママなんだね。まあいいけど……昼寝しても幸せがわからなかったんだ」
「その通り。それで、もう一度訊きたいんだ。食事以外に、どんなときが幸せだ?」
マモルの丸顔が横に傾く。角度を変えて見ても同じように見えるのだから、マモルの顔の丸さは尋常ではない。
しかし、こいつは長考だからな……少しじれったい。
そうしていると、鈍く低い、携帯電話のバイブレーション音が、彼のポケットの中から聞こえてきた。
「あ、ごめんね、ちょっとメール」
そうして、マモルは携帯電話を開く。
こちらからディスプレイは見えないが、マモルの表情が、どんどんにやけていくことから、きっと楽しそうなことが書いてあるのだろう。
「マモル、誰からだ?」
「え、えー……あ、あれだよ……あの、サヤコから」
ああ――なるほど。
サヤコというのは、マモルの彼女だ。
マモルとは違って、明るく活発な性格で健康的に肌の焼けた体育会系の女子である。
どうしてこの男がモテるのか理解しがたいが、人間どんな相手に恋愛感情を抱くかわかったものではない。
それにしても、嬉しそうににやけやがって……ちょっと腹が立つ。
「おい」
「ん――あ、ごめんね、トオルくん」
「まったく、俺と話しているんだから俺を見ろ」
「ごめんね……ちょっと今、幸せなことがあったから」
「……なに、幸せ?」
「うん、あのねサヤコが今週末にデート……」
「そんなことはどうだっていい! おい、今幸せって言っただろ!」
「うん――あっ、ごめんねトオルくん!」
何故そこで謝るのかわからないが、これはチャンスだ。
「なあ、どうして幸せなんだ?」
「そりゃあ……自分のことを好きだって言ってくれる人と、一緒にいられるんだよ? これ以上の幸せなんてないと思うけどなあ」
「……お前、昨日は食事が最高だと……」
「ま、まあさ、ほら、とにかくそういうことだよ! あ、でもこれは僕の場合だからね、僕の場合!」
マモルはやたら、僕の場合という言葉を強調している。
昨日怒鳴ったことを、気にしているのだろうか。
いや、それとも俺に彼女がいないことを気にして言っているのだろうか。
前者なら許そう、後者なら……あとで体育館裏だ。
それはともかく、自分のことを好きだと言ってくれる人と一緒にいることが幸せ……か。わからない、どうしてそういう理屈になるんだ?
そんなことを考えながら、廊下を歩く。
幸せを知るということが、こうも難しいことだったとは……。
「あ、あのっ」
「ん?」
不意に、声をかけられる。
見れば、小柄で高い声の女子が俺の横に立っていた。見たことのない生徒……きっと下級生だろう。小さくスペースに収まっている、という表現がピッタリな
様子で、俺のことをその丸く、くりっとした瞳で見つめていた。まるでリスか何かの小動物だ。小さな手で制服の袖をぎゅっと握り締め、胸の前でたたんでい
る。柔らかそうで、ほのかに甘い匂いが漂う髪が、窓から吹いてくる風に揺れていた。
「……で、何の用?」
「あ……えと……軋里……センパイですよね?」
「そうだけど」
彼女は、あ、とその小さな頬を桜色に染めた。
後ろのほう、廊下の柱のところでは、隠れているつもりなのだろうが、隠れているとは言いがたい女子生徒が二人、こっちを見ていた。なんなんだあいつら
は。
「えと……えと……」
一方、目の前にいるリス子ちゃん(仮名)は、これまた小さい桃色の唇を小刻みに震わせるのみで、言葉が後から出てこない。
「……なんか用があって来たんだろ? さっさと言えよ」
「あのっ!」
リス子ちゃん(仮名)の目が、かっと開かれる。おお、まだ目が開いたか。
「あの……私と付き合ってくださいっ!」
風が吹く。
リス子ちゃん(仮名)の顔が、リンゴのように赤くなる。
ああ――これは――
「またか」
「え? また……ぁ?」
俺にこうして告白してくる女子は、はっきり言うと、少なくはなかった。多いときは、一週間に二人以上告白してくることもあった。
だから、正直な話、こういうことには慣れているのである。
そして、この後の切り返しにも慣れている。
ちなみに、今まで女子と付き合ったことは一度もない。愛は人生を狂わせる……そうに違いないからだ。
それに、中には俺が金持ちであることを狙って、付き合いたいと思っているやつもいる。悪いが、俺は騙されない。
しかし、このタイプは断ると泣いちゃうタイプだな……一番断り方に気を遣わないといけない。
……まてよ、さっきマモルが言っていたよな? 自分のことを好きだと言ってくれる人と一緒にいるのが幸せだと――。
よく見れば、リス子ちゃん(仮名)は可愛い。
きっと、モテるタイプだろう。純粋に俺のことを好きだと言ってくれているようだし、ここは……。
「あの……ごめんなさい。気持ちを伝えられたら、それでいいので……」
「いいけど」
「ふぇ?」
いや、そんな驚いた顔をされても困る。
「いや、付き合ってもいいと言ったんだけど」
「ふぇ……ふぇええっ!? ど、どうしよう……成功しちゃった……成功しちゃったよう」
おろおろと短い手を、顔の前で動かすリス子ちゃん(仮名)。
おい、告白してきたのはそっちだろーが。
「あ、あのっ」
そして深呼吸……っぽいことをしてから、俺に向き直った。
「こんな私ですけど……よろしくお願いしますっ」
そして、大きく吸い込んだ息を一気に吐き出すように、彼女は言った。
「――というわけで、リス子ちゃん(仮名)と付き合うことになった」
放課後、マモルに報告してみる。
マモルは、それこそ顔の丸さに負けないぐらいに口と目を丸く開けたまま硬直し、しばらく動かなかった。
「……トオルくんってすごいんだね」
そして、ようやくその一言をひねり出した。その程度のことぐらい、さっさと言えよ。
「これでも天才だからな……で、早速今日一緒に帰ってみようと思う」
「そ……そうなんだ……すごいね……」
何がすごいのだろう。これぐらい当然のことだろうに。
「これで、幸せってことが理解できたらいいんだが」
「え、告白されたとき、幸せじゃなかったの!?」
「なんでだよ。告白されるなんて、普通のことじゃないか」
「トオルくん……それは普通じゃないんだよ……」
マモルがぶつぶつと呟いていると、後ろから肩を叩かれた。
「おい軋里、彼女さんがお待ちかねだぞ」
そこにいたのは、なにが不満なのかわからないが、しかめ面をしたテツヤだった。
くい、と彼が立てた親指の先を見ると、木の穴から顔を出すリスのように、リス子ちゃん(仮名)が扉の後ろからこちらを伺っていた。
「よし、じゃあ一緒に下校するから。じゃな」
ひらひらと手を振って、教室を後にする。
さあ、幸せを理解するべく行くとしよう。
「あの……軋里センパイ?」
帰り道、少し肌寒い風が吹く坂を歩きながら、初めてリス子ちゃん(仮名)が口を開いた。
それまでは、その顔をりんごのように赤く染めていて、何一つ話が成立しなかったのだ。
「なに?」
「いえ……大したことじゃないんですけど……いえ、大したことなんですけど」
なんなんだろう。よくわからないことを言っている。
「こうして一緒に歩くのを……夢見ていました」
「それはそれは」
どりーむずかむとぅるーってやつか。やれやれ、この程度のことを夢にしていたのか……。
「良かったな」
まあ、俺に言えるのはこの程度だろう。
「はい……私、今、すごく幸せです」
「――っ!」
「……? 軋里センパイ? どうかしましたか?」
「い、いや、何でもない」
危ない危ない。
反射的に、その言葉を使うなと叫びたい衝動にかられてしまった。
落ち着け軋里トオル。このリス子ちゃん(仮名)は、俺に幸せというものを教えてくれる存在の可能性があるんだ。
「そうか、幸せなのか」
「はい、幸せです」
……わからない。一体この状況でどんな感情が巻き起こるというのか。
マモルは自分のことを好きだと言ってくれる人と一緒にいたら、それだけで幸せと言っていたが……特にとりわけ変化なんてない。
いつもと違うのは、隣に誰かが歩いているというだけで……。
「あ、私の家こっちです」
十字路で、俺が帰り道のほうへ行こうとしたら、リス子ちゃん(仮名)は、反対のほうを指した。そうか、ここでお別れか。
「それじゃあ」
ぺこり、と小さくおじぎをするリス子ちゃん(仮名)。柔らかな笑顔が、そこにあった。
おう、とこっちも手をあげることにした。そして、お互いに正反対の方向へと歩を進める。
そして、いつものように一人で、いつもの帰路につくのだった……。
◇ ◇ ◇
「わからなかった」
「学校に来るなり、第一声がそれ? ……トオルくん、一緒に帰ったんだよね?」
マモルの丸顔が、授業中にわからない場所を指されて戸惑っているのと同じ表情を浮かべ、俺を見つめる。
「ま、まあ、初日だったもんね。でも、いつもと違ったとか、そんなこと考えたりしなかった?」
「何も。横に人が一人増えただけだった」
これは事実だ。これ以上他に言いようがあるものか。
「トオルくん……ほら、彼女なんだからさ、そういう言い方は良くないと思うな」
「本当のことを言ったまでだ。結局のところ、いてもいなくても何も変わらない。俺のことを想ってくれていることはよくわかった。だが、それが一体俺にとっ
て何になるんだ? さっぱり理解できなかった」
「え……それは……」
マモルが、たじろぐ。
そうだ、マモルが言ったから付き合い始めたんじゃないか。もっと言ってもいいはずだ。
「俺はな、幸せという感情を理解できると思って彼女を作ったんだ。それなのに理解できなかったら、それは単なる時間の浪費じゃないか!」
「そ、そんなこと言ったって……それに、時間の浪費なんて……そんな言い方は……ほら、やっぱり……」
「それ以上言わなくていい。おい、軋里こっち向け」
「――ん?」
後ろから馴れ馴れしい声がしたが、相手を見るためにそっちへと振り返った。
直後、そこに立っていたテツヤの拳が飛んできた。
鈍く、重い衝撃。
咄嗟のことで反応できず、マットに沈むボクサーみたく、無様にタイル張りの床へと倒れこんだ。
「て……」
頭の中で岩が転がっているようだ、ガンガンする……くそっ、舐めた真似しやがって……!
「テツヤっ! てめ……」
拳を作って立ち上がる。
だが、テツヤはすぐに俺の胸倉を掴んでいた。
体格はテツヤのほうが上だ。運動能力で負けているつもりはないが、アドバンテージはやつのほうにある。
だが、これしきで勝ったと思うなよ……。
「軋里、お前、どんだけ偉いんだ?」
「は……?」
だが、次にテツヤが放ったのは、拳ではなく、言葉だった。
「どういう……意味だよ」
何故だ、その言葉に反論できない。
今までかけられたことのない言葉……さっきよりも、重い一撃が、胸を襲った。
「幸せが理解できない……そんなお前の欠陥は、俺たちにとってどうでもいい。だがな、そのことで俺やマモル、そして彼女さん……他人を巻き込むな」
「巻き込んだ? 違う、俺は手伝ってもらっただけだ」
「馬鹿、お前がやっていることは、他人を利用しているだけだ。いわば、他人を道具だと思っているだけに過ぎない。ま、小さい頃から執事がいるような大豪邸
で暮らしていたら、そうなるのも無理はないかもしれないが」
テツヤの言葉が、ボディーブローのように、言葉ごとに響いてくる。
「どういうことだ……?」
「……すぐにわかれとは言わない。だが、これだけ言っておく。彼女さんと別れてやれ、お前がいたら、彼女さんは不幸になるだけだ」
そして、テツヤは手を離した。
首を圧迫していた力が抜けて、通り道を失っていた体内の息が、咳となって吐き出された。
不幸……幸せの対極にあるらしい言葉……。
それもまた、俺が理解できない言葉であり……くそ、他人の説教に影響を受けることなんて、ほとんど無かったというのに……なんで、テツヤの言葉は、こん
なにも胸の中で暴れるんだ?
その日、俺はやはり先に待っていたリス子ちゃん(仮名)と帰路を共にした。
しかし、今度は彼女がいくら話しかけてきても、返す言葉が見つからず、結局、一言も交わらせること無く、十字路で別れるのであった。
家につくと、じいがやはりいつものように話しかけてくる。
いつもだったら苛立つだけの言葉だが、今日は何故か重みが違った。
「なあ、じいはどうして、いつも幸せなんだ?」
そんなわけで、普段だったら訊かないようなことを、俺はじいに訊いていた。
じいは、一瞬だけきょとん、という顔をしたが、、よくぞ訊いてくれましたと言わんばかりに目を輝かせて、そのしわの増えた顔を近づけてきた。
「それはですねトオル様、私がいつも通りにいつものことをできるからです」
「いつも通りにいつものこと?」
しかし、質問の答えは、難解さに難解さを重ねたものだった。意味がわからない。
「それってどういうこと?」
「はい、私はずっとトオル様の世話をしてきました。もちろん、世話をするのは仕事だから、というわけではありません。トオル様が毎日を元気に過ごせる……
それが私にとっての生きがいだからです。ですが、私ももう歳です……いつ迎えが来てもおかしくないのです」
言って、じいは目を細め、天を仰いだ。
「それでも、私は今日も生きている。生きていて、トオル様の世話ができる。それだけではありません。私とて人間です、お腹がなれば、食事をしたくなりま
す。眠くなれば、ベッドに身を預けたくなります。そういった、もはや当たり前となってしまったようなことでも、毎日いつも通りにできる……そんな恵まれた
環境にいられることが、じいの、何よりの幸せなのです」
じいの言葉が、胸の中で何度も何度も反芻される。
俺は、今まで身の回りにあることが当たり前の存在だと思っていた。
だが、じいは、当たり前のことでもいつも通りにできることが、恵まれていると言った。
恵まれている……俺は、恵まれているということに気付いていなかったのだろうか。
毎日家があり、食事があり、ベッドがある……そういったことこそが、全て恵まれているとしたら……?
………………
…………
……
◇ ◇ ◇
その日、俺は放課後リス子ちゃん(仮名)を誘って、少しばかり遠回りして帰ることにした。
少し急な坂を上り、緑色から赤へと変わりつつある木々の間を抜ける。
そうして、坂を上りきったところに広がるのは、一面の青い空と、俺たちの住む街を一望できる展望台。
涼しくて、穏やかな一陣の風が、彼女の髪とスカートを揺らした。
「あの……軋里センパイ?」
おずおずと、彼女は俺の様子を伺う。
「センパイ……綺麗ですね」
俺の唇が、自然と緩む。
不思議な感覚だ。今は、こうして風を受け、秋の匂いを感じられることが、とても愛おしい。
「そうだな」
だから、自然と、そういった言葉が喉の奥から出てくる。
「綺麗だ」
すると、彼女はくす、と口元を緩め、その透き通った瞳に俺の姿を映した。
「……私、センパイが笑っているの、初めて見ました」
「笑っている?」
「はい、センパイはいつも格好良いんですけど……今日のセンパイは笑っていて、いつもよりずっと格好良いです」
「そうか」
彼女の横顔を見る。
柔らかくて暖かい――そんな満開の笑顔が、そこに咲いていた。
「俺、幸せだから」
俺は、気付いた。
この世界で、日々を過ごすことができる、それが何よりの幸せであるということに。
幸せは、こんなに近くに転がっていた。見落としていたのは自分だったんだ。
赤トンボが宙を舞う。
秋の空は、広く広く、俺たちの前に広がる。
俺は、彼女の頭の上に手を乗せると、くしゃ、と髪を撫でた。
fin.
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