時は夕暮れ。
 オレンジ色に染まった空に、黒く点々とカラスの姿が浮かぶ。
 季節は秋。
 夏の暑さも、うたかたの如く消え去り、人の思い出の中にのみ残る。丘も大地も色鮮やかに、枯れる前に一時の衣装コンテスト。
 そして場所は弘法山。
 都会から特急一本で来ることが出来、なおかつ初心者でも気楽に山登りが楽しめる。観光地と化してしまった高尾山に対し、都会人にとって隠れた行楽の名所 となっている。
 基本的になだらかな坂が続き、急勾配や急斜面がないので、紅葉巡りには最適である。
 しかしそれは、基本的には、という話であることを忘れてはならない。山には一応コースというものが存在し、それはその通りに進んでいれば安全なように作 られている。
 そう、コース通り、ならば。

 ザザザ、と背が高く、真剣な顔付きで歩く痩躯の少年を先頭に、草むらを分けて歩く五人の少年たちがいた。
 彼らの背丈にはバラツキがあり、一番激しいのは先頭と二番目の間で、その差は二十センチほどだろうか。二番目から五番目までは徐々に高くなっている。
 全員、上に着ているトレーナーは違うものの、同じ服装、同じ鞄を背負い、一見しただけでそれが何かの制服であることがわかる。
 草むらの中に一本のもみじの木が立っていて、そこに先頭の少年が到達したとき、彼らは歩を止めた。
 先頭の少年が振り向いて後ろの四人の顔をさっきからずっと同じである真剣な顔付きで見た。何か問題でも生じたのだろうか。
「さて――」
 低い声が、静寂な山の中で響く。
「諸君、道に迷ってしまった」
 大問題だった。

Be Prepared!!


 1

「……で?」
 列の一番後ろ、二番目に背が高く、痩せているわけでもなく太っているわけでもない平均的な体躯の少年が、不機嫌そうに威圧的な疑問詞をぶつけた。
「どうするんだ、轍」
 轍(わだち)と呼ばれた少年は眉一つ動かさない。
「うむ、困ったな」
「それだけかよっ!」
 突然の大声に列の二番目にいた一番背の低い少年がびくりと肩を震わせる。彼はメガネをかけているせいもあるが賢そうな印象を周りに与える。しかし、幼い 顔立ちをしていて、まだ小学生ぐらいに見えた。
「おいおい哲治、笹井が怖がっているじゃないか。もう少しスマートにツッコミたまえ」
「好きでツッコミを入れているわけじゃないっ!」
 哲治、と呼ばれた少年は、なおも激しいツッコミを轍に入れる。その度に、メガネの笹井という少年は激しく肩を上下させるのだった。
「まあまあ、落ち着きたまえ。こういう時こそ文明の機器を使うべきでは無いかね?」
 そう言って轍がごそごそとポケットから取り出したのは、今や必須アイテムとなりつつあるケータイだった。
 轍はボタンを押すと、ケータイを耳に当てる。
「――む、おかしい。繋がらない」
 轍はケータイを耳から離し、液晶をのぞきこんだ。
「班長……圏外です」
「おや、本当だ」
 笹井の緊迫したボーイソプラノに、轍がやはり表情一つ変えず、まるで「糸屑がついていますよ」と言われたかのように反応した。
「哲治、私のはダメだ。君のを使ってくれ」
「……」
 哲治はやはり不機嫌そうに自分のケータイを取り出して、首を横に振った。
「無理だ、こんな山の中でケータイが通じるわけがない」
「むう……この頃は山にもアンテナが立っていて、いつでもどこでも電話が繋がるハズではなかったのか! 謀ったなド○○!」
「俺のはa○だ。それに、そもそもここは道じゃないだろ!」
「うむ、そうであった。しかし、一体どうしてこんなことになってしまったのやら……」

 時間は、今日の朝にまで遡る。
「行ってくる」
 十月八日日曜日、朝六時四十分、バタン、と重い音を立てて少年は家を出た。
 彼は上浦哲治、中学二年生だ。
 今日も朝早くから制服に身を包んで駅前に向かう。とはいっても、制服は学校のものではない。
 おうど色の丈夫な素材で作られた上下に、深い緑の下地にオレンジのラインが入ったネッカチーフをくるくると巻いて、それをネクタイのように首から胸の前 に下ろしてリングで留めている。
 背負っている鞄もまた丈夫な素材でつくられたハバザックと呼ばれる物だ。
 そして、頭にかぶるのは緑色のベレー帽。今どきは画家でもかぶらないので珍しいのか、道行く人の視線を引き付ける。
 そう、彼はボーイスカウトである。

 地元の涼ヶ丘駅に到着すると、すでにメンバーは揃っていた。一応集合時間には間に合っているハズなのだが「遅いぞー」とからかわれる。
 それを無視し、哲治は友人である村山轍の元へと行った。轍はいつもと変わらない真面目な表情をしていた。
「おはよう、随分とごゆっくりのようだが」
 轍の低い声が、いつもよりも一層低く聞こえた。
「時間には間に合っているだろ。そうカリカリするなよ」
「ギリギリ三分前だけどね」
 高く心地よい声が哲治の背後から嫌味ったらしく響いた。
 哲治が振り返ると、長い髪を後ろで結んだ、いわゆるポニーテールの女の子が厳しい表情で立っていた。彼女も哲治らと同様にボーイスカウトの制服に身を包 んでいる。唯一違う点は、右の袖につけられたワッペンに刺繍された動物の絵だけである。
「明日香か……」
「言っておくけど、今日は合同班ハイキングなの。いつもだったらのろまなイーグル班なんて放ったらかしにしておけばいいんだけど、きちんと集合してセレモ ニーをやらないと出発すら出来ないわけ。
 今回は間に合ったからまだいいけど、他の班に迷惑をかけないためにも、もう少し余裕を持って行動したらどう?」
 彼女――朝長明日香は早口で一気に言い放った。流石に哲治も気圧される。
 ボーイスカウト隊にはさらにその中で班が存在する。下は小学五年生、上は中学二年生まで縦に分割され、構成される。
 基本的に、班替えということはなく、一度入隊したらずっとその班員となるのだ。
 哲治らが所属するボーイスカウト涼ヶ丘6団には三つの班が存在する。内訳はイーグル班・チーター班・ドラゴン班で、哲治はイーグル班、明日香はチーター 班の班長である。
「……わかったよ」
「はい、気を付けてね。……というわけで、朝のセレモニーを始めましょ。今月は私たちチーター班が当番だから」
 スカウトたちは笛の合図にきびきびと集まる。班長を先頭に若い順に並んでいく。
 整列、点呼、報告、それら全てがスムーズに行われ、当番班の班長を中心にセレモニーが進む。
 セレモニーはシンプルだ。隊旗を掲揚し、ボーイスカウト日本連盟の連盟歌を歌い、保護者の役割を兼ねる隊長が挨拶をし、終了。基本的にすぐ終わる。
「よし、出発だ。諸君電車に乗るぞ。切符は既に私が買っておいた」
 イーグル班班長の轍が、中学生離れした口調で班員に指示を出す。無駄の無い動きだ。
 そうしてイーグル班は他の班と共に出発した。ここまでに問題はない。

 2

 ゴトゴトと揺られる電車の中で、緊張した表情を浮かべるメガネの少年がいた。彼の名前は笹井倫太郎、最年少の小学五年生だ。
 ボーイスカウトの入団・上進式は九月。倫太郎にとって、このハイキングはボーイスカウトに入って初めての大きなイベントだった。
「おい」
 突然声をかけられて心臓が口から飛び出そうになった。声の主は哲治だ。
 倫太郎は哲治が苦手だった。班長の轍に比べ、粗雑というか面倒くさがりで、しかもいつも不機嫌そうな顔をしている。
 大人しい性格で、学校では成績優秀な倫太郎にとって、哲治は逆のタイプに映るのだ。
「おい、笹井」
「は、はい……」
 倫太郎はビクリとすくみあがる。二次性徴を向かえているのと向かえてないのでは全然違う。まず身長が大幅に違う。倫太郎は哲治を下から見上げるから余計 に怖く感じるのだ。
「席空いたぞ、座れよ」
「あ……」
 見ると、確かに一人分席が空いていた。しかし倫太郎には一人だけ席に座るのがはばかられた。
「僕、まだ疲れていないのでいいです。上浦くんが座ってください」
 倫太郎にとっては気を利かせたつもりなのだろう。だが哲治には、
「いいから、年上の人間の心配なんてするなよ。これから先はたくさん歩くんだ、その時に疲れたなんて言っても知らねーぞ」
 と遠慮しているように映ってしまったようだ。
 倫太郎はこれ以上断るのも辛いので、素直に哲治の言葉に甘えることにした。ちょこん、と席に腰かける。
「ほいっ、じゃあこれよろしくな」
 すると、ヒザの上に哲治のハバザックを置かれてしまった。
「あーっ! まさか上浦くんはこのために……!」
「はっはっは、助かるなあ」
 一体何が入っているのか、と思うくらい、重くモモにめり込むハバザック。痛いと思われる。
 その時倫太郎は、やはり苦手なタイプだ、と思った。強く強く。
 ここまでにも、一部の人間を除き、問題はない。

 3

 弘法山のふもとに到着し、いよいよ登山口に入る。
 他の班とも電車は同じだったので、時間差をつけてそれぞれ登山口に入っていった。ちなみにイーグル班は成り行きで最後である。
「じゃ、お先に。あんまり最後に待たせないでよねーっ」
「余計なお世話だ!」
 チーター班班長の明日香が悠然と先に出発した。
 ボーイスカウトの行動は基本班行動だ。班長のもと、班員が力を合わせていく。だから他の班と合同で行動する意味はほとんど無い。
 単に今回はどの班も、弘法山で新入スカウト歓迎ハイクを行うので、名目上「合同班ハイキング」としただけで、集合と解散以外は班別行動だ。
 班長の指示で列をしっかりと組む。班長の轍が先頭でその次が最年少倫太郎、そして一年づつ上がっていき、最高尾が哲治だ。
 これは単に背の順、というわけでない。山登りの基本は一番遅い人にペースを合わせることだ。だから班長が先頭なのは班を導く者なので当然として、二番目 には一番遅い人、つまり最年少を置くのだ。
 だから班長も大事だが、一番後ろも、班員の様子を見る必要があるのでかなり重要である。そのため哲治は次長と呼ばれている。
「さて諸君、これから出発するわけだが、トイレに行きたい者はいるか?」
 流石、班長の鑑とも言うべき気配りを見せる。
「いないか?」
 班員は黙って轍の目を見る。
「いないのだな?」
 いよいよ出発か、と班員に気合いが入る。
「ではトイレに行くのは私だけだな。待っていてくれ」
 ぼしゅん、と気合いが抜けた。
 ここまでに問題はない……よ……ね?

 4

 山登りにおいて欠かせないことがある。
 それはどんなに簡単に登れる山であっても同じことで、事前準備と現在地の確認だ。
 当然、地図とコンパスは用意しておくべきである。例え案内板が用意されていたとしてもだ。
「さて、現在地の確認を行う。先ほどの道を北北西に進路をとったため――」
 轍が地図とコンパスを扱うのを倫太郎は尊敬と憧れの念を込めて見つめる。自分がわからないことを他人がやっていると、何でもないことでも大したことに思 えてしまうものだ。
「――轍、だからといって三百歩ごとに確認しなくたっていいだろっ!」
 哲治の不機嫌そうな声。
 そうなのだ、轍は万歩計で歩数を数え、三百歩ごとに進路と現在地を確認していたのだ。
「何を言うか哲治。いいか? 遭難してからでは遅いのだ。遭難してから『遭難しちゃったの?』『そうなんですよ』というやり取りが行われるほど笑えない事 態はない」
 班員の誰かが吹き出した。
「だからこうして一定の距離ごとに確認しておけば迷うことなどないだろう? 我がイーグル班は安全策をとる。一点勝っている九回裏二死、走者一人を置いて しまったら四番打者は敬遠だ」
 ほおー、と倫太郎が感心している。確かに説得力はあった。
「……地図を貸せ」
 哲治が強引に地図を奪う。見つめること五秒。
「おい、ここからしばらく一本道じゃないか。どこで迷うんだ」
「あ……でも班長の方法なら安全だと……」
 倫太郎が口を挟んだので、哲治は不機嫌エネルギーフルスロットルの視線を倫太郎に向けた。ひっ、と倫太郎が後ずさる。
「いいか? こんなもんはな、分岐点についたときや、わかりにくいところでやるべきなんだ。一々確認していたら時間がかかって仕方ないだろ?」
 哲治の意見はもっともである。実際、イーグル班は先を行くチーター班に比べ、一時間以上の差がついていた。
 だが轍は、はっ、と重大なことを思い出したような顔をして時計を見る。
 時刻は十三時五分を指していた。
「諸君、大変だ」
「な、なんだよ」
 轍がこういう言い方をするのは、決まって何か問題が起きたときだ。
「昼食の時間を五分過ぎている」
「今は地図の話だろうがあああ!」
 哲治が空をひっかく。
「うむ、チーズが美味い」
 すでに轍はサンドイッチにかぶりついていた。
 あああぁぁぁーっ! と頭をかきむしる哲治。
「ここは道のど真ん中だ! 休憩所は先だ! 誰のせいで遅れたと思っているんだ!」
「哲治、カルシウム不足だぞ。昆布食べるか?」
「なんでサンドイッチに昆布を持ってきているんだお前はよおおぉぉぉ!」
 山の中で、壮絶な漫才が繰り広げられた。
 もうこの時点で問題はありまくりだ!

 5

「日が傾いてきたな、夕日が美しい」
「あっはっは、それでまだ半分しか辿りついてないなんて……笑えるかっ!」
 哲治の盛大なツッコミが轍に入った。
 時刻は午後三時、集合時間が四時であることを考えると、確かに笑えない。
「まあまあ、落ち着きたまえ。確かにまだ半分だ。しかし、あくまでもそれは、このルートならば、の話だ」
「……? どういうことだ?」
「実は、半日コースというものが存在してな。それを使えばすぐに帰れる」
 轍が、地図を開いて見せる。なるほど、確かに半日コースは短かった。
「だから、我々はこの半日コースを使おうと思う」
「あの……班長、いいんですか?」
 おずおずと倫太郎が訊く。
「うむ笹井、覚えておけ。『時は金なり』そして『背に腹はかえられぬ』という言葉を」
 というわけでイーグル班の面々は、進路を変えた。半日コースへと。
 そして……。

「さて諸君、道に迷ってしまった」
 今に至る。

「ばっ……」
「婆?」
「ばっかやろおおおっ!」
 哲治が叫んだ。
「それじゃやっぱり轍! お前のせいじゃないか!」
「うむ、そのようだな」
「はあ……」
 哲治が頭を抱え込んだ。轍を止めておけば良かったと後悔しているのだろう。
「来た道も行く道もわからないなんて……」
「班長……遭難しちゃったんですか?」
「そうなんだ」
 しかし誰も笑わなかった!
「この地図のせいだ。半日コースなどどこにも無かったではないか」
 ぶつぶつと地図に文句を訴える、人はそれを責任転嫁と言う。
「……見せろ」
 哲治が、やはり強引に地図を奪った。そして目を通し、先ほど気付かなかったことに気付いてしまい、泥沼のような自己嫌悪に陥る。
「轍……これは弘法山の地図じゃない、大法山の地図だ……!」
 もはや誰も笑えなかった!

 6

「遅いっ!」
 イライラしながら集合場所である駅前に待つのは、チーター班班長朝永明日香だった。
「もう一時間近く遅刻なんて……! どれだけのろまなのよ!」
 もちろん怒りの対象はイーグル班の面々であるが、彼らはまだこの場所にいなかった。
 しかも彼らは今まさに遭難中。だから明日香が怒っていることなど知る由も無い。

 さて、そのイーグル班は……。
「山で遭難した場合、下手に行動をするのは危険だ。さらなる迷いに陥る危険性があるからだ」
 張本人轍が冷静に対策を立てていた。
「だが、まだ明るい。ここは、この木を目印にまっすぐ一定の方角へ三十分歩く。三十分あれば、山の中であっても片道三キロは進める」
「もし何も無かったら?」
「まっすぐ戻ってくる。そして別の方角へ歩く」
 轍の考えに皆同意し、早速行動に移す。
「待て、目印にこの木に何かをくくりつけておこう。そうだな……」
 轍はハバザックの中から、一本の木製の棒を取り出した。先には赤い布がついている。手旗だった。
「まさかこれが役立つ日が来るとはね……」
 哲治が呟く。
 轍は手旗を手旗が入っていた袋でしっかりと枝に結び付けた。
「よし、諸君行こうか」
 行動開始!

 7

「止まれ!」
 轍の切迫した声に、イーグル班のメンバーは思わず凍り付いた。
「そのままゆっくりと下がれ!」
 珍しい、轍の怒鳴り声に、メンバーはただ従うしかなかった。
「何があったんだよ……」
 哲治が轍に尋ねる。彼も轍がこう言うのは珍しいので驚いていた。
「危ない所だった。この先は崖だ」
 目の前では林が突然終わり、空が広がっていた。下界に街の灯りが輝いているのが見える。落ちたらひとたまりも無かっただろう。
 中心と定めた木から歩くこと三度目、日はすっかり沈み、頼りになるのは各々の持つ懐中電灯だけであった。
 しかし、崖の前に辿り付く、という恐怖はこれ以上の行動を困難にさせるのに十分だった。
 日の落ちた山は急激に冷え込み始め、彼らは体力の限界も感じていたのだ。
「班長……僕もう歩けない……」
 倫太郎が弱々しく地面に座り込んで言った。だが無理もない、十キロ以上も歩き続けているのだ。
「もうダメ……疲れた……」
 その時、哲治はキッ、と倫太郎をにらんだ。
「笹井! 弱音を吐くんじゃねえよ!」
 哲治のイラだった声が闇夜に響いた。倫太郎は思わず涙ぐむ。
「だって……だって……」
「哲治、やめろ」
「うるさい! 笹井、泣くな!」
「ひっ……」
 班員全員が息をのんだ。不機嫌な哲治は何をするかわからない。
「……なあ轍」
「……何だ」
 だが突然、穏やかな声で哲治は言った。それが倫太郎にとって逆に不気味に感じた。
「クーカイマニマニって、知っているよな」
 謎のワードを発する哲治。本当に何をするかわからない。
「ああ、ウンパッウンパッってやつか」
「そう、それだ」
 班員たちは、もうダメだと思った。頼りの最年長二人が壊れた。寒い山の中で、遭難という恐怖の中、もう心の中は絶望の色に染まっていた。
「歌うか」
「ああ」
 クーカイマニマニには節があった。二人は馬鹿らしく、しかし真面目に、歌を歌った。覚えやすい曲だった。良くわからない言葉が繰り返される、ただそれだ けなのに。
 始め、二人は一緒に歌っていたが、今度は輪唱しだした。かえるの歌がわかりやすいが、間隔をあけて同じ旋律を歌う歌い方である。
「おい、次はお前入れ、倫太郎」
 哲治、轍ときて、哲治は倫太郎を下の名前で呼んで次を歌うように促した。
「覚えただろ?」
「あ……はい」
 戸惑いながら倫太郎は轍の後に続いた、他の班員もさらにその後に続く。
 いくつものメロディーが紡がれる。最初は控え目な声だった倫太郎も次第に声を大きくする。何度も何度も、終わりのない歌は続く。星の瞬く空の下、月明か りに照らされて――。

「はあ……ああ、疲れた」
 数十回繰り返し、哲治が歌を止めた。それと同時に歌が止む。
「はは……この歌、俺らが入りたてで、スカウト歌集をもらったばかりのときに見つけて笑いながら歌ったよな。轍」
「……記憶にないな」
「なに田中角栄みたいなこと言っているんだよ。楽譜が読めなかった俺にメロディーを教えてくれたのはお前だろ」
「……哲治のはひどい歌だったからな。直してやったんだ」
「こう言っているがな、昔はこんなんじゃなかったんだぜ。俺と一緒にふざけて歌いまくっていたんだよ。そうしたら俺らの時の班長がキレてさぁ……それでも 歌っていたらみんな覚えちゃってイーグル班のクリスマス会の出し物になっちゃったんだよな」
 哲治がたかだか三年前のことだが、かなり昔のことのように話す。だがこの時期、少年の一年は大きい。倫太郎にとって、哲治がとても大きく見えるように。
「それで最優秀賞に選ばれたな」
 轍もずっと昔を思い出すように言う。
「楽しかった」
 そして呟いた。
「倫太郎、お前はまだちっぽけだが、俺と同じ立派なイーグル班の班員なんだぞ。だからお前が弱音を吐くと、全員が影響を受けちまう。だから苦しくても弱音 は吐くな、わかるな?」
 哲治は倫太郎の頭に手を置いた。もう、倫太郎は震えなかった。
「はい、上浦くん」
 その言葉に、哲治は黙って頷いた。そして空を見上げて立ち上がる。
「なあ轍、ここから俺たち街が見えるよな」
「見たらわかる。街の灯りが見える。だから何だ、電波は届いていない」
「そうじゃなくてさ……光が俺らに見えているってことは、こっちの光も向こうに見えるってことだよな?」
 哲治の言葉に、轍ははっと気付いたのか、険しい表情で勢いよく立ち上がった。
「そうか、光の信号だ!」
 轍が興奮しながらも冷静に言う。
「ああ、私としたことが何故気付かなかったのか……諸君、懐中電灯を持って街に向けろ。……そう、それから笹井は時計を見ろ」
「え? どうするんですか?」
「それで十秒ごとにカウントダウンをして合図を出せ。諸君は合図ごとに懐中電灯を一瞬だけつけるのだ」
 班員全員が頷いた。
「よし、始めろ」
 倫太郎が10……9……と数え出す。そして0になったとき、全員が懐中電灯を光らせる。
「轍、これはどういう意味がある?」
 哲治がスイッチを一瞬だけ入れながら尋ねる。
「世界共通のSOS信号に一分間に六回の割合――つまり十秒に一回合図をする、というものがある。この合図は何でもいいのだが、声や音よりも居場所が確認 しやすい光が一番頼りになる」
「へえ、モールス信号とかこういうのって、難しいイメージがあったけれど簡単なんだな」
「当たり前だ。これは一番大事な信号なのだから」

 それを始めてから、十分もしないうちに地元の捜索隊がやってきた。そのあまりの早さには轍も驚かされたようだ。
「遭難した可能性がある、と言うんで捜している最中だったんだ。おうい、見付かったよー」
 捜索隊のおじさんがトランシーバーに話し掛ける。ザッ、という雑音の後に了解という声が聞こえてきて、助かったことを実感した。
 倫太郎の瞳から涙がこぼれた。しかしその表情に、絶望の色はどこにも存在していなかった。

 8

 その後、彼らイーグル班のメンバーは下山することが出来、隊長をはじめとする何人かの大人に怒られたが、ハイキングは全員無事で終わった。
「まったく……のろまにも限度ってのがあるのよ! どれだけ待たせられたと思ってるの!」
 明日香の怒声が駅の構内に響く。それを哲治は「んー」とか「あー」と適当に聞き流している。轍のせいにしないだけ立派だ。彼女率いるチーター班の面々は その様子を離れて眺めていた。
「班長、朝永さんを止めなくていいんですか?」
 倫太郎が心配そうに轍に訊いた。
「いや、あいつらはあれでいい」
 しかし轍の反応は冷ややかだった。
「そうなんですか? 何だか仲が悪そうに見えますよ」
「ん――いや笹井。お前はまだわからないかも知れないがな、あれはあれで仲がいいのだよ」
「はあ……」
 倫太郎は首を傾げた。学校の算数よりも、轍の答えは難しいようだ。そしてズレたメガネをくい、と正した。
「ちょっと! 真面目に聞いているの!?」
「んー」
「もうっ、私たちがどれだけ心配したと思っているの!?」
 その言葉と同時に、電車がごう、と音を立てて入ってきた。哲治は聞こえなかったのか明日香に背を向け、そそくさと電車に乗り込む。
「――」
 明日香は口に手を当てて黙り込んだ。発車を告げるベルが空間を裂く。哲治はそんな明日香を不思議そうに眺めた。
「――乗らないのか?」
「の……乗るわよ! みんなもちゃんと乗って!」
 しかし駅には誰もいなく、すでにみんな乗っていた。明日香はそれを確認するなり、頬を林檎のように赤くさせて乗った。
 電車は、ゆっくりと動き出した。

 涼ヶ丘駅に着いたのは、予定解散時刻を遥かにオーバーした午後十時だった。
 終わりのセレモニーを手短に済ませ、解散の合図が出された。
「倫太郎」
 帰ろうとする小さな背中を、哲治は呼び止めた。倫太郎は素直に振り返る。
「はい、なんですか?」
「もう夜遅いからな、俺が家まで送ってやるよ」
 その言葉を受け、倫太郎は笑顔を浮かべた。今日という一日で、彼らの距離が縮まったことに疑いはない。
「ありがとうございます」
 哲治は本当は優しい人間だ。言葉遣いは乱暴だが、何よりも倫太郎のことを大事に思ってくれているのだ。

「あ、そうだ明日香」
 哲治は振り返り、明日香を見た。
「……何よ」
 明日香は今度は膨れている。もちろん無視されたことが原因なのだが、哲治は知るはずが無……、
「心配してくれて、ありがとうな」
 ……くはないようだった。
 明日香は幽霊でも見たかのような表情を浮かべた。
「う……別に心配していたのは私だけじゃないわよ。隊長だって、他の班員だって心配していたから言ったのよ」
「そうか……」
 哲治は明日香に背を向け、倫太郎の頭をぽん、と叩いた。そしてそのまま口を開く。
「『私がどれだけ心配した』って、聞こえたけどな」

 不思議そうに哲治を見上げる倫太郎に視線を返し、哲治と倫太郎は二人、ゆっくりと歩き出した。

 星明かりの空の下を。


 完