桜色の理想郷
我が相模家は、隣国東馬家の猛攻によりあっけなく滅んだ。
父上は燃え上がる城内で自刃。もちろん一人娘である私を場外へ脱出させた後のことである。
二十里の道を越えれば同盟国である隣国へとたどり着く。そうなればかくまわられ、身の安全が確保されよう。
女は捕虜になっても戦とは関係が無いので殺されはしない。だが、逆に殺されるよりも恐ろしいことが待ち構えている可能性がある。だからこそ、仇の国に捕
まる訳にはいかなかった。
しかし、籠の鳥として育てられた私には雪の道を二十里というのは酷であった。
護衛の武士でありながら乳兄弟である頼綱は追手から逃れる際に傷を負い、腹に巻いた包帯を朱色ににじませる。だが、そんなことは気にかけず、私を護り続
ける。
「姫、大丈夫ですか」
またである。頼綱のこの言葉を聞く度に、私の頭に血が上る。
「ふ……ふざけるな! そなたこそ……自分の心配をするが良い!」
すると、決まって頼綱は申し訳無さそうに目をうつ向ける。
「有り難きお言葉を感謝致します。されど、今は姫のお体の方が大事にございます」
そして、またこの科白が続く。
本当にふざけるな、怪我をしていて危険なのは自分の方だというのに。
「もう少しで国境を越えます。そうしたらもう大丈夫でございます」
淡々とした口調で言うこの男が、段々と腹立たしくなってきた。
だが何故だろうか、頼綱に護られているというだけで、城の中にいる時よりも安全だという気になるのは。
最初は、私は弱音ばかり吐いていた。目の前で城が焼け落ちるのを見て、生きる気力を無くしたのだ。
しかし、それを頼綱は励まし続けてくれた。そうしてここまでやって来たのだ。
私が弱音を吐かなくなったのは、そこで初めて彼の傷を見たからだ。
雪の森を抜けると、そこはなだらかな雪原だった。桜の木が辺りに数多く立っている。
春になれば、一面が桜色に包まれ、絶景を見ることが出来ただろう。しかし、まだそれには早すぎる季節だった。
雪に足跡を残して道を進み、なだらかな丘を登っていく。世界は白く輝いている。
「……姫、お待ちを」
突然、頼綱が緊迫した声を発する。
「どうした?」
「静かに……何者かに狙われています」
背筋が、寒さのせいだけではなく、ぞくりとした。追手からは逃れた筈だ、追撃は無い筈。では一体何に狙われているというのか。
頼綱は弓に矢をつがい、ぎりりと引き絞って、ひゅう、と奥の桜の根本を目掛けて射った。
「ぎゃあ!」
低く太い、男の断末魔が雪原に響き渡る。
「……頼綱!?」
「姫を狙われたのか……賊に囲まれました」
一人の男が殺されたことがきっかけとなり、即座に戦いが始まった。
周囲から迫る男の集団。十数人だろうか。誰もがみすぼらしい格好をしているが体力だけはありそうだ。
「頼綱! 大丈夫なのか!?」
「ご安心を、姫。姫には一切触れさせません」
頼綱は刀を抜いた。
一の太刀、二の太刀、と目にも止まらぬ速さで次々に賊が斬られていく。
「くそぅ……!」
一人の男が種子島と呼ばれる近代兵器を取り出した。鉛玉を打ち出して敵を穿つ、恐ろしい武器だ。素早く頼綱に標準を定める。
「頼綱!」
私の叫びによって気付いたのか、頼綱は刀で種子島を持つ男の首を貫いた。
一人が逃走し、残るは後三人。頼綱は強かった。
「があっ!」
「ぐはっ!」
真紅に染まる世界。二人を斬った頼綱は、後一人を残すのみとなった。
……しかし、最後の一歩を踏み出すことはなく、白い世界に倒れこんだ。
「頼綱……! どうした!」
「ぐふふ……どうやら血を流しすぎたようだな」
そうだった! 頼綱は手負いだったのだ。ここまで私を連れてくるのでさえ辛かった筈なのに、なんて無茶なことをしたのだろうか!
「さあて……あんた、相当な身分のようだな……」
「よ、寄るな無礼者! 私を誰だと……」
「誰だっていいさ、俺たちには関係ねえ……」
醜い顔をした男が迫ってくる。
私に逃げる力など無い、ただどんどん距離が縮まっていくのみだ。
男の生暖かい息が顔にかかる、あまりの臭いに堪えられなくなる。
私は一体どうなってしまうのだろうか。こんな男に捕まり、そして――
パン、と天を裂くような音が響いた。
生暖かいものが、私の顔に体躯に降りかかる。
目の前にまで迫っていた男は頭から血を流し、地に沈んだ。
呆気にとられる私が目にしたのは、血染めの雪の中に倒れる頼綱の姿だった。彼の手には種子島、先ほどの戦いで敵が落とした物だ。
「よ……頼綱!」
私は我を忘れ、一目散に頼綱の元へ駆けていく。
「頼綱……!」
「姫、申し訳ありません。せっかくのお着物を血で汚してしまいました」
「ば、馬鹿者! そんなことよりもそなたの傷を……!」
私は頼綱の腹を見ようとして彼を仰向けにした。すると、べたり、と赤い血に手が染まる。
「頼綱……? こんなに深い傷を……」
「申し訳ありません……不覚ですが、これ以上姫の護衛は出来そうもありません。ですがこの先はすぐに隣国……もうお一人でも安全でしょう」
「何故……何故そのような事を言う! 弱音を吐く私を励ましながらここまで連れてきてくれたのはそなたではないか! 何故ここで諦める!」
「姫、自分の体は自分でわかります。もう、何も動かないのです……」
頼綱は腹から血を流し続け、虚ろな目で宙を仰ぐ。
もはや、自分の血なのか、はたまた頼綱の血なのか、あるいは賊の血なのかわからないもので染まった手で、私は頼綱の頬に触れた。彼の頬は、氷のように冷
たかった。
「姫、美しい桜ですね」
ふいに、頼綱がそんなことを言った。
私は上を見る。横にある桜の木には、花はおろか、つぼみの一つもない。
「ああ……辺り一面桜が咲き誇り……何と言えばいいのでしょう。まさに絶景ですね」
「頼綱……」
「一度、こういった素晴らしい景色を、姫に見せてあげたいと思っておりました。これで……思い残す事はございません」
「馬鹿……何を言うのだ! そなたが見ているのは幻だ! まだ私は桜など見ておらん! 目を覚ませ! 私に本当の桜を見せてくれるまで死ぬな!」
しかし、私の叫びも虚しく、頼綱は目を閉じる。
「頼……綱……!」
嗚咽を噛み殺し、吐き出すように言葉を紡ぐ。
「そなたが生きていないと……桜など見ても意味が無いのだ……!」
頼綱はもう動かなかった。
冷たい風が吹いた。
この白い丘で、桜の木の下で、私は灰色の空を見上げる。
桜の季節は、まだ来ない。
完
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