危険な親切
厚い雲が空を覆う夜だった。
繁華街から離れた閑静な住宅地で帰路につく若い男性は、道の端にしゃがみ込んでいる人を見つけた。
周囲を蛾がぶんぶんと飛び回る街灯がその姿を照らしている。長い髪の後ろ姿から、女性だと思われる。
「もしもし、大丈夫ですか?」
男性が気になって後ろから声をかけたところ、女性は首だけで振り向いた。長い黒髪の間からユリのように白い横顔が見える。
彼女は見たところ女性と言うには幼く、せいぜい十六、七の少女だった。
「はい……大丈夫です」
少女はかすれそうな弱々しい声で言うと、塀に右手をつきながらゆっくりと立ち上がった。
その様子を見て、杞憂だったかな、と男性は思ったが、すぐに少女は再びしゃがみ込んでしまった。彼女は胸を押さえながら苦しそうに肩を上下させている。
「本当に大丈夫ですか? 救急車を呼びましょうか?」
「いえ……よくあることですので――」
とは言うものの、どう見ても彼女は苦しそうで、しかも一向に良くなる気配が見えない。
それに、彼女をこんな人気の無く暗い夜道で放ったらかしには出来ない。最近の街は物騒で、先日も二件の殺人事件が起きたばかりだった。それでなくても痴
漢や誘拐に狙われる危険性もある。
「あの、よければ」
男性は二軒先のアパートを指差しながら言った。
「僕の家はそこなので、少し休んでいきませんか?」
男性は少女を支えながら自宅へ連れてきた。
「ありがとうございます。本当に助かります」
少し症状のおさまった少女がお礼を言うと、男性は頭の後ろをポリポリと掻いた。
「い、いえ、れ、礼には及びませんよ」
男性は自分の鼓動が高鳴るのを感じていた。明るい電灯の下で見る少女の顔は予想以上に素敵だったからだ。
「き、今日は曇っていて嫌な天気でしたね」
「……?」
「でも今晩から明日にかけて晴れるそうです」
「はあ……」
おかげで、彼は自分でもよくわからないことを言っていた。
少女は小首を傾げる。
「そ、そうだ、軽くご馳走します。体の具合が悪い時は食事が一番ですから」
男性はその場を誤魔化す目的も兼ねて台所に立った。
「あ、そこまでしてもらうわけには……」
「いいからいいから。僕も夜はまだ何も食べていないんです」
男性は鍋に水を入れるとコンロにのせて火をつけた。
「ところで、よくあることと言っていましたけど、どこか体が悪いんですか?」
男性が少女を背にしたまま話し掛ける。
「いえ、私のは精神的なことなんです」
「――というと?」
まな板の上で野菜を切る。トントンとリズミカルな包丁の音が響いた。
「最近上手く出来なくなったことがあるんです。前までは上手く出来たのに……」
男性は部活か習い事か何かのことだと思った。
ぐつぐつと鍋の中身が沸騰すると、野菜をごろごろと中に入れる。
「そのせいで、後輩にも先輩にもバカにされるようになって……少し気にしすぎなのかも知れませんが、おかげで上手く出来ないことを考えると胸が苦しくなっ
て痛くなるんです……。あ、ごめんなさい、聞きたくなかったですよね」
「そんなことないよ」
男性は塩とこしょうでスープに味付けをすると、振り返らずに言った。
「以前は上手く出来ていたなら、これからも上手くできるはずさ。今はちょっとしたスランプなんだよ。だけど一時的なことだと思うから心配はいらない。だか
ら気力を持ってやっていけば平気だよ」
男性は味見をすると、よし、と頷き、スープを皿によそい始めた。
「気力……ファイトですか」
少女は料理をする男性の後ろ姿をぼう、と眺める。そしてその瞳は何かを決心したように輝いた。
男性はスープをちゃぶ台に置き、そして何かを取りに再び台所へ戻る。
「そうさ、それがきっと君に足りない物。それと直した方がいいことがあるね、人の言うことを間に受けすぎてしまう素直さ……」
少女は料理ではなく窓の外の夜空を眺めていた。その背後に男性が息を殺して近付いていく。
「助けられたとはいえ知らない人にホイホイついて行ってしまうほどのね!」
突然男性は手に握っていた鎖で少女の首を絞めた。少女は目を見開く。
「ヒャハァ……これで三人目だ! ここまで上手くいくと楽しくなってくるぜ!」
男性は殺人鬼だった。
毎回このような手口で若い女性を部屋に連れ込んでは絞め殺していたのだ。
だが、少女には異変が起き始めていた。顔や手足からは銀色の体毛が生え、口には白い牙が生え揃い、頭の先からは三角の耳が突き出た。その姿を一言で表す
ならば、まさに狼である。
彼女は首を絞める鎖を断ち切ると、振り向いて仰天する男性を見た。
「ありがとう、貴方の言葉のおかげで再び上手く狼人間に変身出来るようになったわ。これでまた狼人間としてやっていける。それから――せっかくなのでご馳
走をいただきます」
そのまま、彼女は男性に喰らい付いた。
窓の外、晴れた夜空には金色の満月が浮かんでいた。
完
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