暖かい風が吹く。
 さわ、と木々の歌う声が響き、やわらかい旋律を奏でる。
 新しい空は青く広がり、草原には様々な色の絵の具をこぼしたように一面に花が咲く。
 そして、また風が吹く。新しい風、これからの風。
 ピンクの花びらが風と踊る。旋律に合わせ、舞い上がる。
 今年も、桜の季節がやってきた。


桜姫
memories are memories still never change in my heart......


 僕の通う学校は、桜並木の通りを抜けた先にある。新学期を迎え、新しい学年になってから、今日でちょうど一週間。
 桜はまさに満開。暖かい風の訪れと共に、一時のコンサートであるかのように一斉に咲き誇る。
 新しい季節の到来は期待に満ちていて、そして同時に切ない。特にとりわけ春は、出会いと別れの季節からか、一層僕の心をセンチメンタルのカラーで塗り潰 す。
「おはようっ」
 後ろから、つやのある短い髪の女の子がぽん、と肩を叩いて声をかけてくれた。さくらんぼ色の唇の端っこを緩ませ、学校指定のスカートを花びらのようにひ るがえす彼女の名前はヨシノ。僕の幼馴染み。
「おはよう、ヨシノ……」
「……どうしたの? 元気ないみたいだよ?」
「――ううん、気のせいだよ。行こうか」
 ……また、だ。ヨシノの顔を見ると、胸が痛くなる。心臓からじわりと血がにじみ出て、僕の体を赤く染める。それは、僕にしか見えない幻。
「うーん、やっぱり元気ないぞー? ちゃんと朝ごはん食べた?」
「た、食べたよ」
「ホントに? だったら元気出しなよっ、天気はいいんだからもったいないよー」
「……うん」
 今の僕には空元気が精一杯だった。もちろん原因は食事を抜いた程度のことではない。ヨシノの存在、それが僕を苦しめる。彼女の笑顔、心配そうに僕をうか がう仕草、ちょっと拗ねたように頬を膨らませる様子、その全てが冷たい刃となって僕の身を切り裂く。会えて嬉しい――ハズなんだけど。
 こんなことを思う僕は、愚かだろうか?
 桜の花びらが、風に舞った。

 ★

「ヨシノ、悪いけど先に行っていてくれないかな」
 中学校の校門まで来て、僕は足を止めた。胸の奥から痛みが込みあげてくる。
「ええっ、どうして?」
 ヨシノが小鳥のような動作で首を横に傾げる。
「ごめんね……ちょっと用事があるんだ」
「……」
 ヨシノは僕の目を疑り深く覗き込んできた。彼女の瞳に、僕の姿が映っている。
「……お願い、大丈夫だから」
 ヨシノはそれでも目を離さなかった。前に僕がズル休みをしたことを覚えているのだろうか? 針のムシロに座っている心地とは、恐らくこういうものなのだ ろう。
「いいよ」
「え?」
「……大事な用事なんでしょ?」
「あ……うん、悪いっ」
「今日は必ず来てね。約束だよ!」
 短い髪を風に乗せ、彼女はくるりと校舎に向き直った。僕は、それとは反対側へと駆ける。
 僕を信じてくれた彼女の瞳に、思わず心臓がズキリと痛んだ。
 もう、この日、僕はヨシノと会うことは無いだろう。僕はヨシノに嘘をついた。学校へは行かない。
 純真な瞳が、脳裏に焼き付いて離れない。良心の呵責が僕を苦しめる。
 だけど、仕方の無いことなんだ。僕はここにいてはならないのだから。
 走る僕の頬を、桜の花びらがそっと撫でた。

 ★

 傾いた太陽に顔の半分を照らされながら、僕は家へと帰りついた。
 ひどく疲れて、かばんを投げ捨てると制服のままベッドに倒れ込んだ。
 点滅する携帯電話。三通のメールを受信したことを知らせられる。
 二通は学校の友人、一通は着メロ無料サイトの広告。ヨシノからのメールはない。
 くるはずがないことなんて、初めからわかっていた。それなのに、僕は何かを期待していたのか。
 絶望のプールに身を投げ込んだ。
 枕に頭を乗せ、深くため息をつく。今さら後悔したって仕方がない。それに、僕は中学校に居場所なんて無い。
 だが、それでも、言い訳はこの気持ちを洗い流すことは出来なかった。
 まぶたを閉じる。
 僕は、現実を受け止めることを未だに恐れている。
 僕は、愚かだろうか?
 雲が空を覆い始めた。雨が降るかも知れない。

 ★

 夢を見ている。
 僕らが、遠く幼いころの夢だ。
 ヨシノと僕が遊んでいる。屈託の無い笑顔を浮かべてふざけあっていた。
 桜の木の下、乱れる花吹雪に包まれながら、朝から晩まで遊んだことを、鮮やかに覚えている。
 この頃は、まだお互いを意識することなんて無かった。ただ遊び相手としか思わず、それ以上の関心を寄せることなんて一度も無かった。だが、そのおかげで 僕らは仲良く出来た。
 その均衡が崩れたのは、中学生になった時だ。思春期に入った僕は、ヨシノを、ただの幼馴染み、遊び相手とは思えなくなった。
 ヨシノは女の子だ。だけど、僕は男だ。だから、ヨシノと僕は違う。
 嫌いになったわけでは無かった。ただ避けたかった。それでもヨシノは僕にかまってくれた。無視しても、逃げても、毎日僕の名前を呼んでくれた。教室が離 れても遊びに来てくれた。
 それが、僕にとって当たり前のことだと思っていた。
 でも、もうヨシノは――。
「私、嘘つきは嫌いっ。だから、もう二度と嘘はつかないでね」
 何年前に聞いたかわからないけれど、そんな言葉が、本棚にしまってあったアルバムを開いた時のように記憶としてよみがえる。
 ごめん――ヨシノ。だけど仕方がないことなんだよ――理由も言えないし、言ったら君を傷付ける――……。
「私、いつもの場所で待ってるから……」
 鮮やかに舞い上がる桜の花びらが、画面を白く染め上げた。

 ★

 ざあ、と鼓膜を叩く音に目を覚ました。
 机上の時計は午後七時をさしている。
 ベッドの上で横たわる僕は、制服のままだった。
 大きな欠伸をして起き上がり、窓の外を見ると、暗い空から強い雨が桜の花びらを叩き落とすように降り注いでいた。
 それを見た瞬間、何故か、それがヨシノの涙のような気がした。それともこれは僕の心に降る――。
 頬を伝う冷たい感触に気が付いて、僕は家を出た。
 桜が散り出す。花びらが舞う。

 ★

 昔、僕らがよく遊んだ公園は、家から歩いて十分のところにある。
 今も変わらずに桜の木は毎年咲き誇り、それに囲まれた広場も残り続ける。
 雨の中であっても、駆けていく僕ならば、五分もしないでたどり着く。加えて、跳ねる水を気にしなければ。
 そうしてずぶ濡れになりながら着いた広場には、先にヨシノがやって来ていた。
 散り行く花びらが、僕らを世界から切り取るように包む。
 ヨシノが口を開く。
「なんで……」
 彼女の頬を伝うのは――。
「なんでいつも約束破るの?」
 震えた口から溢れるのは、震えた声。
「中学校には行かなきゃダメだよ……約束破るの、これで三回目だよ? ねえ、どうして学校に来ないのか教えてよ……?」
 ヨシノの細い体は、今にも壊れてしまいそうな位、脆く見えた。
「ヨシノ、僕は中学校にはいけないんだ」
「……どうして?」
「だって僕は、もう高校生なんだから」
 雨が、さらに強くなった。
 傘もささない僕らの体は、さらに濡らされる。
「やっぱり……」
 ヨシノが呟いた。
「私、薄々感じていたんだ。だって、会う度に大人っぽくなっていくんだもん……」
「ヨシノ?」
「ねえ、今日は教えてくれる?」
 急に、ヨシノは強い表情で向き直った。先ほどの脆そうな印象は、もはや無い。
「私……やっぱり死んでいるんだよね?」
 沈黙。
 それは、僕が認めたくなくて、僕がヨシノを傷付けることになるだろうと思って避け続けていたことだった。
「お願い、言って」
 桜の花びらがどんどん散っていく。ヨシノの足は透明になっていた。
「ごめんヨシノ、言えなかったんだ。怖くて……」
 懺悔の言葉のように、僕は切り出した。
 ヨシノが死んだのは三年前――中学三年生になったばかりの春……交通事故で、突然この世を去った。
 葬式に行った。お墓を建てたのも見た。だけど、僕はヨシノがこの世からいなくなったことなんて信じられなかった。信じたくなかった。きっと、本当は生き ているって信じていた。
 すると一年後、つまり僕が高校生になった春、ヨシノが突然僕の前に現れた。生きていたのだと嬉しくなった。
 でも、ヨシノは本当は生きていなかった。気付くのは難しいことではなかった。ヨシノの姿は僕しか見ることが出来ないし、なによりも、ヨシノは一年前と同 じ、中学三年生のままだったから。
 そしてヨシノは桜が散ると同時に消えてしまった。夢だと思った。でも、あまりにもヨシノはリアルすぎた。
「そして、君は去年も今年も現れた……何も変わらないままで」
 僕は、ヨシノに全てを言った。普通ならば信じられないことだろうが、ヨシノは頷いた。雨は、もう止んでいた。
「そうだったんだ……ごめんね、私の方が苦しめていたんだね……」
 ヨシノの体は、半分以上が消えていた。桜は、あと僅かしか残っていなかった。
「私、伝えたいことがあったから……だから……でも、あなたは冷たくなった。無視するようになって、逃げるようになった……バカだよね私、嫌われたってわ かっているのに……」
 ヨシノは、一呼吸おいて、はっきりと言った。
「ごめんね、大好きでした」
 稲妻にうたれる、とはまさにこのことだろう。体が動かない。声が出ない、バカ、僕は――。
「これを言いたいがために、私はこの世界にとどまった……言うまでは消えてしまいたくなかった。でも、そのせいで私は傷をつけてしまった……」
「違う! 僕は……僕だって……ヨシノのことが……」
 ヨシノの体は、もう肩から上しか残っていない。彼女は桜が満開になると同時に現れ、桜が散ると同時に消えてしまう存在。だからその前に僕がやることは ――。
「僕も、ヨシノのことが好きなんだ……! ヨシノが可愛いから、好きになったから……だから逆に避けたくなったんだ。触れられなかったんだ……!」
 風が吹いて桜の花びらが一斉に散った。
「怖かったんだ……関係が壊れてしまうのが……それに、ヨシノが死んだってことも……認められなかった、認めたくなかったんだ!」
「――」
 ヨシノの悲しそうな顔を見て、僕はやっと気が付いた。ヨシノはここにいる、存在しているんだ。死んでいても、ちゃんと生きている。
「ごめん――」
「やっと、気付いてくれたんだね……」
 ヨシノは、ゆっくりと僕に近付いてくる。花びらが優しく舞い上がった。
 花びらに包まれた舞台で次に僕らがすることは決まっている。唇が触れ合う瞬間、桜の奏でる旋律が風に舞い、時間を止めた。
 止まった時間で僕らは永遠を手に入れた。しかし無情にも時は再び動き出す。
 でも、その僅かな永遠、それだけで十分だった。
「ありがとう」
 僕から離れたヨシノは、そっと囁いた。
「さよなら」
 彼女は涙目で一度頷き、そして笑顔を浮かべて――消えた。
 空には星が瞬き、桜は残らず散っていた。

 ★

 次の年から、ヨシノは現れなくなった。
 それでも、今年も桜姫の花は春に咲く。
 いつまでも僕の中で、僕と共に、
 ――旋律を奏でる。

 fin.