電愛
メルアド交換。
そんな言葉がほほを緩ませるような甘酸っぱい恋愛が出来ていたときは幸せだった。
あの頃は、メールアドレスを交換するだけで、大きな一歩を踏み出せたような気がしていたのだ。なんて省エネの幸福感だろう。
スガマリは、いわゆるクラスのアイドルだった。とはいえ、容姿が優れていればちやほやされる時代だ。その大きな瞳と胸さえなければ、彼女もそこまでクラス男子のチョウアイを受けることもなかっただろう。
いや、悲しいかな、男とやらはどこまでいってもオスであるわけで、僕にとっての彼女の記憶も今となっては、二つの揺れる果実、ただそれだけである。それで容姿端麗だなんて勘違いも甚だしい。
されど、さかりのついた犬畜生たるワレワレにとって、スガマリはまさにアコガレの対象であり、愛でる対象でもあり、ある者はご飯を食らうのに利用していただろう。僕もその一人なのだ。嘆かわしい。
そんなスガマリと僕との関係は、メルアドを交換し、何度かデートに誘い、テキトーにあしらわれているうちに卒業という形で強制的に終了していた。以後、一度もメールなどしていない。
学生になって、二度の冬を越えた。スガマリの記憶など、北風小僧に吹かれて霧散していた。その間に三人の彼女と付き合い、別れていた。フラれていた。
そうして今夜はヤケクソという劣情のままに、安酒をコーラで割って飲んでは戻すという所業を繰り返した。言っておくが、こんなの正気の沙汰ではない。何が
悲しゅうてこんなに苦しい目に遭わなければならないのか。便器の水面とにらめっこして、ふと我に返るも、「あなたのことは好きになれません」という冷たい
ナイフのような一言に貫かれた痛みが思い出されるのみである。たまらずまた僕は愚行を始めた。そして次第に視界が狭くなっていく中で、僕はメールの受信を
知らせるランプの明滅を見た。
「今すぐ来て」
力を振り絞り、ケータイの画面を見た。そのメールは、スガマリから来たものだった。二年間連絡を交わしたこともなく、デートすらしたことのない、ただの
クラスメイトの一人にすぎなかった僕に、今更このメールである。普段の正常な脳みそならば、「こりゃおかしいで」と人間万歳の理性で止めてくれるのだろう
が、このときの僕は残念ながら野生への回帰モード、本能的に女を欲していた。
先程までヤケクソになっていたことも忘れ、無造作に選んだジャケットを羽織ると外に出た。
◇ ◇ ◇
どこへ行けというのか。
まだ肌寒い春の夜の冷たさが、僕から酔いと勢いを吹っ飛ばすと、僕が放り投げたレイセイなハンダンが取得物として届けられた。おかえりなさい、よく帰ってきた。
改めてメールを確認する。スガマリから、二通目のメールが届いていた。
「ごめん、さっきの間違えた」
ああ。
わかっていた。
昔もスガマリはそうだったっけ。間違えて別の人にメールを送ってしまって、周りを混乱させた。彼女は気付いていないだろうけど、それでバカな争いだって起きていたんだぜ。
「帰るか」
駅の明かりに背を向ける。寒さが骨身に染み入った。もうすぐ春だというのに。
一度振り向いてみる。駅の改札口には当然のごとくスガマリなんていない。いたとしても別に僕を待っているわけではない。しかし、そこに彼女がいて、笑っ
て僕の目を見て、あなたと会いたかったんだよ、高校生の頃からずっと好きだったんだよ、なんて、できすぎた話を僕はどこかで期待していた。期待なんて、す
るんじゃなかった。
全ての物語が、ハッピーエンドを迎えられるなんて、誰が決めた?
「でも、つながってる」
声がした。
私たち、つながっているね」
しかし、回りには誰もいなかった。幻聴だろうか。それでも、僕には確かに聞こえた。はっきりと、力強く。
「つながっているさ」
呟く。
「僕たちは、みんな、つながっている」
見えなくても、距離があっても、もう会えないとわかっていても、人は皆、つながっている。
着信を告げるメロディが流れた。電話越しの相手は実家の母親だった。そういえば、最近声を聞いていないような気がした。無理して体を壊さないように、という一言。
駅前の交差点で、車のクラクションが鳴った。目の前を通りすぎていく車。別に誰か知っている人が乗っているわけでもない。
母親が言葉を紡ぐ。
お金はあるの? しっかり勉強しているの? ちゃんとしたもの食べているの?
わかっているよ、ちゃんとやっているよ。
と、ぶっきらぼうに返事をするが、ちゃんとやっていないことは自分自身でもわかっていた。わかっていたからこそ、母親の言葉があまりにも優しくて、暖かくて、すぐそばにいるような気がして……ぴゅう、と吹いた冷たい風に身を震わせた。
「ありがとう」
呟いた。思わず。
母親が最後に何か言って、電話を切った。その最後の言葉はクラクションの音に消された。なんだったのだろう。
すると、世界の色が変わっていた。青から赤なんて、そんな次元の劇的な変化ではない。本当にほんの少しだけ、世界は色を変えていたのだ。ずっと前からそ
うだったのだろうか、気がついていないだけだったのだろうか。そんなことはどうでもいい、この世界の色が変わっていることに特に理由はないのかもしれな
い。しかし、僕はその理由をはっきりと自分の心の中に見出しているような気がする。
ところでスガマリは誰に対してメールを送ったのか。きっと、彼氏でもできたのだろう。少し胸が痛む。スガマリのことなんて、高校のとき以来、すっかり忘れ去っていたのに。馬鹿馬鹿しい、帰ろう。
家に帰り着いた。
玄関は開けっ放しだった。無用心すぎる。そうして自分が、本当に冷静さを欠いた状態で外に出たことを理解した。やはり獣だ。頭が痛い。もうさっさと横になってしまおう。そう決めた。
「ごめんね」
部屋の中に、女の子がいた。大きな瞳にふわっと柔らかく膨らんだ明るい茶色の髪、唇の両端が少し上がっている。しかし何よりも目を引くのは、白いセーターの上からでもわかる、その大きな胸だった。
それを見て、咄嗟に記憶が甦る。僕はこの女の子を知っている。少し大人っぽい雰囲気には変わっているが、間違いない。
「スガマリ?」
「今すぐ来て、じゃなくて、今すぐ行く、だった」
「なん――で?」
「ハッピーバースデー」
「は?」
もうなんだか、さっきから思考がまとまらない。しかし、スガマリのその一言が、今日が僕の誕生日で、そしてさっき電話を切る際に母親が僕に対して言った
言葉も、それと同じものであるということを思い出させた。そうだった。今日は僕の誕生日だったのだ。しかし、なんだってスガマリが覚えているのだろう、そ
して、どうして僕のところへわざわざそれを言いにやってきたのだろう。その疑問は、ヒジョーにわかりやすく、僕の顔に書かれてしまっていたらしい、スガマ
リは笑い、僕の目を見て言った。
「あなたと会いたかったんだよ、高校生の頃からずっと好きだったんだよ」
――なんて、できすぎた話。
全ての物語がハッピーエンドだなんて、誰も決めてなんかいない。
もちろん、ハッピーエンドで終わらない物語なんてたくさんあるだろう。だけど、この物語は、ハッピーエンド。
なのか?
本当に?
それは、僕がこれから見つけ出すこと。何故なら僕の物語は、つながっているのだから。
完
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